
牛塚 虎太郎<10回>
内務官僚として地方行政に尽力地方行政に尽力
内務官僚として地方行政に尽力地方行政に尽力した牛島虎太郎氏
平成28(2016)年のオリンピックの東京誘致が話題になっている。もしこれが実現すれば昭和39(1964)年以来2度目の開催となる。しかし、これ以前の昭和15(1940)年に東京でオリンピックが開かれる予定であった。昭和15年は紀元二千六百年にあたるとされ、これを祝う盛大な国家的祝典が催されるのに合わせてオリンピック誘致が図られたのである。この時のライバルはヘルシンキであったが、昭和11年のIOC総会で36対27の大差で東京開催が決定した。しかし、日中戦争が拡大し、激しくなるなかで、軍部の圧力で中止させられ、幻のオリンピックとなったのである。このオリンピック誘致に大活躍したのが、当時、東京市長であった牛塚虎太郎(第10回生)であった。また、この昭和15年には万国博覧会も東京市と横浜市が共同で開催するはずであったが、これも幻で終わっているが、ここでも牛塚は活躍している。
牛塚は射水郡水戸田村(現射水市)の出身で、富山中学卒業後は、第四高等学校・東京帝国大学を経て明治39(1906)年逓信省に入った。明治45年、宮内省に入り、天皇の崩御にともなう明治天皇大喪使事務官及び大正天皇即位礼の大礼事務官に就任した。この時、即位式や大嘗祭など天皇の即位にかかわる儀式の研究を行い、『大礼要義』を著し、その後の天皇の大喪や即位の資料となっている。大正5(1916)年に内閣統計局長に就任し、以前から懸案となっていた国勢調査の実施に向けて取り組み、同9年には臨時国勢調査局次長として陣頭に立って指揮して第1回国勢調査を完遂させている。
大正11年に内務官僚として地方行政に携わり、岩手県知事、群馬県知事、宮城県知事、東京府知事を歴任して、昭和6年に官界から退いたが、岩手県知事時代には、それまでの「巌手県」から「岩手県」に改めた。また県土全域をくまなく視察したと伝えられる。岩手県は広すぎるうえ、当時は交通網が未発達で、これまでの知事はだれも全域を視察しなかったといわれるが、牛塚は馬に乗ってこれを成し遂げた。富山中学校で野球選手としても活躍し、宮内省時代に主場寮で乗馬を習得したほかテニス、ゴルフなどにも打ち込む牛塚は、単なる秀才であるだけでなく、当時としては珍しいモダンなスポーツマンでもあったのである。オリンピック誘致に力を傾けたのもこうした資質が背景の一つとなっているのであろう。群馬県知事に就任したのは関東大地震後の不況の時期であり、17%減の大緊縮財政を実施して財政再建をはかったほか、県庁所在地を前橋市として確定している。群馬県発足当初は県庁は高崎に置かれたもののまもなく前橋に移った。その後も高崎に県庁がおかれた時期もあり、明治14(18881)年の太政官布告で前橋で決着が着いたはずであったが、両市の確執は続いていて、この頃、県庁舎新築を機に再燃したものであった。
退官後の昭和8年、東京市会議員に立候補して当選した。当時は市会議員の互選によって市長を選任していたが、牛塚は東京市長に選ばれ就任した。この頃の東京市長は汚職事件に連座したりして短期間に退くものが多かったなかで、牛塚は東京市民のためとの信念を持って4年の任期を全うした。当時の牛塚を知る人は「市長在職中は終始ポケットの右には市長の辞職書、左には議会の解散勧告書を入れ、常に強く正しい信念で職務を遂行された」と語っている。県知事時代もそうであったろうが、内務省任命の官選知事と違い、間接選挙とはいえ民意によって選ばれた市長としての自負と使命感、責任感の現れであろう。昭和17年、東京1区の衆議院議員でトップ当選を果たし、衆議院議員として活躍したのを最後に政界からも引退した。
(132号)