-文芸を学問研究の対象とした先駆的国文学者-

岩城 準太郎<8回> 

「浮雲」の出づるや、世人は其内容形式共に、全然従来の作物と其選を異にするに驚き「書生気質」に比して隔世の感あるを認めたり。実に「浮雲」は「書生気質」を過渡の橋梁として新時代に入りし小説界最初の創作なりき。思ふに「小説神髄」の所説を最忠実に体認して純粋なる新時代模写小説の範となりしは『書生気質』に非ずして「浮雲」なり。固より前者は模写小説の粉本なりしも、前項に見えたる幾多の事実に之をして該種小説の範たらしめず、創新の名誉は挙げて後者に帰せり。

上の文章は、岩城準太郎の「明治文学史」の一節である。この著は、哲学者井上哲次郎・歴史学者坪井九馬三(くめぞう)・国文学者芳賀矢一の企画に基づく「明治歴史全集」の1巻である。明治36年(1903)、恩師の芳賀からこの企画に参加することを薦められ、明治37年(1904)5月から明治39年(1906)6月までの満2年をかけて執筆し、その年末に刊行された。準太郎28歳の時であった。明治35年(1902)に東京大学文学部国文科を卒業した。卒業論文は「源氏物語の題材」であった。すぐに大阪府立北野中学校に奉職し、明治37年(1904)に三重県立第一中学校に転任した。この20歳代の新米の中学教師時代に、この書が書き上げられた。当時はまだ同時代の文芸を本格的に学問の研究対象にする風潮がなかった。しかし、さればこそ準太郎は恩師の薦めに応じるためにも同時代の文芸を歴史的に研究することに敢然と立ち向かったのである。

そんな意気込みのもとで書かれた文章は、ヘーゲルの思考方法に倣った論述の仕方が感得され、しかも見事な雅文体で記述されている。当時の青年学者たちは、みなこのような雅文体で記述している。そのような書を手にした時は、かれらの言葉の豊かさと学問的素養の豊かさにきまって驚異の目を見張るのである。

準太郎は、明治11年(1878)上新川郡大広田村字大村(現富山市)に生まれた。母は分家をして父を婿養子に迎え、新しい家を構えた。明治24年(1891)に富山県尋常中学校(現富山高等学校)に入学した。中学時代は学校の近くに下宿した。真面目で多感な準太郎は、下宿部屋の石油ランプの灯の下で、逍遥・四迷・?外等の小説をはじめ、「早稲田文学」や「文学界」などの文芸誌を読み耽った。また、父の実家も母の実家も十村役を勤めた旧家であり、それらの家の土蔵には江戸時代の和本や木版刷りの漢籍などが多く保管されていた。準太郎は虫干しの手伝いをしながら、これらを読みあさった。後年「明治文学史」を著す素地がこの時に既に培われたといえよう。

準太郎は、その後、第四高等学校(現金沢大学)を経て、さらに東京大学に進んだ。明治41年(1908)に母校の第四高等学校に赴任し、大正4年(1915)に奈良女子高等師範学校(現奈良女子大学)の教授となった。以後、研究領域をさらに古代にまで広め、巨視的な構想のもとに「新講日本文学史」や「新修日本文学史」を著し、また日本文学を幅広く論じた「国文学の諸相」や「国文学群像」等を著した。昭和18年(1943)奈良女子高等師範学校を退官したが、奈良の地を終の棲家とし、二葉亭四迷の研究などにいそしんだ。昭和32年(1957)逝去した。享年79。

もう一度振り返ってみよう。「明治文学史」は、越中人譚:第58号からの転写明治の文芸を総合的に秩序立て、体系的に組織立てた最初の近代文学史として記念すべき研究書である。 それ故に、その後の近代文学研究に及ぼした影響は大きかった。 例えば、この書の示した時代区分や有力な流派の代表として評価し取り上げた作家・作品は、今日においてもおおむね変わりがない。まさしく本書は今日も近代文学研究の基礎的道標としての働きをしている。名著である。

写真は「越中人譚」58号からの転載
(66回卒・神島達郎) 

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