
鹿 熊 久 安 〈14回〉
若くして家を継ぎ、日露戦争に従軍
鹿熊久安(明治15(1882)年~昭和19(1944)年)は、富山県下新川郡山﨑村(現朝日町)出身の実業家、政治家である。
富山中学には第二学年まで修業したが、父や兄を相次いで亡くし、17歳で家督を継ぐという大きな責任を担うことになった。20歳から25歳までの5年間の兵役で、明治37(1904)年8月から明治39(1906)年1月まで日露戦争に従軍した。この間に、指揮者として一隊を率い、敵地を騎馬で駆け抜け奇跡的な生還を遂げるなどの武勲から、金鵄勲章を受賞したが、手柄話を口にされなかったという。
日露戦争から帰還後、賭博が村民の生活に与える悪影響を憂慮し、青年団を新たに組織、団長として賭博や喧嘩などを禁じた。この更正活動に多くの村民が協力し、賭博行為は一掃されたという。
こうした十代、二十代からの責任ある指導者としての決断の経験が、多くの人が証言する人間的な深みのもととなったのではないか。
故郷の村の発展を生涯をかけて実現
明治42年28歳で村会議員、大正7年に37歳で山㟢村村長となると、先頭に立ち事務刷新や村政全般の指導にあたった。大正8年には、自治会興共励会を設立、教育徹底、民力充実、風俗改善、体位向上、庶政刷新などを掲げ、発展に尽くした。
「農」をもとに、治山・治水に取り組む
農を根本にし、洪水被害から守り豊かな水資源を確保するため、森林の涵養や治水事業にも活動を広げた。大正元(1912)年の豪雨で二級河川の小川の大洪水で田畑が流失した際には、復興計画と農地整理により、以前に勝る美田となったという。
灌漑・発電による環境調和の村づくり
大正9年には山㟢村農会長となり、終生、農村指導にあたった。棚山水田の灌漑のため用水池改修と拡張、機械化や産業組合設立など近代化を図った。
また、同年、水力電気株式会社を創設。用水路を利用した小規模発電を手がけ、文字通り「明るい村づくり」を行った。経営者として「地方民の利益を図るよう、設備拡充に利益金を使う」と口にしたという。
県政に関わり、電力国家管理から県を守る
大正8(1919)年に、富山中学同期の松村謙三などとともに県議会議員に初当選。4期16年間を務め、県議会議長にも選出された。
富山県は水害の克服のため、明治以降は官民が協力し、水力発電に大きな労力を払い「災いを転じて福」としてきた。ところが昭和13(1938)年、国会に上程された電力国家管理関係法の原案では、県や民間が長年築いた財政上の成果が失われることが懸念された。この際には、県政調査会の電気事業特別委員長として関係省庁に精力的に働きかけ、県への財政保証を勝ち取ったのだった。
地域振興に努めた晩年
多岐にわたる活躍は広く知られ、郡農会長、県農会長を歴任し、帝国農評議員の要職にも就いた。また、県森林組合連合会長として県内の林業の発展や林道網を整備し、砂防協会富山県支部長として治山治水に熱意をもって努めた。晩年、県政を退いてからは、村の発展に専念した。
日本初の自然保護団体の創設に関わる
スキーや登山を趣味とし、大正14年にはスキー倶楽部を組織し、冬季の村民の運動を促した。
朝日岳と白馬岳は古来「大蓮華山」と呼ばれ、地上に咲く蓮の大輪に喩えて、敬虔な思いが寄せられていた。その自然を守り育てる「大蓮華保勝会」を昭和3年に設立した。日本初の自然保護団体であり、現在まで、朝日小屋や登山道の整備、ブナ林の保全など、さまざまな活動を行っている。
敬虔な信仰から昭和9年に新嘗祭の供御米奉耕者となり、昭和16年には忠霊塔建設に取り組んだ。
子どもから大人まで 教育の充実を図る
教育に展望をもち、小学校の友人の高等師範学校の学費を支援するなど、陰徳を積んでいる。
大正5年には少年少女団長、昭和15年には青少年団長として、また、県内初の青年学校を創り、独立校舎を建て師弟同行の教育を行った。小学校にもよく顔を出し、校舎や設備の整備を促進した。
大正11年から、学校や役場の職員による「自修会」を組織。毎月10日の早朝に集い意見交換し20年以上の間、終生一会員として参加されたという。先の大蓮華山保勝会もここから生まれた。自ら行動し率先して学ぶリーダーであったと言える。
戦時中にも関わらず、逝去後わずか2ヶ月で『鹿熊久安翁』(富高図書館蔵)、各界から50人余が寄稿した100頁もの追悼集が編まれたことからも、多くの人から慕われ惜しまれたことが推し量られる。
子息に鹿熊安正氏(元県議会議長・参議院議員)、内孫に鹿熊正一氏(元県議会議長・84回)がおり、地方自治への熱い思いは、脈々と継承されている。
(木下 晶 84回卒)