
斎藤 八郎 先生
幾万の生徒から敬愛された斎藤八郎翁
富山中学、富山高校120年余の校庭の斎藤先生胸像歴史の中で「人物伝」として欠かすことのできないのは、現在も正面玄関前の芝生にあって生徒を見守る胸像の主、斎藤八郎先生(号は桂堂)である。明治29年(1896)~大正11年(1923)までの26年間富山中学に勤め、漢文・修身、一時は英語も教えた。学識の豊かさと教育にかける情熱、清廉潔白、全身全霊で真摯に生徒に接する姿勢が多くの生徒の心を捉えた。小柄な体躯だったが眼光は炯々として鋭く、白髪に顎鬚が蓄えられた顔は威厳があった。
授業は豊かな漢学、国学、英語の知識を活かして中国・ヨーロッパの地理・歴史も加えて分かり易く、熱の入った講義だった。生徒が下宿を訪ねると、いつもうず高く積まれた書籍のなかで読書する先生の姿があった。どんな生徒にも丁重に応じられた。穏やかであったが、不心得な生徒の言動に対しては厳しく叱責し、その迫力は番長格の生徒たちも震え上がった。時には暴走しようとする生徒に諄々と涙ながらに説諭されることもあった。酒豪で、愛煙家でもあったが、生徒に範を垂れねばと禁酒、禁煙を実行された。校友会組織「文武会」活動の最大の理解者で、演説会などには必ず参加し、生徒の主張を聞くとともに、自らも専門の漢学の話やくだけた歴史講談などを披露した。毎月ポケットマネー50銭を文武会に寄付された。トラブルで解散となった文武会が復活を認められたとき最も喜んだのは斎藤先生だったという。
同窓生にとって斎藤先生との思い出の絆は、卒業式当日、一人一人に贈られた直筆の細字巻物であった。生徒の前途を祈念して「大学」「中庸」など四書五行の中から選んだ文を書写し、卒業生に「餞はなむけ」とされたものである。
先生は同僚からも慕われた。後に名古屋の幼年学校教官になった国文学の塩野新次郎は「先生の高風に親灸し、自らの修養に少なからぬ影響を受け得たことは富山における最大の幸福であった。と述べている。
明治中後期の富山中学では生徒・教師間のトラブルが多く、ストライキ(同盟休校)に発展することもまれではなかった。全国的な風潮であったとはいえ最大の原因は中学制度そのものが未整備で、生徒側にも教師側にも問題が多かった。問題頻発を危惧した富山県議会は、見識高く、経験豊かで実力ある優秀な教師を求めることが緊急だとした。そのため県の大海原書記官が上京して以前から知己であった斎藤先生に富山中学校教師就任を懇望した。
履歴書によると、先生は嘉永2年(1849)の生まれで、本籍は今の神奈川県藤沢市。2歳で父と死別したため新潟の他家に預けられて育った。9歳から青木芯に漢学を学ぶ。母の死後、兄の家に寄宿した。学問のため上京したのは、すでに22歳、そして人生の恩人と慕うことになる広津弘信の書生となる。明治4年(1871)東京日章堂、6年新潟英語学校、8年東京箕作麟祥みつくりりんしょう塾でいずれも英語を学んだ。欧米思想偏重を批判するためにも英語を学ぶ必要があると考えた。15年に内務省図書局に勤務したが、18年からは教育者の道を選び、東京、神奈川の私塾で漢学と英語を教えた。24年には自ら東京に私立格致学舎を設立した。その5年後に富山県に招かれて病妻と一人娘を連れて来富することになった。すでに齢47歳であった。 官立校での教育歴がなかったため最初の身分は助教諭心得、その後教諭心得、死の前日に正教諭となった。就任時の月報は20円だったが 年齢や学者、教育者としての実績からは極めて低い報酬であった。しかし昇給してもその分を赤十字社などへ寄付したと云われている。
斎藤先生の徳を慕う同窓生たちの熱意で、大正6年(1917) 1月、工芸家畑庄吉の手による先生の銅像が建立された。銅製であったため太平洋戦争中に軍需用物資として供出することになり、文展作家須賀良二によって石膏塑像として残された。現在の胸像はその石膏像を元に昭和25年(1950)同窓生有志が資金を出して銅像に復元したものである。
斎藤先生は退職5ヶ月後の大正11年8月18日夜、富山中学に奉じた一生を終えた。『富山日報』は「幾万の生徒から敬慕された斎藤八郎翁逝く」の大見出しで「いける君人子として徳望を一身に集めた元富中の教諭」の死を悼んだ。
(保科齊彦:元富山高校教諭(日本史)
『富中富高百年史』編集者)
注:この文は『富中富高百年史』の富田・保坂担当相当分をもとに執筆した。
なお同書中に「斎藤八郎は幸田露伴の高弟」とあるのは同姓同名による間違いで露伴高弟の斎藤八郎は現在の南砺市井波の人である。
参考文献: 斎藤八郎著『老いの繰言』・『富中富高百年史』・『富中回顧録』・
「富山高校資料館所蔵記録」・「青年倫理学撮訳緒言」・(『文武会誌』6号)
(127号)