-校歌を作った人-

大島 文雄<32回>

温容な心で学びの庭と学びの徒の歌を作る。 

本校の校歌は、作詞は大島文雄、作曲は山田耕筰。作詞者の大島は明治35年(1902)富山市覚中町に生まれた。大正9年富山中学を卒業し、第四高等学校(現金沢大学)に入学した。高校時代に富山中学出身者たちを中心として同人誌『ふるさと』が刊行され、大島は随筆・短歌・挿絵・表紙絵などを執筆した。同人は中学2年先輩の大間知篤三をはじめ、同輩の杉山産七・高安周吉・中井精一等多彩な顔ぶれであった。大島はまた『四高短歌会』にも参加し、中野重治とも親交があった。やがてこのように培われた文学的素養が大島をして東京大学文学部国文科へとすすませたのであった。

卒業を間近にひかえた大正15年(1926)3月、大島は小学校以来の親友中井と大学の構内で出会った。大島は「間もなく郷里富山の高校で教鞭をとることになるが、自分のようなものに教えることが出来るだろうか」と真剣に語りかけた。瞬時戸惑を感じながらも、中井は「教えることは学ぶことではないか。元気を出して頑張ってくれたまえ」と励まし、大島の真面目な顔を見て安心したと、弔辞の中で中井は切々と語っている。大島の謙虚な人柄がうかがわれる話である。そして、昭和2年旧制富山高等学校に赴任して以来、富山大学・富山女子短期大学・富山医科薬科大学と、大島は生涯の大半にわたってひたすら高等教育に携わってきた。

ところで、教え子や関係者からの要望によって、大島は校歌や会社社歌等百編以上も作詞した。中でも母校の後身本校の校歌の作詞は、大島にとっては思いで深いものであった。当時の校長岩田栄治は、創立70周年を期に、校名変更と校歌・校旗制定とを念願し、校歌の作詞を中学3年先輩の大島に依頼した。伝統ある母校の作詞など荷が重いと即座に思った。さらに作曲を山田耕筰に依頼して「日本一の校歌を作りたい」という岩田の意気込みを知ってかたく辞退した。しかし、中学同期の富川保太郎・常田政信等の強い勧めによって引き受けざるを得なかった。山田に作曲の興味を失わせない作詞を、と思うとやり切れない気持ちになったが、引き受けた以上は、母校の威容・若者の学ぶ姿・郷土の自然の力強さなどを感動をこめて歌おうと固く心に誓った。渾身の力を振り絞って一カ月ほどで作り上げた。当時の音楽教師大間知初枝は、恩師の山田から「品格のある校歌だ」と一言添えて楽譜を手渡された時、感動と感謝の念で言葉が出なかったと大島に語った。このことを聞いて、山田が常日ごろ「校歌の歌詞でポエジーのあるものは北原白秋のものぐらいだ」と言っていたことを思い出し、予想外の過分な言葉と受け取って安堵の胸をなでおろした。

昭和47年(1972)、長年の教育界における功績により勲二等瑞宝章を受章し、昭和54年(1979)、富山市名誉市民に推挙された。誠実な心で万葉集や源氏物語を教え、清澄な心で自然や文化に接し、そして温容な心で学びの庭と学びの徒の歌をつくった。これらに精魂を傾けた大島は平成3年(1991)この世を去った。享年89歳。その法名は『釈教薫』、何と人柄にふさわしい名号であることか。
(123号)

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