
石黒 宗磨 <26回>
石黒宗麿は明治26年(1893)射水郡作道村字久作業中の石黒宗磨 々湊(現在の射水市久々湊)の医者の長男として生まれた。独学で中国古陶磁の技法解明と復元に生涯をかけ、昭和30年(1955)),鉄釉陶器の技で重要無形文化財保持者(人間国宝)第1号に認定された。
宗麿は13歳で県立魚津中学に入学したが、明治43年(1910)4月に旧制富山中学3年に編入学した。翌年秋に富山中学を中退、慶応義塾普通部3年に転学している。20歳の時、金沢の野砲兵第九連隊に入隊、やがて朝鮮に駐屯した。23歳で金沢に帰還したあと野田で楽焼(※手づくねで作る鉛釉の陶器)を見て陶芸に関心を抱くようになった。除隊後父が開業医をしていた新湊立町に楽窯を作り試作を始めた。大正8年(1919)26歳の時上京し、やがて渋谷の松濤に窯を築く。2年後岩佐とうと結婚。同12年、関東大震災によって埼玉県小川町に移住し、苦しい生活を続けた。再び金沢野砲兵第九連隊に入ったが除隊後楽焼の肖像彫刻や置物などを製作、笠山焼の名で販売した。大正末から昭和初年にかけて富山市、金沢市で、昭和2年(1927)には東京丸ビルで展示会を行った。この年、作陶の中心地京都に移り、東山蛇ケ谷に窯を作った。近くに間借りしていた小山冨士夫と知り合い生涯の友となる。小山は中国古陶磁研究の第一人者となるが、石黒宗麿の陶芸を高く評価した最大の理解者であった。
小山と宋磁を研究し初めた頃、稲葉家の曜変天目茶碗(現在は静嘉堂文庫美術館所蔵の国宝)を見て、その技法の復元を志すようになったといわれる。また小山を通じ大原美術館長武内潔眞、大原孫三郎などとの交流が生まれ、物心両面の支援を得た。昭和10年(1935)、佐賀県唐津に赴き、古窯跡を調査、研究し唐津焼を製作する。同年夏、京都洛北八瀬近衛町に窯を築き、生涯の仕事場とする。同12年44歳の時パリ万博に「唐津風大鉢」を出品して銀賞を受け、同14年中国宋代の柿釉、翌年木葉天目の技法を初めて再現し高い評価を受けた。15年には小山冨士夫の尽力もあって東京で個展を開いた。17年東京高島屋の工芸展に出品した柿釉鉢が受賞し、やがて木葉天目茶碗の完成に成功して注目を浴びた。
戦後は日本を代表する陶芸家としてフランス・イタリア・アメリカなど海外に紹介された。一方日本伝統工芸展では独力で解明した様々な技法を用いて鳥文や魚文をデザインした鉢や壺を発表した。昭和30年、鉄釉陶器により国指定重要無形文化財技術保持者に認定され、人間国宝第1号となった。陶芸家荒川豊蔵、浜田庄司、富本憲吉らも同時に認定された。 宗麿には陶芸の師はなく、古陶を徹底的に研究し、自ら技法を解明し習得した。彼は書画にも秀でていたが、同じく古典だけが師であった。
平成10年(1998)郷土の偉人・石黒宗麿を顕彰する新湊市博物館が開館し、
陶芸作品とともに書画や所持品も収蔵された。黒華壺その中に唐詩選など漢詩・漢文の書籍も含まれている。陶器や書画に示された五言絶句や七言絶句の漢詩は彼が自ら学んだものであるが、富山中学在校中に学んだ漢詩の魅力が蘇ったのかもしれない。当時本校には26年間在職し全生徒から敬慕された漢文教師斉藤八郎先生が教鞭を執っておられた。(本誌127号に紹介)
人間国宝認定の翌年新湊市名誉市民に推された。また本校26回生として母校富山高校に作品「絵高麗文字壺」を寄贈し、現在、百周年記念館に収蔵されている。昭和43年(1968)京都で没した。享年75歳。
(元本校教諭 日本史 保科 齊彦)
参考文献: 小山冨士夫監修『石黒宗麿作陶五十選』(朝日新聞社)
石黒宗麿』(新湊市博物館開館記念)
小野公久『手紙が語る石黒宗麿の心』(新湊市民文庫)
定塚武敏『越中の焼き物』(巧芸出版)
小野公久監修『石黒宗麿書簡集』(射水市新湊博物館)
『富山大百科事典』(北日本新聞社)その他多数。
(元本校教諭 日本史 保科 齊彦)
