
細 野 長 良
細野長良は、富山市相生町に細野長元の次男として生まれた。明治31(1898)年に富山中学校を中退し、同35年同校補修科入学後、9月には第六高等学校に入学、同41年京都帝国大学独法科を卒業し名古屋地方裁判所に勤務し、裁判官としてのスタートをきった。細野は富山藩士の家に生まれたが、若い頃は貧しかったため、実業家の金岡又左衛門から資金援助を受け、苦学を重ねた。昭和4(1929)年6月13日、就学の恩人金岡又左衛門の葬儀に出席し、金岡家奨学出身総代 大審院判事 細野長良として弔辞奉呈している。
昭和21(1946)年2月1日、細野長良は最後の大審院長に就任した。その後、新憲法施行に際して最高裁判所長官に就くことが期待されていたが、人事をめぐる法曹界内部の対立などのため細野長良の最高裁判所長官就任の夢は果たせなかった。しかし、戦後、GHQで共に作業に加わったオプラー氏は、細野の葬儀に際して、弔辞のなかで細野の勇気、精力・誠実さについて触れ「細野が日本の司法権の独立に貢献したことは長く歴史に残ると確信する」と。
ところで、こうした裁判官細野の正義を貫くための勇気と自信はどのように育まれたものであろうか。一つに北陸人らしい忍耐づよさ、二つには、ドイツ・オーストラリアに留学や法官として4年間(大正9年~)イギリスでの勤務など海外留学により、イギリス流の個人と自由の尊重を身につけたこと、そして、才能と身分に恵まれながらも経済的に奨学資金に頼らなければならない境遇により、その視線を民衆や弱者に向け、その実現のために「司法の独立」を実現する必要があると考えていたことなどが挙げられる。
細野長良は、任官競争に敗れ、都下吉祥寺で悲運の生涯を終えたのは昭和25(1950)年正月1日であった。旧憲法下での最後の大審院長(現在の最高裁判所長官)であり、行政からの司法権の独立を実現させた。
司法権の独立を実現すべく二つのエピソード
細野の司法権の独立の強い思いとは、遠く明治の頃からの問題となっていた「司法権の独立」をかかげることであった。裁判所が政府や軍部の支配下に置かれる状況にあった戦前、戦中から司法の独立を訴え続けた、細野の何者にも屈しない正義を貫く姿勢のなかで当時の法曹界でも讃えられた二つの「事件」を紹介する。
一つには、戦局激しい昭和19(1944)年春、東条英機首相は全国裁判所長官合同会議で演説、裁判官の自由主義的傾向を痛烈に非難し、「諸君には特別の覚悟が必要だ。これに応じなければ非常の措置をとる用意がある。分かったか」と強言した。これに反発して、広島控訴院長であった細野長良は「内閣総理大臣は、我が国に於ける司法を監督すべき機関に有らず、…陛下の名に於いて為す裁判に対し、行政機関より批判又は示唆を加うる如きは、帝国憲法の厳として存する限り断じて為し能はざる所なり…」として首相と法相に抗議文を送りつけた。軍政下では命がけの勇気ある行動だったとして讃えられた。
また、天皇が東京霞ヶ関の大審院に行幸した時、司法省が綿密な計画を立て、司法大臣が天皇を先導して大審院庁舎を案内するということであったが、大審院判事であった細野の強硬な反対論で司法省の計画そのものが御破算となったことがある。「天皇が行幸されるのは大審院であって司法省ではない。大審院長が先導申し上げるべきで司法省の出る幕ではない。」正義派らしい細野の言葉である。その後、細野と司法省との間に確執が残った。
主な参考文献
(山本裕司『最高裁物語』・日本評論社)
(金岡又左衛門翁追悼会編『金岡又左衛門翁』)
(『越中人譚』第十八号・株式会社チューリップテレビ)
米原 寛(73回)