高岡市の産業基盤を築く

木 津 太 郎 平(清太郎)<6回>

木津太郎平(清太郎)は、明治8年(1875)、高岡市上川原町の廻船問屋木津家に生まれた。父五代目太郎平は、高岡共立銀行を設立し、高岡商業会 議所三代目会頭を務め、大正・昭和にかけて高岡政財界の御三家(木津・菅野・荒井)の地位を固めた。

清太郎は、中田清兵衛(徳次郎)と同じ明治27年に富山中学校を卒業。28年12月に志願兵となって入営し、除隊後33年に25歳の若さで高岡米穀外四 品取引所理事となった。その後、富山県貿易協会常議員・同幹事、36年には急死した父の跡を継いで六代目太郎平を襲名し、高岡貯金銀行取締役に 就いた。37年には、菅野傳右衛門、荒井荘藏とともに高岡電燈の設立に参加、取締役に就任したが、日露戦争旅順攻囲戦で消耗した兵力の補充に 自ら応召、奉天会戦に従軍した。

日本の産業革命期には地方商人が地域経済の成長を支えたが、太郎平もまたその一人で、積極的に新しい産業の立ち上げに投資し、経営にも参加 した。祖母が高峰譲吉の伯母いつであったことから、明治27年にアメリカでタカジアスターゼの事業化に成功した高峰から多くの薫陶を受けた。41 年には高峰が設立した富山県で初めての化学工業北陸人造肥料の設立に参加し、大正8年(1919)には高峰がアメリカのアルコア社と合弁で設立し た東洋アルミナムにも参画した。現在の黒部ダム(黒四)の地点に高さ約151.5mのダムを造り、そこで発生する電力で高岡銅器の技術を生かしてア ルミ工業を興そうという構想で、大正10年には発電所建設の資材運搬のための黒部鉄道の建設も始まった。東洋アルミナムは、高峰の急逝で頓挫し たが、発電所建設工事は日本電力によって継承された。木津は高岡をアルミの産地にという高峰の遺志を引き継ぎ、昭和18年(1943)に高岡のアルミ 加工業者を統合して北陸軽金属工業を設立し、社長に就任してアルミ産業の存続に力を注いだ。
また、明治40年には高岡商業会議所会頭に就任し、45年4月に「高岡製産品評会」を開催。以後毎年開催して、市の産業、とくに伝統産業の品質 向上に資するところが大きかったという。対岸貿易振興にも情熱を燃やし、明治34年に単身ウラジオストックを視察。その経験を生かして44年、 伏木-浦塩間命令航路に関する意見書」を政府に提出して、当時脚光を浴びていた大陸との定期航路開設にむけた積極的な運動を展開した。ま た、大正9年には高岡銀行の取締役、15年には頭取となって実業界で確固たる地位を築き、ほかにも浅野総一郎とともに設立した伏木板紙、山田昌 作に呼応して参画した日本海側初の民間ドック日本海船渠など、地域内外に構築した重層的なネットワークを基に、地域経済活性化に努めた。

しかし、すべてが順調だったわけではない。義弟の菅野傳右衛門が第一次世界大戦の好況にのって興した高岡鉄工所の経営を引き継いだものの、 顧客の帝政ロシアが革命によって消滅し、もっていたルーブル紙幣が紙くずとなって破綻に追い込まれた。また、氷見市出身の浅野総一郎が計画し た庄川水力電気に発起人として参加したが、流木権を主張する住民との間に庄川流木争議が発生し、全国的な問題となった。さらに、昭和恐慌の 影響で自身も破産に追い込まれ、家財道具・農地・株式等いっさいを整理する憂き目にもあった。 
木津は政治にも携わった。明治45年に市政団体の要請を受けて衆議院議員に立候補、37歳の若さで当選したが、政党内の争いに絶望して大正4年に 政界から引退し、「政治と絶縁」した。昭和13年に至って、派閥争いで混乱した高岡市政の浄化を懇請され、第13代高岡市長に就任、20年まで市 長を務めた。市長時代には、日露戦争で受けた金鵄勲章の年金を基金に、出征兵士の借財を肩代わりし、弔慰金も贈っていたという徳望の人でも あった。
(森田弘美)

参考文献: 『高岡商工会議所百年史』高岡商工会議所・1997年。
『越中の群像:富山県百年の軌跡』桂書房・1984年。
『人的事業体系・電力編』松下伝吉・中外産業調査会・1939年。
『越中人物誌』越中人物誌刊行会・1941年。

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