富山高校の思い出

略歴
昭和54年 富山高校理数科卒業
昭和58年 東京大学法学部卒業、大蔵省入省
昭和62年 ハーバード・ビジネス・スクール卒業
平成15年 バーゼル銀行監督委員会事務局長
令和元年 金融安定理事会規制監督常設委員会議長
令和2年  金融庁長官
令和3年7月 退職

幼稚園に入る前に市内から太郎丸に越してきて、小さい頃は旧校舎の縁の下を近所の友達と一緒に探検したりしていました。高校の敷地内で植物や昆虫を採って、それを図鑑と照らし合わせるのが楽しみで、小学校時代の夏休みにはラジオ体操のあと、毎朝構内を探索していました。

小学校高学年の時、木造の旧校舎が火事になり、夜中にあわてて外に出ると空いっぱいに火の粉が飛んでいました。母は「この情景はいつか見たことがある」と思ったそうで、火事が済んで落ち着いてから、「子供の時に見た空襲の夜の空だ」とようやく思い当たった、と言っていました。近所同士励ましあい、また、応援に来てくださる方もあり、屋根に水をかけて、延焼せずに済みました。

翌年成った新校舎は壮麗で、子供心に光り輝くように見えました。もっとも、校舎正面玄関前にあった素敵なデザインの池と日時計が移されてしまったのが残念だったのを覚えています。
わたしは、高校に入ったころは数学者志望で、月刊誌「数学セミナー」巻末に毎号載っている「エレガントな解答を求む」の問題を昼も夜も食事の時も風呂に入っている時も考え続けていました。大学生や大人の人の解答に交じって自分の解答が紹介されるのが嬉しく、また、高木貞治の「近世数学史談」などで数学者の逸話を読んであこがれ、現代数学の本に取り組んだりもしました。

それが随分悩んだ挙句に法学部受験に転向したのは、一つには、どうやら数学で業績を残せるのは本当に限られた人だけらしい、ということに気付き始めたことと、もう一つは、高一の時に、担任の鷲本義昌先生から、政治思想史家の人の文章のことを伺って興味を持ち、その人の本を読んで政治思想史の研究者になりたいと思うようになったこととが理由でした。鷲本先生にその話を伺ったのは、たしか食堂と校舎の間の渡り廊下でのことだったと思います。

人生で自分で進路を決めたのは、数学を諦めたこの時と、大学生の時に研究者になることを諦めた時だけです。
2回の選択が適切であったか。別の選択をしていたらどうなっていたか。
社会人になってから、実務家としての適性を欠いているのではないか、と感ずることはしばしばありましたが、では研究者になっていたら良かったか。余暇に数学の勉強に戻ったことはなく、日銀の黒田総裁や、三菱重工の宮永会長のように、大学では文系だったにもかかわらず、70代になっても数学の本や論文を読み続けておられる方の話を聞くと、自分の数学愛も実はたいしたことはなかったと思わざるを得ません。

仕事で東工大の工学部の先生にお話を伺う機会があり、「かつて数学志望だった」と申し上げたら、先生は、「数学というのは、リンゴの木に実がいっぱい生っていても、木に登れるお猿さんが一匹で全部食べてしまい、あとのお猿さんはずっとおなかを空かせているような世界だが、工学では地面に落ちている実もあって、どのお猿さんもなんとか生きていける」とおっしゃっていました。謙遜の辞だったのだろうとは思いますが、数学を研究することについて自分が高校生の時につけていた見当もそんなには外れていなかったのだろうとも思います。

一年生の時の担任だった鷲本先生は1月にお亡くなりになり、二年、三年の時の菊先生は5月にお亡くなりになりました。改めてご指導に感謝するとともに、ご冥福をお祈りいたします。

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