
南 日 恒 太 郎<2回>

田 部 隆 次<5回>

田 部 重 治<14回>
小泉八雲蔵書が富山にやって来た幸運
小学校既卒業者が受験した、時期外れの明治18年1月の1回生に続いて、新卒業生で9月に入学した2回生の一人が、南日恒太郎である。卒業直前のストライキ首謀者の一人となり、また眼病が激しくなり、恒太郎は金沢の四高再受験を断念し、五年で退学する。以後は独学で、この失意のどん底から這い上がり、国語と後に英語の検定試験に合格する。英語の試験官神田乃武に引き立てられて、神田正則中学・京都の三高・学習院の教授へと出世した。「英文解釈法」を始めとする、いわゆる受験英語で、高等学校などの受験生にとっての、必携の書を多く出した。昭和27年に、昔を懐かしんだ人が、その口語版を出版して、御茶ノ水駅のプラットホーム前に、大きな広告を出していたがさすがに売れなかった。
弟の南日隆次(5回)は、生まれてすぐ養子に出されて、苦労した挙げ句、その後は生家に戻ったが、父と兄に中学受験を強く反対された。運よく、最後は認められたが「南日家で私程、中学に入るのに苦労した者はない。弟達は皆、帝大まで行っているのに」と受懐している。在学中、田部家へ養子に行くが、そこでもつらい目に遭い、中学卒業後に家出をして、東京で勉強することを認めて貰う。早稲田の専門部に3年通った後、文科大学(東京帝大)の専科に入学し、小泉八雲に高く評価された。卒業後、四高から女子学習院に長く務めた。
幼少の頃から身体が弱かった三男の重治(14回)は、大学に入って山登りを始め、山の紀行文(『日本アルプスと秩父巡礼』など)で有名になった。今でも奥秩父の雲取山荘では、7月20日に彼を記念して、山開きを祝っている。(この日は恒太郎の命日でもある。)リュックを担いで、長江の生家によく現われたが、戦時中、紀州の奥地で、風貌から外国人のスパイがきたとして、巡査に捕まったそうである。彼は別の田部家の、養子となった。
この三兄弟の協力の成果が、今日富山大学にある、有名な”ヘルン文庫”である。東京帝大の英文科の外人教師だった小泉八雲は、夏目漱石に押し出される格好で早稲田に移り、その1年後に没する。たまたま田部隆次は住居が近く、色々と夫人の小泉せつさんのお世話をする。後日、小泉八雲全集も編集した。
馬場はる刀自が、高等学校を寄付する。恒太郎は、この校長就任を打診される。恒太郎が逡巡するとき田部隆次から八雲蔵書の話を耳にする。これに先立って、田部井重治は法政大学の新設英文科の教授に就任する。貴重な八雲の蔵書の、安全な保存を望む小泉せつさんとの間を、隆次が取り持ち、法政大学が買い取る話がまとまるが、資金不足のため、話の決着は延び延びになっていた。 たまたま関東大震災で、まだ余震もありそうな時に、この話を聞いた恒太郎は、すぐに話をまとめる。せつ夫人の先約者への配慮、隆次の面子、重治の不満などを乗り越えて、多くの人々の協力で、ヘルン文庫が幸運にも富山にやって来た。
英語教育の3兄弟の母校である富山中学に、一卵性双生児の弟、江上英三(19回)と脇坂雄治(20回)も在籍した。さらに恒太郎の長男、南日実(25回、本校第18代、富山中学校最後の校長)も一学期だけだが在籍している。実の次男で孫にあたり、恒太郎の一字をもらった恒夫(59回)は昭和18-21年に在籍した。実の三男で末っ子の康夫は、昭和21年富山中学最校最後の入学生(64回)となり、学制改革で消滅する富山中学校の最期を父親とともに見届けたのである。
(南日康夫(64回)元筑波大学副学長、富山八雲会会長)
富山大学中央図書館にあるヘルン文庫は、毎月第2,3,4水曜日午後公開しています。
(131号)