
田 部 隆 次 〈5回〉
逆境の中で学問を志した少年時代
田部隆次(1875~1957)は、秀才として名高かった南日恒太郎(本校2回)の実弟であり、大変優秀な生徒でした。生後間もなく他家の養子に出され、養家の都合で実家に戻ってからも経済的理由から本校受験を反対されるなど、少年期に辛い思いを重ねました。
本校在学中に田部家の養子となりますがここでも苦労を重ねる中で学問を志しました。本校卒業後は養母の負担を考え、仕送り期間が旧制高校に比べ3年間と短かった東京専門学校(現 早稲田大学)に進学し、坪内逍遙や夏目漱石にも学んでいます。
この間に養母が逝去し、遺産相続の争いに決着がついたことで、1896(明治29)年に念願の文科大学(現 東京大学)の英文科に全科選科生として入学します。当時の試験官の一人には英語学者の神田乃武がいました。
英文科時代恩師ヘルンとの出会い
隆次の入学した年の9月に、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲 以下ヘルン)が講師として大学に赴任します。
隆次はヘルンの英文学の講義を受け、著書を読み感動します。この講義は学生ノートによって翻刻されて現代も読み継がれています。
富山大学附属図書館「ヘルン文庫」には、隆次が晩年に口述し、娘の内田百合が筆記した『田部隆次の半生』が収められています。
その中では、ヘルンが学生に創作力を評価するレポートを課していたこと、隆次の英文が高く評価され「ホーソン全集」や「ラスキン全集」などが贈られ賞されたことなどが記されています。ヘルンは愛情に満ちた教育者であり、優秀な学生には、私財を投じて援助をしていました。

金沢四高での教員時代
大学卒業後、隆次は金沢四高(現 金沢大学)の教員となり、教員仲間だった西田幾多郎らと交流しました。
学生には富山出身の正力松太郎や河合良成ら、後に日本を動かす俊秀がいました。
旧制高校の入学試験では各高校の教員が東京に集まって採点していました。当時一高の教師だった恩師の夏目漱石とも親しくなり、互いに往来しています。
伝記・全集執筆とヘルン文庫創設
四高に8年勤務する間の1904(明治37)年に、ヘルンが亡くなっています。その後、隆次は神田乃武の推薦で学習院女学部教授となり、西大久保に住むようになります。
家が近いこともあり、ヘルン未亡人の小泉節子さんから頼られ、英文の手紙の代筆などを皮切りに、後には、伝記『小泉八雲』(1914(大正3)年)を執筆します。さらに、京都府の学校長への転任を打診された際には、『小泉八雲全集』の飜訳・編集などのために辞退し、武蔵高等学校教授、津田英学塾教授を歴任しました。
節子夫人が依頼したヘルン蔵書の譲渡については、実弟の田部重治の法政大学側の事情で行きづまっていました。1923(大正12)年の関東大震災後、新設の旧制富山高等学校初代校長として上京した南日恒太郎は、この話を聞き、貴重な文献資料として、ぜひ富山に欲しいと説きました。節子夫人は、隆次への信頼のもと、恒太郎の熱意を知り、譲渡を決心したのです。富山大学「ヘルン文庫」は、本校の先輩が培った師弟の絆と学問への情熱から生まれたと言えます。
本校図書館で著書にふれよう
伝記『小泉八雲』「序」の冒頭は、ヘルン自身がこの呼び方を気に入っていたという、師への敬愛の思いが溢れる一文から始まります。本稿もこれに敬意を表しヘルンと記しています。
この書は、欧米のヘルン伝記を検証し、日本時代を加え、節子夫人の「思い出の記」や、ヘルンの人柄や感性や思想が理解できるエピソードが多面的に記され、興味深く読める名著です。
隆次らが手がけた『小泉八雲全集』(全17巻 第一書房 1928)も高く評価されています。
1950(昭和25)年に富山大学で開催された「ヘルン生誕百年記念祭」で隆次は「小泉八雲と日本」との演題でヘルンの人物像を多面的に語りました。当時は、75歳の高齢で失明に近い状態でしたが、師への思いが溢れる講演です。
いずれも本校図書館が所蔵しており、ぜひ手にとってほしいと考えます。なお隆次の孫には、評論家の村松剛や女優・詩人の村松英子がいます。
(木下晶 84回卒)

※1『小泉八雲 東大講義録 日本文学の未来のために』(ラフカディオ・ハーン著 池田雅之:編訳 角川ソフィア文庫)
※2『へるん倶楽部』第7号 (2009.6 富山八雲会)