北陸金融界の雄

中 田 清 兵 衛(徳次郎)〈6回〉

中田清兵衛(徳次郎)は、明治9年(1876)、富山市常磐町の薬業家9代密田林蔵の五男として誕生した。27年に富山中学校を卒業し、金沢医科専門学校薬業科(現金沢大学薬学部)に進学。卒業後は軍隊に入隊し、日清戦争後に除隊している。明治30年に実兄の10代密田林蔵が設立した富山貯蓄銀行取締役に就任した。33年、十二銀行頭取で貴族院議員を務める14代中田清兵衛の養子となり養父の経営する家業(薬業・書店)や銀行の業務を助けた。中田家と密田家は、ともに江戸時代から代々続く薬種商で、8代林蔵の妻を中田家から迎えるなど関係は深かった。
 大正6年(1917)、養父の病没を受けて15代中田清兵衛を襲名するとともに、十二銀行5代目頭取に就任し、昭和21年(1946)に北陸銀行頭取を辞任するまで、30年余りにわたって北陸の金融界を牽引し、地方銀行協会の設立にも尽力した。

わが国では、日清戦争が終わった明治28年ごろから企業ブームが起こったが、その多くが銀行と鉄道会社で、34年には全国に2358行、北陸3県でも120行を数えた。しかし、農業以外に見るべき地場産業のない富山では、どの銀行も効率的な資金運用ができず頭を痛めていた。そのなかで、十二銀行だけは、明治30年代から大阪・東京・金沢・北海道・福井に支店網を広げ、中央と疎遠な地にあって都市銀行に匹敵する預金額を持つ地方銀行の雄であった。頭取となった清兵衛は、堅実な経営を第一として地元の売薬業者との関係を密にする一方、積極的に北海道に支店を開設した。その数は、彼の時代だけでも、函館・帯広・・釧路など10店舗を数え、大正15年の十二銀行総預金の40.9%、総貸出金の41.4%を北海道が占めていた。

清兵衛の堅実経営は、常に用意周到の注意を払って支払準備の充実に意を用い、余剰資金はコールローンを利用して行われた。昭和2年(1927)に発生した金融恐慌では県内でも多くの中小銀行が破綻したが、清兵衛率いる十二銀行の支払準備金は総預金の44%に達し、後年、「(金融恐慌時には)かえって預金が増加した」と語っている。一方で、徹底して貸出を厳選し、いつでも資金化できるような者でないと貸出に応じず、時に「冷酷」と批判された。昭和6年7月には、清兵衛の実家が経営していた密田銀行が破綻したが、何度も特別融資を依頼されながら、「貸出の厳正を期す」方針は崩さず、身内だからといって特別な扱いをしなかった。後年、自ら「支店へも自ら検査部長みたいに回ってずいぶん細かいところまでやりました……だからよく地方銀行協会の集まりで君はあまりに細かいといって評判のあまり良くないこともありました」と語っている。「勤直、着実、謙遜を標語としているような男で、公会の席でも末席につくをわず」とも評された。それでも、地元で勃興した電気事業をはじめとする新しい産業には、地元金融機関として積極的に資金を提供するとともに経営にも参画した。なかでも山田昌作率いる日本海電気(現北陸電力)には、筆頭株主となってその経営を支えた。

戦時下では、統制経済によって銀行の合併が進められ、昭和18年には県内でも十二銀行、高岡銀行、中越銀行、富山銀行の4銀行が合併し、新しく北陸銀行が誕生した。清兵衛はこの合併にも中心となって奔走し、北陸銀行の設立とともに推されて初代頭取に就任した。

清兵衛の生活はきわめて質素で「勤倹貯蓄」を信条とし、昭和21年に国が戦争で重ねた膨大な借金を返済するための財産税が課せられた際には、「一億国民総懺悔しなくてはならぬ時である」と、富山市中央通りの土地をためらいもなく手放した。一方で、自然を愛し、山の木一本、石一つにも「我が庭と思え」と、その破壊を強く戒めたという。第一線を退いた後は、社会福祉事業に協力を惜しまなかった。
(森田弘美)

参考文献:大阪朝日新聞1924年8月6日付「地方巡礼北陸の巻」。『創業百年史』北陸銀行調査部百年史編纂班編・1978年。『越中百家』富山新聞社編・1973年。『越中人物誌』水上正彦編・1941年。

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