毅然として真実に立ち向かった歴史家

高 瀬 重 雄〈38回〉

端正典雅な風車形の花の濃い紫は純乎として東洋の紫である
さながら紋服の折り目も正しい老翁が端然と孤坐する姿を見るごとし
(細川宏:福光町出身、東大教授遺稿詩集『病者・花』より)

高瀬重雄の風貌を言うならばまさしくこの詩がぴったりである。
眼差し温和にして人に和し、先師・先輩・同輩・後輩・知友等多くの人と好誼を交し、時として端然と孤坐し、あくまで学問の深淵にどこまでも私たちを招き入れようとする熱情は、たまらなく魅力的な歴史学者であり教育者であった。高瀬は歴史研究・歴史教育・著作活動のほか、県内の歴史研究者を糾合した『越中史壇会』の創立(昭和29年)に関わり初代会長として県内の歴史研究の基礎を築き、また編纂監修者(昭和40年度~60年度)として県内外の専門家を麾下に招き、全20巻『富山県史』を世に出すなど地域の歴史学界のリーダーとして、そのほか、豊かな識見をもって県文化財審議会会長・県社会教育委員・県地方労働委員会委員長・町村公平委員会委員長など各界で大きく貢献した。56年には勲二等瑞宝章を授与された。

高瀬は明治42年(1909)3月25日、中新川郡寺田村(現立山町寺田)で生をうけた。富山中学校に進学、大正15年(1926)3月卒業、4月に富山高等学校文科甲類に入学、昭和4年(1929)4月に京都帝国大学文学部史学科へ入学、国史学を専攻、7年(1932)3月に卒業した。卒業論文は「平安末期の歴史思想について」。引き続き4月に同大学院に進学、「日本における歴史学の発達」をテーマに研究を進めた。昭和16年4月、立命館大学助教授、翌17年2月に教授となる。同年4月には最初の研究書『伊達千広 生涯と史観』(創元社)、10月には『日本人の自然観』(川原書房)を刊行した。昭和18年(1943)秋に招集を受け兵役に就くも、その後、戦火のなかでも研究を続け、昭和19年4月、編著『中世文化史研究』(星野書店)を刊行している。昭和19年6月、富山に帰り高岡工業専門学校教授に就任した。終戦を経て昭和21年(1946)、母校の富山高等学校講師を兼任し、23年、富山大学設置委員会幹事となり、24年富山大学設立と同時に文理学部教授に就任。日本史教育を担当するとともに、開学当初に学生部長と図書館長を兼任、評議員を務め、さらに文理学部長を6期12年間も務めた。

昭和49年(1974)3月、定年により富山大学を退官。同年金沢経済大学(現金沢星稜大学)教授に就任するとともに富山大学名誉教授の称号を授与された。昭和56年(1981)3月『立山信仰の歴史と文化』(名著出版)を刊行した。この年4月の春の叙勲で勲二等瑞宝章を授与されている。同年11月功労が認められて富山県文化表彰を受けた。平成16年11月13日永眠、享年95。同日付で正四位の叙位を受けている。

高瀬の歴史学研究に向き合う真摯な姿は、研究を妨げる何者に対しても毅然として立ち向かう強い信念にあった。一例を紹介すると、昭和19年(1944)、戦時中にあって立命館大学教授の時、中世史の研究では当時第一人者と目されていた清水三男の論文が左翼の唯物史観に与するものではないかと誤解や批判を受け、その論文の所載も敬遠されていたとき、高瀬は当時京都大学の文化史学の少壮新進の学者の論文とともに件の清水論文を自らの編著『中世文化史研究』に収載し注目されたものである。件の論文が論旨明快な社会経済史研究であると高く評価し収載するという毅然たる態度に高瀬の歴史研究者としての真骨頂をみることができるのである。自らは「虎関師錬の国家意識」を収めている。
(米原寛)

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