
川 崎 順 二〈28回〉
地域医療や、富山県教育に貢献
川崎順二は、明治31年(1898)八尾町(現富山市)生まれ。大正5年(1916)富山中学校を卒業後、金沢医学専門学校(現金大医)を経て、八尾で病院を開業し地域医療に尽くすとともに、結核菌研究で医学博士、富山県医師会長や富山県教育委員会教育委員長に就任するなど、医学や教育で社会に貢献した。昭和46年(1971)没。本年が五十回忌となる。
おわら再興、郷土文化に捧げた生涯
おわら風の盆は、元禄15年(1702)八尾町創建に関わる重要文書を取り戻したことを祝い、町民が三日三晩歌い踊ったことに始まり、やがて二百十日のに、風神の鎮魂を願う祭りとなった。明治時代以降、衰えつつあった「おわら風の盆」を生涯にわたり私財をかけて再興し、日本を代表する伝統芸能に成長させたのが川崎順二であった。自宅と病院跡は、現在「八尾おわら資料館」となっている。
多彩な文化人や民衆の英知を生かす
青年医師となった順二は、仲間と芸術文化を語り合う「会※1」のリーダーとなり、大正8年(1919)からおわら研究を始めた。大正13年「民謡おわら研究会」理事長となると、文部省民謡調査員の本居長世をはじめ、翁久允※2らが仲介した多くの文化人を自宅に招き、おわらを味わってもらい、感想や詩歌、素描などを自由に記してもらった。劇作家の長谷川伸、詩人の野口雨情や佐藤惣之助、音楽家の哲夫など錚々たる文化人が名を連ね、後に「帳」と名付けられた。
画家で歌人の小杉放庵に、新しい歌詞を依頼し、「八尾四季」が生まれ、この歌詞にふさわしい踊りを創るため、東京から日本舞踊の師匠若柳吉三郎を招いた。 昭和4年の東京の富山県物産展では「三越ホール」(現三越劇場)で披露し、大きな反響を呼び、「女踊り」「男踊り」として今日まで継承されている。
これを契機に、順二を会長とする「越中八尾民謡おわら保存会」が結成され、広く新しい歌詞を公募し、時代の気風を盛り込み、伝承芸能からの脱皮を図った。
おわらと川崎順二に関連する新研究
昨年は、注目すべき研究結果が次々に発表された。 和光大学の長尾洋子教授は、克明な調査に基づき、おわらが20世紀前半に近代詩運動などと連動し、近代ナショナリズムのもとで展開した過程を、学際的視野から捉え※3翁久允賞(令和元年度)を受賞した。順二や翁久允らの大きな役割も描き出されている。
また、静岡県立大学の細川光洋教授は、近年発見された吉井勇※4の八尾疎開の頃の日記や書簡から、順二が戦時中、小谷契月ら仲間とともに、大正ロマンを代表する耽美的な歌人吉井勇の疎開を引き受け、様々な交流があったことを丹念に明らかにした。※5
地域文化の可能性を世界に伝える
戦後も順二のもとには、作家の井上靖や五木寛之、詩人の白鳥省吾、舞踊家の石井獏、国文学者の池田彌三郎などが訪れ、「鱈福帳」に足跡を残している。
昭和27年(1952)の全国民謡舞踊大会で、おわらが優勝すると、昭和28年にフランスのパリで開催されたユネスコ国際民族音楽会議・音楽舞踊祭に日本代表として参加した。「おわら」は、民間の伝承芸能を、新たな伝統芸能に進化させたことで、地域文化の可能性を世界に知らしめたと言える。
こうした功績から、順二は昭和30年に全日本民謡連盟会長となり、全国の民舞踊の発展にも寄与した。

八尾おわら資料館
八尾おわら資料館 三月末から新展示
先の「鱈福帳」をはじめ、多くの貴重な資料を保有する「八尾おわら資料館」は、近年の研究に基づいて本年三月末に新展示となる。先人の思いにふれることができる場であり、ぜひ訪れてほしい。
参考文献:『越中人譚Ⅲ』「川崎順二」神島達郎 ㈱チューリップテレビ 平成20年/『おわらの記憶』おわらを語る会 桂書房 平成25年
※1 甚六会 甚六はお人好しのこと。「総領の甚六」は長男を戒める言葉。会に詩人小谷契月、板画家林秋路らがいた。
※2 翁久允(1888~1973) 富山出身の作家・ジャーナリスト・郷土史研究家 北米移民地文芸を創始 「高志人」発刊(19回卒)
※3 『越中おわら風の盆の空間誌 <うたの町>からみた近代』長尾洋子(和光大学教授)ミネルヴァ書房 令和元年
※4 吉井勇(1886~1960) 歌人、歌集『酒ほがい』など多数。「ゴンドラの唄」作詞「命短し恋せよ乙女」の歌詞で有名。
※5 『吉井勇の戦中疎開日記(上)(中)(下)』細川光洋(静岡県立大学教授) 平成30年~令和元年 「吉井勇と高志びとたち ~戦中日記より」細川光洋(静岡県立大学教授) 北日本新聞 平成30年~平成31年