-郷土の文化創造に貢献-

ジャーナリストで文学者  

翁久允(おきなきゅういん)は明治35年(188)に立山町六郎谷で漢方医の二男として生まれた。明治35年富山中学に入学し、寄宿生活をおくった。校友会組織「文武会」の月刊誌や雄弁会に文才を発揮し、寄宿舎でも文学の会(有終会)に入り、樗牛、蘇峰、鏡花、漱石、紅葉、近松などの作品を友人に語り聞かせていた。3年生(当時は5年制)の1月頃、評判の悪い英語教師の舎監に反抗し糞を床に撒く事件を起こした。新聞にも報じられ知事や県議会を巻き込む大事件となった。生徒・教師に人望があった斉藤八郎先生が職員会議で弁護に立たれたが、首謀でない翁を含め8人が放校処分となった。ただ同窓会名簿には第19回(明治40年)卒業となっている。やむなく兄を頼って東京に出、自由民権運動の女傑で滑川出身の中川幸子が営む私塾「三省学舎」に入った。後に順天中学へ進み地理教師の影響で海外へ興味を抱くようになった。

明治40年(1907)5月に19歳でシアトルに渡り季節労働者やエレベーターボーイなどをしながら苦学し教養を身に付けた。シアトル旭新聞に応募した小説「別れの間」が入選し文才が認められ、現地の邦字新聞に小説や随筆を載せた。日米新聞記者としても活躍し、シアトルで7年、カリフォルニアで10年過ごした。

大正13年(1924)に帰国し朝日新聞社にはいり、ワシントン軍縮会議で日本人特派員などを務めた。その後、菊池寛、田山花袋、鈴木三重吉、泉鏡花、北原白秋、川端康成、直木三十五、竹下夢二らと知り合い随筆や長編小説を書き、帝国文学に小説「丘」「唖の女」などを発表した。

「竹下夢二とアメリカ」  

昭和元年(1926)、「週刊朝日」の編集長となり 文壇・画壇との交流を深めていた翁の元へ夢二が訪ねた。目的は翁を頼ってアメリカへわたり人気回復を図ることであった。翁もまたシアトルにいた頃、兄に日本から夢二の絵入り小唄集「三味線草」などを送って貰って以来ファンとなっていた。昭和3年6月、翁は黒部峡谷探勝に43歳の夢二を誘った。 黒部鉄道のトロッコ電車で鐘釣温泉など峡谷美を楽しみ、夜は宇奈月延対寺旅館で宴を開いた。翌日は富山ホテルに泊まり、芸者の絵を描いたり翁の小説「道なき道」の装丁などをした。

昭和6年4月、有島生馬などが発起人となって「竹下夢二・翁久允海外漫遊送別会」が東京で開かれた。画壇や文壇などから200名を超える参加者があった。5月7日、人気に陰りの見える夢二を伴い朝日新聞社の退職金を元にアメリカに渡った。だがアメリカでの夢二は無名の上、世界恐慌の影響もあり作品は全く売れなかった。夢二はモデルがいないと絵が描けない性分に加え、女癖が悪くモデルにも嫌われて展覧会は散々であった。二人は色々な面で衝突し渡米は結局失敗に終わった。

夢多き夢二には一人だけ入籍した女性がいた。高岡工芸学校図画教師の夫に先立たれた岸他万喜である。夢二式美人画の原型となった女性で、そのお骨は呉羽長岡墓地・真国寺にある娘の嫁ぎ先(浅岡家)のお墓に安置されている。他万喜の兄他丑たちゅうは富山中学9回(明治30年)の卒業生でもある。

高志奨学財翁は団を設立

昭和11年(1936)に富山の郷土研究に取り組み、郷土研究誌「高志人」を390号まで刊行した。さらに高志書房をも起こし、翌年には「図説世界史話大成」全11巻を刊行するとともに多くの文学者を富山に招いた。57歳になった昭和20年(1945)に富山に帰り、5年後には富山市安野屋に新居を構え富山の文化創造の中心的役割を担った。昭和28年に県文化功労者表彰を受けた。80歳になった昭和43年には曼荼羅画帳を描いて得た浄財で高志奨学財団を設立し文化発展に寄与した。昭和45年、富山市立図書館新設に際し多くの蔵書を寄贈した。市立図書館正面に翁久允の銅像が建っている。昭和48年に85歳で世を去った。

(加藤淳・富山県水墨美術館顧問、、元本校教諭70回卒)
(130号)

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