-日本社会問題の先駆者-

横 山 源之助<1回>

富山の滑川は、大正7(1918)年に米騒動の発祥地として知られる歴史に残る土地であるが、政論家でも実業家でもない魚津生まれの横山源之助を知る人は少ない。

日本経済学の古典を挙げるとすれば、広い視野で古代から幕末までの歴史を、文明開化史として叙述し、明治10年.15(1877.82)年に刊行した「日本開化小史」(田口卯吉)、明治32(1899)年刊行の「日本の下層社会」(横山源之助)、大正5(1916)年刊行で人道主義の立場から、当時社会問題化していた貧乏を取り上げ衝撃を与えた「貧乏物語」(河上肇)であろう。

横山源之助の「日本の下層社会」は、明治期における下積みの人々(農民、職人、女工、鉄工夫、土方、人足等)の生活の様子を、日本で初めて明らかにし、総合的に研究した力作であり、昭和24年に岩波文庫から復刻出版され、平成11年まで47版を重ねる名著である。この研究は「イギリス労働階級の状態」(エンゲルス)、日本の紡績工場で働く女子の、苛酷な労働条件と虐待の実態を描いた、大正14年刊行の「女工哀史」(細井喜久藏)にも通じる。

横山源之助は私生児で捨て子となり、魚津金屋町の腕の良い左官職人、横山伝兵衛の養子となった。魚津明理小学校(大町小学校)を卒業した11歳の時、魚津の素封家で神明町の油・醤油問屋を営む沢田家に奉公した。沢田家の理解と源之助の優れた才によって、明治18(1885)年、本県最初の富山中学(富山高校)の第一期生として入学した。幼少から大志を抱き、何とか日本人の為になろうとしていた。そんな彼は田舎の中学生として甘んずることなく、一年を終了すると、同郷の岩崎文太郎・五島茂と星雲の志を抱いて東京へ出奔(郷里を逃げ)し、英吉利法律学校(現中央大学)に入学し弁護士を目指した。

二葉亭四迷との出会い社会問題研究へ

傾倒源之助は明治24年、5年の弁護士試験に失敗し暗澹たる日々を過ごしていた。その頃、東京外国語学校ロシア語科を出て、ロシア社会主義の影響を受け、官報局(外国情報の翻訳や官報の編集)に勤務しながら、「浮き雲」(同20年.23年発表)、「めぐりあい」(同21年)など、日本初の言文一致体小説を書き、近代写実小説の先駆者となった二葉亭四迷と出会った。またそこに集まった松原岩五郎や内田魯庵などの影響もあり、社会問題研究に傾倒していった。機械文明、資本主義化が著しく進んだ状況下でもあった。

二葉亭四迷の、人間の問題は社会の問題と深く関わらねばならぬとする考えは、源之助に現実に立ち向かう厳しい姿勢を伝え、弱者や貧しい者への純粋な気持ちを、リアルな記録文学へと誘った。二葉亭は「文学は男子一生の仕事にたらず」とも述べている。
明治27年(1894).32年にかけて横浜毎日新聞社(現毎日新聞社とは別)に入社し、社会問題の探訪記事を書き続けた。明治34年頃から海外移民に関心を持つようになり、貧民・労働者救済の途として海外移住を有力な手段と考えるようになった。特にブラジル移民に関心を持ち、自ら移民事情調査に9カ月間も渡航し、斯界の権威者となり、各階層の全貌が初めて明らかにされた。尽きない人間愛によって、虐げられた状況を生き生きと描きだした。ある時は、東京の貧民窟に何日も身を委ね、大道芸人、車夫、日雇い人足の生活を、多角的に捉え世に訴えた。下積みの人々の側に立った姿勢を貫き、桐生・足利の機織り企業を訪ね、女工の痛々しい境遇を記録し、関西のマッチ工場の工員、鉄工所の労働状況を精査し、郷里富山では小作人の貧苦の様子を描きだした。大正4年(1915)6月、魚津の養父亡き後、上京していた家族を養う負担と、腺(せん)病(びょう)質(しつ)という病の中で、45歳で夭折した。

「日本の下層社会」のほか、「内地雑居後の日本」(昭和29年)、「織工事情」(同56年)が岩波文庫から刊行されている。また魚津市新金屋公園に顕彰碑(同39年)が建立されている。(加藤 淳)

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