-中国古代史研究・16代目島の徳兵衛-

岡崎 文夫 <16回>

見よまいか 見まいか 見よまいか 島の徳兵衛の嫁 見まいか岡崎文夫先生 お縁に七棹 座敷に八棹

上の歌謡は、富山市梅沢町の天台宗正覚山円隆寺で、毎年7月の盂蘭盆に催される「さんさい踊り」の歌詞である。島の徳兵衛は岡崎徳兵衛のことである。岡崎家は、富山市西本郷一帯の土地をほとんど全部を有していた江戸時代からの豪農であり、代々富山藩の十村役を務めた名家である。岡崎文夫は、この徳兵衛・十六代目である。

文夫は、明治21年(1888)の生まれ。明治38年(1905)富山中学校(本校の前身)卒業、第四高等学校(現金沢大学)を経て明治42年(1909)京都大学史学科に入学した。四高では西田幾太郎、大学では内藤湖南・狩野直喜・鈴木虎雄など錚々たる学者の教えを受けた。はじめは中国近代史に注目していたが、大学院に入ってからは中国古代史を専ら研究するに至った。これは内藤湖南の影響によるものだろう。その後、中国に留学し、大正13年(1924)東北大学文学部史学科助教授に任ぜられ、仙台に居を構えた。翌年英仏に留学した。

大正15年(1926)帰国の途次、父の佐次郎と一緒に中国を旅行した。父は「老後の楽事ここに極まれり」と喜んだ。佐次郎は衆議院議員を務め犬養毅とも昵懇の間柄であったが、政治家になることをさして好まず、漢詩文をこよなく愛し「藍田」と号して漢詩を多く作った文人であった。文夫が中国史を研究したのは父のこの姿に影響されたものであろうか。文夫は書物を広く読み究め、用意周到な講義ノートを作成して教壇に立った。文夫の研究におけるこの識見卓犖ぶりから「東北大学に岡崎文夫の東洋史あり」と喧伝された。その最初の成果が『魏晋南北朝通史』(昭和7年・弘文堂刊)の大著である。文化史に重点を置いて中国の歴史を見渡した恩師の内藤湖南はこの書に漢文の序を贈った。湖南は厳しく評しながらも、政治史に重点を置いたこの通史の新しい研究方法に率直に目を見張ったのである。

文夫は昭和24年(1949)大学を定年退職して故郷に帰った。農地解放によって広大な岡崎家の農地もほとんどなくなって家屋敷だけになっていた。さらに前年の洪水で二、三年前から家に送っていた膨大な書籍類が水に漬かってしまっていた。しかし、四十余年ぶりに我が家に落ち着いた文夫は、これからは晴耕雨読の生活をしようと心に誓っていた。それも束の間、翌25年3月、発病してから4日後に、現代の司馬遷と称されていた生粋の歴史学者は突如としてこの世を去った。享年62歳。

■岡崎文夫の主な著書から■

Ⅰ.『新制東洋史教科書』(三省堂刊)中学校・女学校用の歴史の教科書。昭和十年代によく用いられた。図版や地図も多く取り入れ、日本の歴史と対比した年表も挟み込んだ懇切丁寧な教科書。諸子百家の説明など今も参考になるところが多い。

Ⅱ.『司馬遷』(昭和22年・弘文堂教養文庫)「史記」を最も愛読したことから必然的に生まれた書。司馬遷の全貌を把握するのに最適の書。辛辣な批評で有名な武田泰淳は自著「司馬遷史記の世界」の中で、この書を「小冊子であるが、丁寧親切にして内容豊富な解説書である」と珍しくも好意的に評している。

Ⅲ.『魏晋南北朝通史内編』(平成元年・東洋文庫)前述の大著の内編と外編とを二分して、その内編を再刊行した書。中国古代史研究のためには掛け替えのない書。史記をはじめ種々の史書からの引用は幅広くかつ精確であり、今も研究者にとっては必携の書となっている

Ⅳ.『隋唐帝国五代史』(平成7年・東洋文庫)死後45年後、文夫の講義を受講した研究学徒たちがノートを持ち寄って編集刊行された書。学徒の一人は次のように述懐している。 先生の講義は、今日はどういう講義をするのかから始まり、今日話したことをまとめるとこういうふうになるんだということをきちんと述べて終わりとされた。一回一回非常によく考えてノートを作っておられるという感じを受け感心しました。したがって、中途半端で講義の時間が終わるということは決してなかったわけです。

上述の書はどれも富中富高文庫に納めてある。生前の研究が死後ますます価値を発揮するとは。その不滅の学究力に驚嘆するとともに、このスケールの大きな先輩に対してあらためて尊敬の念が心底から湧いてきてならないのである。 (66回卒・神島達郎)

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