
高 木 常 七<23回>
ユニークな人柄
『北日本新聞』昭和33年6月28日の紙面には、「郷土から二人の最高裁判事出す」として、石坂修一(父は参議院議員・石坂豊一)と高木常七が取り上げられている。
二人はともに富山中学校出身(高木23回、石坂25回)である。東大法学部卒の石坂は「事実を正直にながめてきた」気骨漢であり、東京地裁時の河合栄治郎事件の無罪判決に代表される、イデオロギーに左右されない判決を行った人物である。広島・名古屋・大阪の高裁長官をへて最高裁判 事となった。
一方、高木常七の紹介文は、かなり変わっている。広くもない客間には趣味で集めた陶器と仏像、郷土色豊かなおもちゃがあふれかえっていること、「人間 はどちらかといえば、あほうの方がいい。あんまり利口になると、かえって不幸だから」との発言、法廷での和やかな雰囲気や、噛んで含めるような判決 がしばしば被告の感涙をよんでいること、早稲田大学卒業後、検事・弁護士・判事の「法曹三者」をすべて経験したが、判事になる時には迷い、浅草観音 のおみくじが吉と出たから転身を決めたなどのエピソードが書かれている。
最高裁判事として、彼は4年9か月余の在任の間、松川事件、砂川事件などの重大事件を手掛けた。特に松川事件では一審、二審の死刑を含む有罪判決を 破棄し、高裁へ差戻す意見に同調した。これはのちの再上告の棄却にもつながる重要な判決となった。
「その頃の思い出」―忘れ得ぬ師との出会い―
高木常七は、明治26年(1893)3月15日、富山市清水町に生まれた。富山中学校時代は自宅から3、40分かけて通学し、五年間無欠席だった。「病気に かからぬよう心掛け、通学に支障のない病気ならば、薬瓶を下げて通った」という。四年生の時、皇太子殿下(のちの大正天皇)の学校行啓があり、優秀な 生徒献上作品の中に彼の図画も選ばれている。
この富山中学校時代には高木にとって、忘れ得ぬ師との出会いがあった。
一人は斎藤八郎。その高潔な人格にひかれた高木は、五年生の時、斎藤に直接願い出て、同級生と毎週一回、斎藤宅で「孟子」の講義を受けた。「座 布団なしの畳の上に素足で座り、膝を崩さず一時間ばかりの講義は苦しみ」でもあったとのちに高木は語っているが、爛々として輝く眼と、さびのある鋭 い口調で一句一句説き進める斎藤の講義が、彼の人生に大きな影響を与えたことは間違いない。
そして高木が深く傾倒し、生涯にわたり交流を続けたのが国語担当の塩野新次郎であった。塩野は福井県出身で、富山中学校在任わずか3年で名古屋幼 年学校教官に転じたが、闊達な口調、誠実な指導で多くの生徒の信望を集めた。転任後も高木は原稿を書くたびに名古屋の塩野宅に送り、塩野も懇切丁 寧に添削をした。俳句に傾倒しかけた高木に「まずは勉学が大切」と叱咤したこともあった。大正5年(1916)に高木が早稲田大学英法科を卒業し、その後、 検事・弁護士を経て昭和21年2月に静岡地方裁判所長となった時、塩野はその新聞記事を見て真っ先に喜びの手紙を高木に送った。高木は常に気にかけて もらっていたことを改めて感じ、涙を流したという。
後輩たちへ
昭和40年(1965)10月、「創校80周年式典」及び記念行事が開催され、講師として招かれた高木は、全校生徒を前に、「理屈と道理について」と題し講演 を行った。その冒頭で当時の校長が本校出身であることに触れ、「自分の出た学校の自分の後輩を教える。これは非常にありがたいことだと思うんです。」 と語りはじめる高木。この講演は彼にとってこれからを担う後輩たちへの「授業」であったのかも知れない。難しい用語を控え、アパートの貼り紙をめぐ るエピソードから話を起こす。『論語』に書かれている孔子の言動に「法律家」的な面があることを紹介し、現行の刑法や民法の話と結びつけてみる。さ らに、法律の二つの解釈(文理解釈と論理解釈)について、小説の中の宮本武蔵を登場させて語らせる。こうした彼の持つ豊かな知識と巧みな話術が生徒た ちを惹きつけたであろうことは、講演記録から十分にうかがわれる。
この年の春、長年の功績が認められ、勲一等瑞宝章を賜った高木は、富高同窓会会報に寄稿した。彼は、中国の『戦国策』にある物語「死馬の骨」に なぞらえ、これは受章に値しない私が受けることで、もっと優れた人間が相次いで現れるであろう「深謀遠慮」と解釈し、「あっさり」拝受したと語る。ど んな時でも常に自分のスタイルを貫く高木であった。その10年後、彼は82歳で静かにこの世を去った。
(裏野 哲行)
参考文献: 『 富中富高百年史』。
『富中回顧録』(1950・10)の中の高木常七「その頃の思い出」。
『富山県立富山高等学校同窓会会報』第14号(1965・8)の巻頭に「死馬の骨」寄稿。
『むつみ23号』(1965・11)「創立80周年記念講演〝理屈と道理について〟」講演記録