-富山県最初の大臣-

正義感に満ちた行動力   
富山中学校(創校時は富山県中学校と云った。現富山高校の前身)2回生の南弘は、昭和7年(1932)郵便・電信電話業務など郵政と電気・船舶・航空の分野などを司る逓信大臣に就任した。富山県人としては初めての国務大臣である。他には安井藤治、松村謙三も富山中学に在籍したことのある大臣である。

南は富山中学の後、明治22年(1889)9月金沢の第四高等学校に入学、さらに東京帝国大学法科大学政治科(現東京大学法学部)に進み、明治29年卒業後、内閣書記官室庶務課に勤め官僚としてのスタートを切った。41年内閣書記官長となり、国家の機密文書を扱った。大正元年(1912)貴族院勅撰議員、翌年福岡県知事に就任した。同7年民間出身の文部大臣中橋徳五郎を補佐する文部次官となり、高等教育機関の増設と口語文体の普及・常用漢字の制限に着手した。教育水準の向上には複雑難解な国字・国語の改善が前提条件だと考えた。昭和5年(1930)「国語協会」理事長、同9年には国語審議会会長を務めて国語問題の改革に努めた。国語改革は南のライフワークといえよう。同11年に枢密院顧問官になったが、翌年生まれた「厚生省」という名称は漢籍に詳しい南弘が名づけたものである。昭和7年3月台湾総督となったが、同年の五・一五事件直後誕生した斎藤実内閣の逓信大臣に迎えられ、郵政、運輸行政の長として逓信病院の設置、放送協会の改革、逓信記念日制定などを行った。

この年7月、故郷に錦を飾り、生誕地などで祝福を受けた後、太郎丸の母校富山中学校を訪問した。この時のことが雑誌『改造』の「夏日雑筆」と題した文に紹介されている。

「処々の祝賀会を済まして富山へ出て、富山中学に行った。此の中学校は余が学生時代中でもっとも思い出が多いところだ。田中貞吉という校長の指揮の下で雪合戦をやったのもこの学校だ。食後校庭の土塀によりながら学友と共に天下国家を論じ合ったのも此の学校だ。今日『青園』と号しているのもその時代の記念のためである。当時の学友で地下の人となった者も少なくない。特に親友であった南日恒太郎君が先年富山高等学校(注:大正12年創立の旧制高等学校)校長在職中に不慮の災い(注:水泳中の心臓麻痺)に倒れられたことは実に残念に堪えぬ。中学校は暑中休暇中であるにも係わらず横田校長は心を尽くして生徒を集めて余を迎えられた。講堂で三十分ばかり話をして別れを告げた。」

南弘は、明治2年(1869)氷見郡仏生寺村(現氷見市)岩間寛平の二男として生まれた。名を鉄郎と云ったが25歳の時に高岡の旧家南家の養子となってから南弘と改めた。明治19年、当時総曲輪にあった創立2年目の富山中学に入学した。在学中は学業よりも、生徒活動、寄宿舎生活で目立つ存在であった。友人で寄宿舎仲間であった森井周義は地方紙「高志人こしびと」に、岩間鉄郎、後の南弘は極めて読書好きな勉強家であった一方、決意はめったに曲げぬ剛直な行動派であったとして彼が主導した以下のような事件、事柄を記している。(1)東京における皇居移転式の際、奉祝の誠をささげるといって茶話会を開き、授業に出なかったため1週間の停学処分を受けた。(2)明治21年、大沢野で挙行された歩兵第7連隊の「連隊旗」先導の堂々たる行進を見学して感動、南日恒太郎らとともに「富山中学校校旗」新調を、発議し翌年実現させた。(3)県議会で中学校校長の俸給を減額する案が提出されようとしたとき、良い教師を集めるには良い待遇が必要だとして減給反対の署名活動を行い、島田孝之県会議長に建議書を提出し認めさせた。(4)明治22年暗殺された文部大臣森有礼追悼式参列に富山日枝神社に向かう途中、師範学校生と衝突し、これをきっかけとして空前のストライキを起こした。

行き過ぎもあった彼の正義感に満ちた行動力は、やがて国政という大きな舞台で輝きを増した。殊に文教重視の学者的官僚政治家として評価されるようになったが、これは幾多の経験と良き人脈との出会い、多くの書籍から得た知識などに裏付けされたものであった。書斎では読書三昧の「静」、公務では積極果敢な「動」の人であった。

昭和21年(1946)敗戦直後の食糧緊急措置対策法案審議中に急逝した。まさに壮烈といえる最後であった。
保科齊彦:元本校教諭(日本史)
『富中富高百年史』編集者)
参考文献:南弘先生顕彰会編『南弘先生 人と業績』、『富山県議会史』、『富中富高百年史』、
「富山高校資料館所蔵記録」、通信史研究所編『逓信大臣列伝』、『富中回顧録』
(126号)

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