-近代医学研究の先導者-

他力も亦自力なり。多くの良い弟子を育て彼らと研究を共にする。 
およそ研究室に出入りする者は五訓を肝要とす。運・金・鈍・銀・賢是なり。感情は鋭なること勿れ。鈍なれば欺かず。難易によって移らず。些の不平なし。根は興味と責任と健康とによりて生ず。賢は小なるべからず。大賢は愚に似たり。他力も亦自力なり。金は足るを知る。運は天と我とにあり至誠以てを貫くべし。(大学定年退職時に門下生に与えた「五訓」)

石川日出鶴丸は明治11年(1878)、射水市小杉町白石の医者の5男として生まれた。石川家は代々医を営む名家であり、とりわけ祖父の良逸は、華岡青洲の門をたたいて学んだ名医であった。日出鶴丸は明治24年富山県尋常中学校(現富山高等学校)に入学した。この第8回同期生は、石川大生理学を確立した石川日出鶴丸、明治文学史著した岩城準太郎、俳文学を樹立した志田義秀など多士済々である。石川は第四高等学校(現金沢大学)に進み、さらに明治32年(1899)に東京帝国大学医学部に進んだ。卒業の翌年の明治37年(1904)に京都帝国大学医学部生理学研究室に入り、助手から助教授へと歩を進めた。そして明治41年(1908年)欧州に留学した。 

4年間の留学中、ロシアのイワノフ教授から「人工授精」、ロシアのパブロフ教授から「条件反射」、ドイツのフェルボルン教授とイギリスのシェリントン教授から「生理学」を学んだ。石川は大正2年(1913年)日本で最初の人工授精を馬で実施してみごとに成功した。また、日本の条件反射研究は石川から始まった。帰国の際、シェリントン教授は「人間一人が一生涯かけて研究する量はしれたものだ。だから多くの良い弟子を育てて彼らと研究を共にした場合、幾十倍もの研究業績を上げることができる」という言葉をおくった。石川はこの教訓に従って多くの研究生を育成して「石川大生理学」を確立するとともに、その門下生から21名もの医学部教授を輩出した。とにもかくにも石川の学問に対する愛情と情熱は極めて大きなものであった。ときにはだれかれの別なく激しく論じ、周囲を辟易させたが、そこには学閥などへの手加減など微塵もなかった。この石川の全人格的研究活動を慕って、彼のもとに多くの医学生が集まった。実はこの一徹な人間的風格は厚い信仰心によっても支えられており、今法然とも称されていた。このことは、上記の「五訓」からも十分にうかがわれる。  

ここで、石川の温かい人間性を紹介してみたい。27歳で未亡人となった姉は、借金しながら息子を医者に育て上げた。その息子が応召されて中国の病院にいた時、寂しく家で病の床に臥していた。このことを知った石川は、即座に大学を1カ月休んで姉のもとに馳せ参じた。汚物の始末に至るまで自分の手で行い、姉の看病に没頭した。後にこのことを知った息子の三辺義人(39回卒・富山市民病院創設者)は、滂沱と涙を流し母への哀悼と石川への感謝は生涯忘れてはならないと決意したのであった。

石川は、自然の理を求め・究めるも、自然の理に忠実に従わなければならないという信条のもとで、医学研究に邁進しつづけ、69歳の生涯を終えた。
(124号)

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