-講道館柔道を伝えた先生-

大島英助先生<職員>

本校に講道館柔道創始者嘉納治五郎の書『身心自在』大島英助先生の扁額があることを知っている人は意外と少ない。ロンドンオリンピックで日本柔道が苦戦したが、世界中の柔道人口が増加し、その頂点に立つことが難しくなったことが理由の一つであろう。日本の柔道を世界の柔道に広めたのは嘉納治五郎の功績である。嘉納の扁額がどのような経緯で本校にあるか正確なことを聞いてはいない。しかし『富中富高百年史』編纂のおり、本校と嘉納治五郎との間に大島英助先生の存在があることを知った。

明治27年(1894)、本校の前身、富山県尋常中学校の物理・化学・英語・体操の教師として大島英助教諭が着任した(当時、校舎は総曲輪にあった)。大島先生は慶応元年(1865)山形県米沢市に生まれ、苦学力行しながら旧制第一高等学校から帝国大学理科大学物理学科(現在の東京大学物理学科)に進んだ。卒業後まもなく本校に着任したが、すでに30歳近くであった。嘉納治五郎が講道館柔道を創始し、東京下谷永昌寺のわずか12畳の道場で活動を始めたのは明治15年である。大島先生が大学入学後間もなく講道館に入門し、嘉納治五郎師範の直接指導を受けたと思われる。本校に着任した明治27年には全国でもまれな講道館柔道2段の有段者だったといわれている。

当時は生徒・教師間でのトラブルやストライキ騒ぎで学校は荒れることが多かったが、訥弁ながら鷹揚な先生は生徒からの信望が厚かった。大島先生の着任によって28年2月から柔道を体操科の一部として取り入れることになり9月に開始式を行っている。29年には5年生で週3~4回、4年生3回、2、3年生2回の割合で柔道の時間が割り当てられている。寒稽古も行われ、30年6月には校内での柔道紅白試合も行われた。柔道を教育の一環として取り入れたのは嘉納治五郎が教師をしていた東京高等師範学校(後の東京教育大学、現在の筑波大学)付属中学校が最初で、明治26年1月のことである。本校はその2年後の導入であるから、全国でも最も早く有段者による柔道教育を始めた中学校といえる。国が旧制中学の教育に柔術または柔道を正式に取り入れたのは明治31年(1898)からのことである。他校に先んじて柔道を教育科目にできたのはまさに大島先生の存在があったからこそである。こうした中等教育における柔道の導入にあたって、大島先生が大学の先輩で柔道の師である嘉納治五郎師範を本校に招いて直接指導を仰ぎ、その折冒頭に記した柔道の基本である『身心自在』の揮毫を依頼した可能性は想像できる。もっとも総曲輪校舎は明治32年(1899)に富山市大火で焼失しているので、扁額の寄贈は明治33年太郎丸校舎に移って以後のことであろう。嘉納師範来校の有無はともかく、高弟大島英助が在職した本校からの頼みなら快く扁額の揮毫を承諾されたであろう。大島先生が後に校長として在職した福井県立福井中学校(現在の藤島高校)の場合は、寒稽古に嘉納治五郎を迎え、その指導を得て実施している。

大島先生の本校在任はわずか3年で、高知県尋常中学校海南学校教諭に転任し、さらに2年後の明治32年には35歳で福岡県立中学名善校の校長となった。同41年福井県立福井中学の校長となり、昭和7年(1932)、68歳まで同校校長を勤めあげた。一生を中等教育に捧げた名物校長として全国的にもよく知られた教育者であった。大正3年(1914)、柔道3段の時に講道館四天王の一人横山作次郎と共に著した『柔道教範』は英語・ドイツ語・フランス語に翻訳され、柔道啓蒙の書としてヨーロッパの人々の注目を集めた。恩師嘉納治五郎の「日本の柔道」を「世界の柔道」への願いの実現に大きな役割を果たしたに違いない。嘉納治五郎筆『身心自在』の扁額は昭和46年(1971)本校火災の折、額装が損傷したが、やがて補修されて今も柔道場に掲げられている。

保 科 齊 彦(元教諭、日本史)加納小五郎の篇額
※参考資料:『富中富高百年史』・『富中回顧録』・『富山中学校一覧』・『富山日報』・『中学教育史稿』・『富山高校史資料及び美術品目録』・小林健寿郎著『偉大なる教育者・大島英助』
※大島英助先生写真:一般社団法人明新会(福井県立藤島高等学校)提供 

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