
略歴
昭和16年 旧制富山中学校(現 富山高校)卒業
昭和23年 東京文理科大学(現 筑波大学)国語
国文科大学院修了 並行して22年より高岡高校勤務
昭和24年 富山高校勤務
昭和43年 富山県教育委員会指導主事
昭和51年 富山東高校長
昭和54年 新湊高校長
昭和59年 富山県総合教育センター初代所長をもって退職
平成. 7年 富山市民大学講師等をつとめる(6年間)
富中・富高スピリットは「慎重・敢為」に尽きると思う。少年時代から今にいたるまで、このことばは生きるためのすばらしい教訓であった。私はこの学校に勤務すること、およそ二十年、通学したのは五年だったから、その間の思い出は尽きることなく、きわめてなつかしい。だが、昭和38年「能研テスト」が施行され、それよりして「偏差値」がとりいれられ、爾来、学校からは人間味がすこしずつ薄れてきたように思われる。
本校卒業の方々は、その後実社会において中枢の仕事をなさり、同級会に招かれたりすると、皆いい顔をして見え、教師冥利に尽きる思いがする。ただし私の記憶では、皆18歳のイメージのままだ。
ところで、甲子園なる球場の設置されたのは大正13(1924)年、この年に私が生まれたから、あと数年で米寿を迎えることになる。しかして、もっとも最初の教え子の方は古希なかばを越えられた。
この頃は眼に泌む蕾のいのちかな 秋比古
小生定年60歳のときの詠。いまは老いを喞(かこ)つことしきりである。夏目漱石が「大患」直後の述懐に、天体の運行の長きに比して、われらの生は一瞬時を貪るにすぎぬゆえ、「はかないといわんよりも、ほんの偶然と評したほうが当たっているかもしれない」という。かれの43歳の謂(いい)である。
これより約300年前、かの文豪沙翁は『マクベス』のなかで、「人の生涯は動きまわる影にすぎぬ。あわれな役者だ。ほんの自分の出場のときだけ、舞台の上で、みえを切ったり、喚(わめ)いたり、そしてとどのつまりは消えて亡くなる」と、妻の妃の訃報に接してのべた。沙翁42歳のときの科白である。私の年齢の半分のころに、偉大な精神はいずれも達観しているのに驚く。
校運は隆盛にして、本校はすでに120余年を経た。あの百周年の昭和60年10月を機縁として、富高教職員会(北辰会)の第1回を発足させたことも遠くなつかしい思い出となった。
「昔をふりかえると、すべては『物語』にすぎなかったかもしれない。容赦なく時は流れ去り、知っていただれもかれもが、愛していだれもかれもが、すでに亡く、すると過去は虚構(フィクション)に、物語に、姿を変えるのではないか」(ピーター・ロビンスン『渇いた季節』)。ロビンスンなるすぐれた英国人作家は1950年の生まれ。引用の言葉は、かれの49歳のときに吐かれた。
さらにまた、わが郷土の作家堀田善衛は、48歳にして、つぎのように書くが、まったく同感であり、かねて私の感ずる所懐でもある。「世界はそれぞれに無限の円環をもった人々のかさなりであり、それぞれの無限円環が、無限の複雑さでもって互いに交差し切磋している」(『若き詩人たちの肖像』)
思春期の教育はその人一生の根幹にかかわる面があり、それはきわめておそろしいことだとの考えにとり憑かれて、この念から放れられないでいる。