
石 坂 豊 一〈4回〉
「議会政治の歩みと石坂豊一展」(平成13年 滑川市立博物館 チューエツ)より掲載
高い志を抱いて
石坂豊一は明治7年(1874)に中新川郡東加積村大崎野(現滑川市大崎野)で10人兄弟の末っ子として生まれた。中学へ進学することは家計上困難であったが、姉の力添えで25年(1892)に富山中学を卒業した。
翌年、税関監吏補試験に合格し神戸税関に勤務した。勤務の傍ら同志社大で学んだが、27年、同志社大を中退し郷里へ帰った。28年、下新川郡役所書記後、西砺波郡役所や中新川郡役所書記となり、大正5年(1916)に富山県理事、8年には庁事務官となった。
13年(1924)5月から昭和17年4月迄は衆議院議員として、19年3月から21年12月迄は富山市長、翌年4月から34年(1959)5月迄は参議院議員を務めて、45年5月に96年の生涯を終えた。
大きい富山中学時代の影響
富山中学には当時全県から秀才が250人集まっていた。先輩には枢密院顧問官の南弘、英語学者で旧制富山高校長となった南日恒太郎、同期には文法学者で文化勲章の山田孝雄などが学び、学生は政治論を交わすなど生き方の礎を築いたと述懐している。
高等学校への進学は許されなかったが、日本は海外へ進出すべきとの考えから、当時の秋山恒太郎校長とも相談し税関吏を目指した。県会議員の義父の助けを得て神戸へ行った。
神戸では新聞配達等で生活費を稼ぎ、神戸税関監吏補試験に合格したが、実際の採用迄は英語塾に入り夜学で刑法や国際法を学んだ。日清間の緊迫した国際情勢から、明治27年徴兵検査を受けるため富山へ帰った。神戸での生活は国際的視野を広げた。
富山では郡役所の上司に相談したところ「国会議員をねらえ」と言われ、早稲田大や中央大の通信教育(校外生)を受け勉学に励んだ。
富山県の官吏時代・米騒動
大正2年婦負郡長の時、畜産振興を図ったが翌年の洪水で全滅し借金の返済に苦労した。その後山田・井田川の河川改修工事に努め、治水関係で大きな成果を収めた。5年には富山県理事、内務部勧業課長となってからは、富山市磯部の桜並木や五福への橋の設置など多くの事業を行った。
7年に植林の視察を行っていた折、北陸線に乗って米騒動を知り対策に奔走した。北海道で漁をしていた滑川の漁師達が不漁で家へ送金出来ず、富山での米の値段が倍増し母親達が騒いだ事件である。対策として東京へ出向き安い外米を割り当てて貰い、高い県産米を北海道で売り対処したと記されている。
樺太庁赴任と政治活動
富山県官吏時代の上司の長井金次郎が、大正8年樺太庁の長官となった。長井の要請で樺太で事務官として5年間過ごした。樺太は日露戦争で南半分が日本領になったが、その開発は遅れていた。築港整備や鉄道の敷設、教育改革、金融事業の振興等に当たった。
13年5月の第15回総選挙で富山一区から出馬して衆議院議員に初当選し、昭和17年4月まで5回当選し活躍した。この間、常願寺川直轄砂防や治水・植林・高山線開通、電力開発、富山県立短大の新設など成果を挙げたが、広い道路や公園の設置は樺太行政の名残であった。
昭和8年(1931)の春の通常国会開催中に、鳩山文相の下で勅任文部参与官として活躍した。
富山市長時代と参議院議員の頃
昭和19年3月、71才で富山市長に選任され、21年の12月まで2年8ヶ月務めた。20年8月2日、富山空襲で市内は灰燼に帰し、富山県庁内で執務し戦災処理や新都市計画の復興作業に追われた。
22年4月には参議院議員に立候補し73才で初当選し、85才になった34年5月まで務めた。39年4月に戦後初の生存者叙勲で勲一等瑞宝章に叙せられ、43年滑川市名誉市民に推された。
参考文献:「時代を拓いた人々ー富中・富高人物伝ー」(富山高等学校同窓会)/「石坂豊一先生を偲んで」(昭和59年 実行委員会 桂書房)/議会政治の歩みと石坂豊一展記念講演 滅私奉公の人「豊一」(平成13年 石坂誠一 チューエツ)/「議会政治の歩みと石坂豊一展」(平成13年 滑川市立博物館 チューエツ)/「富中・富高九十年の歩み」(昭和50年 富山高等学校同窓会)