
英語教師 C.L.ブラウネル
本県初の外国人英語教師 C.L.ブラウネル
富山県初の外国人教師が本校に赴任
明治時代、近代化を急いだ日本の学校では、欧米諸国の外国人を教師として求めました。日本政府から高額報酬が支給され、敬意とともに「お雇い外国人」と呼ばれました。
明治19(1886)年の「中学校令」「尋常中学校ノ学科及其程度」により、英会話が必修科目とされ、外国人教師を雇うことが県議会で決定されました。
富山県初のお雇い外国人教師、C.L.ブラウネルは米国人の文学修士・理学士で、ハーバード大学などを卒業後、1986年頃来日しています。駿河台の東京学館や東京専門学校(現早稲田大学)の講師を務めた後、明治21(1888)年11月から富山県尋常中学校(本校)に20代半ばで赴任しました。月給100円は、一般の大工や左官が5〜6円であった頃、県知事などに次ぐ破格の額でした。
ブラウネルの授業について、本校2回生の桑島虎次郎は「氏の授業は立派なもの」とし「英語の達者な勉強家が生まれた」と述べています。(『富中回顧録』昭和25年)
歌舞伎への傾倒と、社会階層を超えた文化交流
ブラウネルは日本で歌舞伎に魅せられています。富山には、元禄14(1701)年に第二代藩主前田正甫が幕府に許された、全国11の歌舞伎の常設小屋のうちの1つがありました。ブラウネルはある時、素晴らしい芝居を見て、役者2人を招いたところ、一座全員がやってきて近所の料亭でもてなし、町の人も加わり交流を楽しんだと記します。
「役者を歓待したという情報が広まって、残念ながら社会的地位を失ったのだと思うが、それにしてもとても楽しかった」と記しています。当時は役者の社会的地位が低く見られ、ブラウネルのフランクな交流は教員の行動として問題視されたようです。
本校以後のブラウネル
本校へ赴任期間1年半ほどで、1890年から福井県尋常中学校(現藤島高校)で半年教え、後に帰国。ニューヨークタイムズなどのコラムニストとなり、”Tales from TOKYO”(1900年刊)出版後、大英博物館で日本研究に携わり、晩年は米国に帰り、教育に携わっています。
外国人教師の確保と、英語教育への願い
本校は、ブラウネル以降もG.N.ウエルス、アンドリュー.フォスターなど、外国人教師を次々に採用し、英語教育の向上に努め優秀な生徒を育てました。哲学者蟹江義丸、英文学者三兄弟・南日恒太郎・田部隆次・田部重治や本県最初の大臣の南弘などたる人材があげられます。
明治時代の北陸の人々が魅力『日本の心』
ブラウネルの著書『日本の心』※2は1902年ロンドン、翌年ニューヨークで出版されています。
その「序」には、「およそ旅行者が足を踏みいれたことのない日本の地、しかも今まで外国人が誰も来たことがないところに暮らし」「日本人の生活の中の本当の内なる精神、(中略)古くて魅力的な日出ずる国の精神を垣間見たと信じている」とし、「日本人の物の見方を示したいという、心の奥の願い」から本書を著したと記しています。
当時の多くの日本研究者は、日本人の精神の解明をめざしました。ブラウネルの他にない特徴は、北陸での体験を、魅力的に描いている点です。

米国の公立図書館で日本を知る本として人気
1904年は、日露戦争により日本への関心が世界的に高まり、この年の全米公立図書館における日本関係書籍の請求数では、1位のラフカディオ・ハーンの『神国日本』に次ぐ2位※3でした。日米文化交流史でも、注目すべき冊子と言えます。
読んでみよう『日本の心』本校図書館に寄贈
『日本の心』(高成玲子原訳富山八雲会編集)には、とやまの子どもの遊び、芝居や邦楽、ご葬儀などが描かれます。また能登の海女や北陸の女性や人々の姿が、外国人ならではの好奇心と率直な観点でウィットととも描かれており、大変魅力的です。
本校卒業生で出版に当たられた、TBSディレクター高成麻畝子(102回)さんから、本校図書館に10冊が寄贈されています。
英語の原本もあり、ぜひ手にとってほしい一冊です。
(木下晶 84回卒)

高成麻畝子氏の寄贈
※1 クラレンス・ルドロウ・ブラウネル(1864 ~ 1927)アメリカ合衆国コネティカット州ハートフォード生まれ。
※2『日本の心』原題”THE HEART OF JAPAN” CLARENCE LUDLOW BROWNELL 1902 LONDON 邦訳2013年 桂書房
※3「日露戦争中、米国で読まれた『日本』米国公共図書館で請求された日本及び日本文化関連書物に関する考察」塩崎智(敬愛大学国際研究第16 号2005 年12 月)による。