
田 部 重 治〈14回〉
病弱な中で学問を志した少年時代
田部重治(1884〜1972)は、南日恒太郎(本校2回)、田部隆次(5回)の実弟です。英文学者として有名なことから、南日三兄弟と呼ばれました。
重治は、幼少年期は病弱で、登山など思いもよらないことでした。しかし、立山連峰を仰いで育つうちに、心には山への憧れが芽生えていました。
本校などでの恩師との出会い
1897年、本校に入学した重治が大きな影響を受けたのは、漢文教員で登山家の小杉復堂でした。
1902年、入学した四高(現金沢大)には、兄で日本山岳会会員の田部隆次が教授におり、英語教員の林並木から聞いた、日本の自然と文学の魅力に感銘を受けますが、体力は不足していました。
1903年には、田部家との養子縁組が決まりますが、同年に、母や、叔母が相次いで亡くなります。
多くの人との出会い 登山と英文学研究
1905年6月婚約者急逝で傷心の重治を慰めようと7月の四高卒業後、兄の恒太郎と隆次が誘い、神通川を遡行し、高山までの初の山旅をしました。
9月に東京帝大英文科に入学し、夏目漱石や上田敏らに師事し、中勘助らと級友となります。
近所の新聲社(後の新潮社)に出入りし、編集者の木暮理太郎と知り合います。木暮との出会いが、その後の山岳研究の原動力となりました。1908年、東京帝大卒業後、重治は帰省の際の妙高山登山を皮切りに、登山に邁進するようになります。
明治大や中央大の講師を始め、1910年に田部家に入籍。英国の文学者・評論家ウォルター・ペイター(1839〜1894)研究に取り組み始めています。
1912年4月、東洋大教授となり、英語や文学概論などを教え、また11月から海軍経理学校の教師として心理学なども教えています。
1922年法政大法文学部が設置され、漱石門下の森田草平らとともに英文学教授に就任しました。
ヘルン文庫の誘致を試みる
新学科創設記念のため、兄の田部隆次を通じて、小泉八雲の旧蔵書(通称ヘルン文庫)の誘致を働きかけましたが、譲渡額の工面に苦しみました。
1923年9月に関東大震災後も譲渡話は進みません。こうした事情を知った南日恒太郎が、田部隆次と小泉せつさんを説き、旧制富山高校の初代校長として、とやまにヘルン文庫を誘致したのです。(詳細は158号人物伝33、159号同34参照)
自然詩人ワーズワースの影響
重治の重要な研究テーマは、ロマン派詩人ウィリアム・ワーズワース(1770〜1850)です。自然の中に崇高な存在を見出だし讃美する詩が親しまれており、重治自身も深い影響を受けています。
渓谷と森林の美に魅せられて
日本の自然美は、豊かな森林に守られた渓谷と清流にあります。頂上をめざす西洋アルピニズムに対して、重治はこうした自然美にふれることに大きな意義があると主張し、多くの人が共感しました。
「絶頂よりも渓谷、雪よりも深森という風な変化が、著しく私の山に対する志向の上に現れるようになってきた。」(『深林と渓谷』(1918)
「(西洋の)アルプスと日本の中部山岳とを比較して、日本の山の麗しさは山腹を取り巻く樹林と渓谷にあると言ったウェストン※1 の言葉は至言である」(『日本の自然美』(1941)と記しています。
戦前・戦後を通じ、熱心に学生を指導
その後、時代が戦争に向かう中、1941年法政大学英文科廃止とともにやむなく教授を辞し、困窮の中にあって山旅も難しくなり、1944年には友人の木暮理太郎が亡くなっています。
困難な戦前・戦中時代を経て、戦後は東洋大など大学や大学院で熱心に学生を指導しました。一方で、病苦のため登山は制約されました。「わが散文詩・わが詩」と記されたノートの最後のページには、次の二首があります。
雨樋の中に巣を作りいる
親雀くわえ来るもの見ればいじらし
悲しみの思い出多く深くして
花やぎ知らぬ生命なりけり 八十八翁(入院中)
読んでみよう 名著『山と渓谷』
重治の山岳随筆は、自然と人の関わりを文学者の目で見つめ、時代を超えて人々に親しまれてきました。『山と渓谷』は、パイオニアとしての重治の登山と思索が分かる一書です。本校を始めとして公立図書館が所蔵し、一般書店でも購入できます。ぜひ手にとってほしいと考えます。
(木下晶 84回卒)
参考文献:「『山と渓谷』岩波文庫/『田部重治の登山と英文学』田部重治研究会/『田部重治詩歌集』田部重治先生詩歌集刊行委員会/他
※1ウォルター・ウェストン(1861 〜 1940)英国の宣教師、登山家。『日本アルプスの登山と探検』などを執筆。