
米 田 元 吉 郎〈26回〉
富山中学校第26回卒業の米田元吉郎は、累代にわたって神通川右岸の東岩瀬町においてバイ船(北前船)を経営してきた米田家の五代目である。その人柄には京都の公家風の美しい品格を感じさせるものがあった。それもそのはずである。
現在、国登録有形文化財「内山邸」(富山市宮尾村903番地)に生まれ育ったからである。内山松世(雅号は「外川」・元治元年(1864)〜昭和20年(1945)・衆議院議員・漢詩人等)の次男として、明治28年(1895)に生を享けた。その名は厳麿。明治43年(1910)四代目米田元吉郎・ツヤと養子縁組し(筆者の祖父、東岩瀬町・名誉助役犬島宗左右衛門が仲人)、「元二」と改名した。
昭和11年(1936)四代目米田元吉郎が死去し、元二は家督相続して五代目米田元吉郎を名乗ることとなった。すなわち五代目はその幼少期から青年時代に「内山邸」ですごしたが、その内山家は富山藩の「十村役」で、「豪農」とも呼ばれているが、その生活ぶりはむしろ京都公家のような美しい屋敷と庭園を有し、和歌・漢詩等に親しむ文芸の伝統を濃厚に身につけた人々の間に育ったのであるから、おのずから、ある種の貴公子風の風格が身に備わっていたのである。他方、岩瀬米田家は北前海運の実業の家である。いわば家風がまったく対蹠的であるといってよい。一方の内山家は貴族風の「美」と「学芸」に生き、他方、米田家は質素な「実業」の家だ、といってよいからである。

内山邸(屏中門)
北前海運は江戸末期の天保年間にピークを迎えているが、明治期に入ると電信が発達して「価格差」を活かした商売が次第に衰退に向かった。さらに鉄道などの交通インフラの革新も激しく進んでいった。つまり、産業の巨大なイノベーション期に突入したため、北前船海運は明治20年代に入ると全国的に衰退していく。米田家は、蓮町の旧制富山高等学校設立のために、巨額寄付した馬場ハル刀自に次いで、「岩瀬五大家」の二番目に位置づけられているが、蓄積された資本は地主資本と金融資本に変貌していく。米田家の所有する土地は「富山県一」といわれる膨大なものであり、また「岩瀬銀行」等の資本ともなった。その分、社会的責任も大きく、その土地の一部は旧制富山高等学校の敷地として寄付、岩瀬と富山を結ぶライトレールの前身である「富岩鉄道」の敷地のほとんどが米田家の提供によるものであった。富岩運河の土地も米田家の土地であった。富山港の近代化のためにも尽瘁したことは長く特筆記憶されるべきである。
五代目米田元吉郎は上新川郡東岩瀬町が富山市と合併した昭和15年(1940)の当時、東岩瀬町長として苦労した。長男元郎病死、次男英之介は昭和20年(1945)フィリピン戦線で戦死した。戦後の混乱期にあって広大な農地を「農地改革」で失ったにもかかわらず、公的任務に励み、初代富山県公安委員長、第十代富山県商工会議所連合会長として社会的責務を果たした。金融家としての最大の仕事は今の富山銀行の前身である「富山産業銀行」を創設して、富山県の金融事業を発展させたことである。朝鮮戦争後の深刻な不況期に、彼は地元中小企業が必要とする資金対策を考え、昭和29年にこの銀行を設立したが、社名変更を余儀なくされ、現在の「富山銀行」とし、創設時から昭和50年まで頭取、会長を務め、堅実な経営に励んだ。その生涯は波乱に満ちていた。昭和55年に没したが、四男一女に恵まれ、三男寿吉(旧制富山高等学校、京大卒。実質的には六代目元吉郎)が二代目富山銀行頭取・会長となった。「富山銀行」は「リージョナル・バンク」として発展を続けている。 (犬島肇)
参考文献:越中人物誌』越中人物誌刊行会・昭和16年。『富山銀行五十年史』平成16年。