-前衛芸術運動の旗手-

絶えず未知の創造的な世界へ   
瀧口修造は明治36(1903)年に富山県婦負郡寒江村大塚(現在の富山市大塚)に生まれた。富山中学時代は登山が好きで黒部峡谷で遭難騒ぎを起こしたエピソードがある。慶応義塾大学入学したが、関東大震災に遭い一度退学したものの再入学し、昭和6年(1931)に英文科を卒業した。大学在学中から詩をつくり西脇順三郎に師事しシュルレアリスム(超現実主義)に傾倒するようになった。卒業前年にシュルレアリスムの提唱者で、文通していたアンドレ・ブルトンの「超現実と絵画」を翻訳し、わが国の画家たちに大きな影響を与えた。以後、一貫して前衛芸術運動の推進に努めた。

大正末期から昭和初期にかけて、詩や美術にシュルレアリスムが影響を与え始めた頃、青年の限りない自己解放の夢に動かされ、詩人、美術評論家として活躍しただけでなく、美術映画「北斎」の制作を試みたり、抽象的な美術造形に携わったりした。また、作曲家の武満徹とも親交が深く詩と音楽の融合を目指したり多彩であった。柔和で静かな半面、嫌なことには梃子でも動かぬ頑固一徹な人であった

瀧口修造には詩と美術の区別はない。追い求めたものは強い創造精神の燃焼そのものであった。芸術家としての根本理念は、絶えず自分自身を未知の創造的な世界へ晒し出すことにあった。それは言語という詩に限らず、デカルコマニーと呼ばれる特殊技法を駆使した実験的作品の制作にも及んだ。この作品は県立現代美術館に百点以上も収蔵されている。

慶応義塾大学などから教職の誘いもあったが辞退し前衛芸術にひたすら邁進した。詩画集「妖精の距離」や美術評論集「近代美術」、「ミロ」や「ダリ」の単行本も出すなど、前衛芸術家の中心的役割を担った。とりわけ10歳年上のミロとの親交は、シュルレアリスム運動にひかれはじめると同時に始まった。アメリカの若い画家に影響を与えたミロは、スペインのバルセロナ生まれで20世紀美術の巨匠である。

文通による知人であった二人は、昭和41年(1966)に国立近代美術館での「ミロ展」にミロが来日して以来、固い友情で結ばれるようになった。寡黙で背丈もほぼ似通った二人は共同制作の詩画集「手づくりの諺」を著したりした。特に昭和15年(1940)に瀧口が刊行した著書「ミロ」はミロに関する世界最初の本として価値が高い。二人の交流の軌跡を中心とした作品や遺構が、県立近代美術館に多く収集されていることは、現代美術の流れを知る上で極めて意義深いことである。

戦時下に弾圧を受け活動は中断を余儀なくされたが、戦後は読売新聞に美術時評を担当するとともに、積極的に前衛新人の絵画展を企画開催したほか、昭和26年(1951)には、美術家・音楽家・写真家などのグループ「実験工房」が瀧口の命名によって発足し、若い作家の精神的支柱となった。 昭和33年(1958)にベネチア・ビエンナーレ参加のため渡欧し、ダリ、デュシャン、ブルトン、ミショー等と出会い、特にマルセル・デュシャンの影響を強く受けるようになった。帰国後はユニークな個展を積極的に開催した。45年も前になるが、昭和37年(1962)に「美というもの」と題し、3年生を対象に本校で講演を行っている。 昭和42年、モダニズムの風潮を越えた言葉の極北ともいうべき独自の実験的な刺繍「瀧口修造の詩的実験1927~1937」を刊行したことは、

瀧口は昭和54年(1979)7月1日に75歳で逝去した。富山市大塚の龍江寺にある墓に、デュシャンから送られた言葉「RoseSelavy」が刻まれている。県立近代美術館の建設・作品収集にあたっては、此の瀧口修造の考えが強く反映されていることを付け加えたい。

(加藤淳・富山県水墨美術館顧問、元本校教諭70回卒)
(128号)

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