-新研究方法を開拓し続けた民俗学者-

大間知 篤 三 <30回>

大間知民俗学→家なるもの

大間知篤三は、明治33年(1900)4月9日、富山市愛宕町に生まれた。民俗学者大間知篤三父は6代目大間知円兵衛、母はキク。家業は呉服屋で、父は富山橋北銀行の頭取でもあった。しかし、6歳で父は亡くなった。夫婦の縁の薄かった母は義理の長男7代目円兵衛を大切に育て、旧家大間知家を守り続けた。大正7年に富山中学校(現富山高等学校)を卒業し、第四高等学校(現金沢大学)に入学した。杉山産七・中井精一・密田良二ら富山中学出身の四高生を中心として、大正11年(1922)4月に文芸誌『ふるさと』第1号が発刊され、第15号まで続いた。篤三も創刊号から同人として詩・小説・翻訳などを寄稿した。

篤三は、大正12年(1923)4月に東京帝国大学文学部独文科に入学した。在学中、篤三は社会主義学生運動の中核的団体であった新人会の有力メンバーとなり、その幹事長まで務めた。昭和2年(1927)に大学を卒業し、その年の暮れには1年志願兵として金沢連隊に入隊した。しかし、翌3年3月に思想上から治安維持法に違反するとして検挙され、3年の刑に服役した。出所後、しばらく富山で静養したが、上京して大宅壮一主宰の「千夜一夜翻訳団」に参加した。時あたかも昭和8年(1933)9月14日、柳田国男の「民間伝承論」の講義が始まった。以後12回行われ、篤三は全講義に参加し、柳田門下生として研究に専念することになった。房州白浜、伊豆神津島をはじめ伊豆の島々に実地調査に出掛けた。これに併せて社会主義運動から転向した。昭和14年2月には、辻政信の推薦により満州新京(現中国吉林省)に設立された建国大学に赴任した。ドイツ語・民族学・原始信仰研究などを担当した。この地で家族形態や婚姻制度を研究している時に、聞き取りによる語彙調査中心の研究(共時的)から事実と事実との関連に焦点をあてた文献にも目を配る社会調査中心の研究(通時的)へと変化し、大間知民俗学を樹立しつつあった。

戦後引き揚げてきてからしばらく富山に居を構えたが、昭和23年(1948)には柳田邸内に設立された財団法人民俗学研究所の所員になった。篤三を中心として『民俗学辞典』が編纂され、個人的には名著『八丈島―民俗と社会―』を上梓した。だが、昭和28年(1953)の春、過労による肺結核のため研究所を退かねばならなかった。師と仰いだ柳田との研究方法の違いがそうさせたとも言われており、以後日本民俗学会の会合にはほとんど顔を出さなかった。しかし、勤務先の中央大学では、源氏物語をはじめ古典の民俗学的研究を進めた。肥後和男・浅野晃・中平解・三谷栄一ら多士済々の集まりであった。この研究は、常民文化の過去を復原するには古文書から目を閉ざしてはならないとする大間知民俗学の新しい研究と言わねばなるまい。

昭和43年(1968)病床に就き言葉を発することができなくなった。研究が不可能になった絶望感に苛まれながらも、篤三は学びの心意気を喪失させることなく、昭和45年(1970)2月25日この世を去った。享年69歳。篤三の研究内容は、婚姻習俗や家族形態といった「家なるもの」に注目したものが目立つのは、ことによったら大きな家を献身的に守って一生を送った悲しくも美しい母キクの姿が篤三の心の奥から去ることがなかったからであろうか。

篤三の取り持ちで結ばれた大宅夫妻、壮一は「彼はその名の如く温厚篤実な人柄で、彼を知るすべての人から親しまれ、敬愛された」と讃えている。また昌子は「現代のいやらしい面には少しもおもねらず、神のような人格者でした」と偲んでいる。昭和50年(1975)に、仲間の研究者たちによって『大間知篤三著作集』6巻が刊行された。富中富高文庫にも納められている。富高生であったら、この中の1冊でもよいから手にとって、先輩の築いた本物の学問の重みを感得してほしいものである。
(神島 達郎・66回卒)

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