あらためて「慎重敢為」

略歴
1974年 富山県立富山高等学校卒業
1980年 金沢大学医学部卒業(同大学院卒)
1989年 八尾総合病院院長
1999年 富山高等学校PTA会長
2000年 富山県高等学校PTA連合会会長
2001年 (医)藤聖会理事長
2004年 全国高等学校PTA連合会会長
2012年 (医)親和会理事長
現在、
医療法人社団藤聖会・親和会理事長 (富山西総合病院、富山西リハビリテーション病院、八尾総合病院、チューリップ長江病院、女性クリニックWe富山、五福脳神経外科など) 全日本病院協会富山県支部長、富山県医療審議会委員、金沢医科大学臨床教授、富山大学医学部臨床教授、富山市教育委員会委員、富山県理科教育振興会会長

中間試験の勉強中、深夜ラジオでDJが「私の出身の富山高校が今、燃えています」という言葉を聞いて衝撃を受けたのは、歴史ある立派な校舎の富山高校に入学したばかりの1年生の5月だった。
翌日まだ焦げ臭い匂いが漂う中、延焼を免れた体育館の全校集会で「明日からすぐに授業再開」と言われた校長先生の言葉が記憶に残っている。被害を受けなかった理科館での授業が多かったが、氷柱を立てて暑さをしのいだプレハブ教室での授業は大変だった。

富山高校進学をすすめた中学の先輩の誘いで入部した演劇部は、おんぼろ木造瓦葺長屋の部室で隣の部室の声も筒抜けだった。しかし、勉強しなければいけないという抑うつ感の浮き沈みの中、3年間一緒の理数科のクラスメイトとは異なった仲間とのワイワイガヤガヤの楽しい部活は、私にとっては大きな息抜きだった。公演が近づくと先生に見つからないようにして夕方遅くまで練習のため学校に留まり、迷惑をかけたことも高校時代のいい思い出だ。

卒業後は演劇部とは別の先輩に誘われて金大医学部に進んだ。北陸3県を中心に医師として病院勤務していた頃は、富山高校との接点は全くなかった。たまたま娘が富山高校に入学した際、今度は演劇部の先輩から富山高校のPTAであるむつみ会の役員をしろと言われた。翌年には会長、その翌年には県高P連会長となる羽目になった。教育については造詣もなく、ましてPTA活動について全く経験はなかったが、人に頼まれたら少し難があっても極力断らない、断れない性分が、結局はその後、全国高P連会長を3年間受けることになってしまった。

全国高P連会長在任中には高校世界史未履修問題が発覚し、全国の高校PTA代表という立場で文科省に頻回に行くこととなった。高教組とのシンポジウムにも参加した。自分でなくてもいいのかも知れないが、役割を引き受けた以上は高校生を守るために動くしかないという心情だった。おかげで普通ならなかなかできない経験もずいぶんさせてもらった。能力も度量もおぼつかないが、頼まれれば「はい、はい」と答えるのが礼儀と心得るし、頼まれるうちが花かもしれない。しかし、それらの経験が血となり肉となったことも事実だ。医師の仕事をしているだけでは及ばなかったような考えや価値観、そして何といっても人との繋がりを持てたことが、その後の生き方に大きな影響を与えられた気がする。

高校のPTA活動での醍醐味と思えることがある。PTAでお会いする先生方は自分が直接教わった教師ではないが、この年齢になって改めて当時の先生が理解できたと感じた。生徒だった当時の私が知りえなかった先生の考え方、生徒や教育に対する熱意がレトロスペクティブに理解できる。もう一度、先生に会えた気分になった。

自分の人生や仕事の経緯を考えると、学生の頃の先輩や教師の言葉や繋がりに導かれた。医師という面からも医学部の先輩や大先輩の病院長などの助言、支援、協力に負うところが多い。私の職種からは異質と思われるかもしれないが、経済界や政界の先輩方にも支援、協力していただくことが多かったことが自分の幸せと感謝している。

以前は富山高校の校訓「慎重敢為」はかなり固い真面目すぎる言葉と思っていた。しかし、「慎重敢為」の前に、先輩や繋がりのある人からの意見や助言、指示や依頼、支援や協力をいただき、真摯に聴きいれるしなやかな感性を常に失わずにいれば、「慎重敢為」つまり、じっくりと自分のビジョンや情熱をあたためて満身の力で貫くことが、今は、よりダイナミックな言葉として響くようになってきたように思う。

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