理工学部から、美術館へ

略歴
金沢21世紀美術館館長
1956年 富山県生まれ、石川県金沢市在住
1980年 早稲田大学理工学部金属工学科卒業
1980年4月より建設準備室を経て富山県立近代美術館に勤務した後、
1992年1月より国立国際美術館(大阪)に移り、主任研究員、学芸課長を経て、
2013年10月より同館副館長兼学芸課長となる。
2015年4月より愛知県美術館館長を務めた後、
2017年4月より金沢21世紀美術館館長となる。
国立国際美術館で担当した主な展覧会に、「榎倉康二」(1994年)、「内藤礼」(1995年)、「瀧口修造とその周辺」(1998年)、「小林孝亘」(2000年)、「安斎重男の眼 1970–1999」(2000年)、「OJUN」(2002年)、「畠山直哉」(2002年)、「オノデラユキ」(2005年)、「絵画の庭—ゼロ年代日本の地平から」(2010年)、「あなたの肖像—工藤哲巳回顧展」(2013–14年)などがある。
絵画、彫刻のみならず、映像や写真にも関心を持ち、恒常的に現代美術の現場に足を運んでいる。

堀川中学3年生の時、富山高校が火事になり、焼失しました。自宅が太郎丸にあった(今も実家があります)ので、家が延焼するのではないかと思われるほどの火の勢いでした。私はミシンを持たされ、親戚の家まで避難しました。なぜミシンだったのか、今でも判然としませんが、買ったばかりのものだったのかもしれません。後でそれを自宅に戻す際に、こんな重いものをよく運んだな、と我ながら感心しました。火事場の馬鹿力を文字通り発揮したわけです。

富山高校は幼い頃からよく遊びに行く場所でした。木造校舎の縁の下で肝試しをしたこともあれば、グラウンドでキャッチボールもしました。まさか火が出るとは思わず、まして高校受験前の出来事だったので、少し落ち着かない気持ちになりました。仮設のプレハブ校舎で受験し、何とか合格しましたが、入学後は理科館が教室となり、プレハブ組よりも涼しく過ごせました。

入学した最初の面談で、担任の先生から言われたことがあります。「島君は、受験の成績がかなりギリギリだったので、これから頑張らないといけないよ。特に国語が悪いので、今後の大学受験に向けてしっかり取り組むように」と。先生の語り口は、単に国語の成績を上げなさいということではなく、これから生きていく上で、国語というか、言葉が何につけ重要になってくるので、それを忘れないようにという忠告だったように思い返されます。

もっとも、高校在学中はそれほど勉学に励んだわけでもなく、部活に熱中したわけでもなく、しかし無気力というわけでもない、何とも中途半端な3年間を過ごしました。思い切った行動になかなか出られない引っ込み思案な性格のためか、あるいはこの時期特有の何か将来に対する漠然とした不安に包まれていたのかもしれません。

英語と数学が好きで、美術にも興味があったので、何となく建築学科を目指しました。ところが建築はとても人気があり、倍率も高く、現役ではどこも受かりませんでした。高校のすぐ隣にあった富山学館という受験予備校に一年通って、再度挑戦しました。しかし結局建築学科はどこも受からず、早稲田大学理工学部を受けた際に第二志望とした金属工学科にかろうじて合格、両親も私も二浪はできないと思っていたので、とにかく当初の目標とは違う学科に進みました。

大学では大隈講堂でたまたま勧誘された油絵のサークルに入りました。中学でも高校でも部活に入ったことがなかっただけに、親元を離れた解放感(孤独感も)と新しい友人ができる楽しさを日々満喫しました。ほぼ毎日、理工学部から文学部の部室に足を運び、石膏デッサンに打ち込み、油絵で静物や風景、自画像もよく描きました。結局これがその後、美術館の仕事に携わるきっかけになったのです。

博物館学芸員に必要な単位をいくつか取得、さらに卒業論文のための実験、落とした単位の再取得など、大学4年次は多忙を極めました。今では学芸員は高嶺の花、高学歴で語学も相当堪能でないとなかなか就職できませんが、1980年代初頭は全国に次々と公立美術館ができた頃で、私のように絵を描いていた人がひょいと美術館に入ることもあり得たのです。希望通り建築学科に進んでいたら、美術館に就職していなかったわけですから、人生何が起こるか分からない、そんな気持ちをあらためてかみしめている今日この頃です。

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