
南 日 恒 太 郎〈2回〉
挫折の中で努力を重ねた若者時代
挫折の中で努力を重ねた若者時代
南日恒太郎(1871~1928)は努力家で学業が優秀でした。英語教育を推進した文部大臣森有礼が明治23年10月、本校を来校し、突然英語で質問した際にも、恒太郎らは明快に答えたといいます。
しかし、後に本県初の大臣となった南弘とともに県に建白書を出したこと、重い眼病になったことなどから卒業前に中退し、四高(現金大)への進学を諦めます。挫折の中で、事務員を勤める傍ら、独学で文部省教員検定試験などをめざしました。
英語検定試験で第一人者に認められる
恒太郎は明治26年(1893)に国語教員の試験に合格し、本校の助教諭となります。当時の外国人講師アンドリュー・フォスターと交流し、英語学習を続けました。努力の結果、明治29年の英語検定試験で極めて優秀でした。試験官で英語学者の神田乃武は、自ら校長をしていた正則中学に、恒太郎を招聘しました。ここでも恒太郎の卓越した英語力が認められ、京都の三高(現京大)を経て、明治35年に学習院教授となります。
恒太郎は、自らの苦学の体験から英語教育のため『英文解釈法』や『和文英訳法』など多くの参考書を著し、英語教育の先駆者となりました。
また、国文学・英米文学に精通し、『英詩藻塩草』(1916)や『英文藻鹽草』(1929)など見事な対訳書があり、本校図書館で閲覧できます。
とやま初の高等教育機関の設立の悩み
大正時代になっても、とやまには高等教育機関がなく若者達は進学に苦労しました。この状況を打開しようと岩瀬の豪商 馬塲はるさんは大正12年(1923)5月、百万円(現在の百億円相当とも)を県に寄付し、高等教育機関の設置を願い出ます。
恒太郎は父母の介護のため大学を休職し富山におり、初代校長を打診されましたが、すぐには応じませんでした。自らの独学体験から若者を支援したい一方で、僻地とされた富山の後発の学校に、優秀な教授と学生を集める方策に悩んだからです。
この年の9月1日、関東大震災が首都圏に甚大な被害をもたらしました。日本を世界に紹介した小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の未亡人せつ夫人は、ハーン蔵書の安全な保管場所が必要と考え、ハーン愛弟子の英文学者田部隆次(南日恒太郎の弟)に依頼していましたが、進展しませんでした。

『英詩藻塩草』英語教育の先駆者・英文学者として活躍
教育・研究の拠点となる高等教育の場を
この年11月、恒太郎は旧制富山高等学校(現富大)初代校長を受諾し、学校設立のために東京を訪れ、弟の隆次からハーン蔵書の現状を知ります。恒太郎はこの時の思いを『ヘルン文庫目録』(昭和2年)の序文に英語で記しています。
Only a few days before, I had consented to accept the position I now occupy, and I hailed the news as something providential. (訳例 ほんの数日前に、私は現在の職責の受諾に同意しており、その知らせを何かしら天佑のように迎え入れた)
素晴らしい学校への道筋が啓かれた感激が伝わります。2千冊を越えるハーン蔵書など1万5千円の巨額の支払いには私財を抛つ覚悟でしたが、馬塲はるさんは、快く資金を拠出なさいました。

称名滝にて 大正15年左から3人目
知の泉「ヘルン文庫」で文化を開こう
恒太郎は先述の『ヘルン文庫目録』序文に、次のように宣言しています。
And now the long-wished-for treasury is open at last. May lt forever serve as a Pierian spring, alike to professors and to students ! (訳例 さて、長らく待望の宝庫がついに開かれた。願わくばこの文庫が、教師及び学生両方にとってピエリアの泉たらんことを!)
「ピエリアの泉」は、ギリシャ神話で知識と霊感をもたらすとされます。小冊子『ヘルン文庫』(昭和10年刊)には、恒太郎は「北陸文化開発を思念し、本校をして北陸に於ける一大学園たらしめん」としたことが記されています。
富大附属図書館師弟同行によって
「知の拠点」を育てる
恒太郎は、学生とともに行動し、感化を図りました。その最期も、学生らと游泳中の急逝でした。
恒太郎の思い通り、ヘルン文庫を有し、全国初の七年制を採用した学園には、全国から志ある優秀な教員・学生が集まり、本校からも多くの生徒が進学し、高い成果をあげ、人材が育つ名門校となりました。
戦後は、新制大学設立の中核となり、今や日本海側最大級の国立大学に成長した「知の拠点」富山大学に引き継がれているのです。
(木下晶 84回卒)

↑ヘルン文庫webサイト富大附属図書館