-全国の国分寺跡・国分尼寺址を最初に踏査した歴史家-

堀井 三友<16回>

まことに本村の如きは、地理的に、人文的に、はたまた社会的見地よりして早晩いづれか、あに市編入を見ずして止むべけんや。関係各位の助言、あるいはさもあらん、しかれども唐突なる村態の変革を思ひ、安からぬ民心の衝動を思へば、卒然として決すべきにあらず。むしろ悲愴なる心懐を抱きて、陰にこれを村内公職ならびに有志に告げて、もってこれに善処せんことを期す。


本文は、昭和10年(1935)3月25日付の奥田村報・合併記念号の巻頭言の一節である。筆者は堀井三友。現況を切々と説き、将来を堅実に期したこの文章は、説得力抜群の名文である。

堀井三友は、明治18年(1885)生まれ。父は奥田村長を二度も務めた人。母は南日恒太郎の長姉。明治37年(1904)富山中学校(現県立富山高等学校)を卒業し、早稲田大学文学部に進んだ。学生時代は、文学・美学・美術関係の書を耽読した。ワイルドの小説やオイケンの人生哲学等を翻訳して地方紙などに掲載した。叔父恒太郎の影響によるものか。さらに奈良の名刹を歴訪して「仏像めぐり」を執筆した。続いて郷土研究誌『高志人』に「越中仏像礼賛」を66回も連載した。例えば、三友の鋭敏な鑑識眼によって発見・鑑賞された南砺の安居寺の聖観音像は重文に指定されるにまで至った。昭和5年(1930)には、富山県史跡名勝天然記念物調査委員や帝国美術院付属研究所員を委嘱された。翌年には富山郷土研究会の創設に参加し、いよいよ古仏像や古美術の調査のための全国行脚を本格的に始めた。

ところが、この学究の徒の三友が昭和9年(1934)2月5日、奥田村最後の村長に推された。三友の篤実な人望と父が二度も村長を務めた奥田村への報謝の念とが彼をして村長を引き受ける決意をさせたのであろう。合併反対者への説得、合併条件の整備、県知事や市長との交渉など翌10年3月31日まで村長としての激務に没頭した。この間の心境を表出したのが上記の文章である。

村長の職を終えた昭和11年(1936)には、越中史跡古美術調査会を創設して、学究の徒として再出発した。この会の第一回の調査が越中の国分寺址の調査であった。高岡市伏木一の宮字国文堂にある真言宗の薬師堂の古仏像が国分寺の遺物であることを察知し、さらにその付近を発掘して古瓦などを発見して、この地に国分寺があったと三友は確信したのである。この調査研究を『高志人』昭和13年5月号に詳細に発表した。

これを機に、全国の国分寺址・国分尼寺址調査に改めて着手した。三友は、ドイツ製の写真機や測量器具を新たに購入して徹底的に実地踏査を行い、その研究成果を世に問う決意のもと、まっしぐらに歩を進めた。

いよいよ「国分寺の研究」の稿が成った時、三友は病の床についてしまった。しかし、病床の中ながらも、古瓦の写真・寺址付近の地図・国分寺、国分尼寺の復原図などの整理に夢中になった。どうにか公刊される運びとなり、その序文の中には「自分は畢生の力をこの書に傾け盡したおもひがある」という文句があったとのこと。世の中はむごいもの、この書の刊行を見ないで、三友は昭和17年(1942)5月31日癌のため不帰の客となってしまった。その上、戦火のため原稿も印刷途上のものも烏有に帰してしまった。息子に先立たれた母は、次のように述懐している。
近辺の家はみな瓦葺きなのに、我が家だけは瓦屋根に葺き替えていないことを何度も注意しても、ハイと返事するが「研究費が要るので」と申して、瓦屋根を見ないで先立ってしまいました。困った息子だと悲しく思い出しながらも、学問好きな南日家の血を引いている息子の姿を温かく思い出したのではなかろうか。

世の中も落ち着き始めた昭和25,6年ごろから、故人の研究を懐かしむ声があちこちから上がるようになった。幸いにも草稿と備忘録とが残存していたので、原田淑人・石田茂作・駒井和愛・安藤更生・島田正郎・赤間義洋・堀井乾三からなる「堀井三友遺著刊行委員会」が設置されて、昭和31年(1956)11月20日、『堀井三友著「国分寺址之研究」』が上梓された。さらに翌32年11月1日には、三友の肖像顕彰碑が堀井家の邸内に建立された。奢らず、焦らず、生涯学び・究め続けた堀井三友の人生と、学界の堅固な礎石であり続けているこの先輩の業績に改めて注目したいものである。

神島達郎(66回卒) 

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