
略歴
昭和48年 富山高校普通科卒業
昭和53年 東京大学法学部卒業
文部省入省
スポーツ青少年局長、初等中等教育局長、高等教育局長を歴任
平成26年 (公財)東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会副事務総長
令和4年 (公財)スポーツ安全協会会長
(公社)日本ダンススポーツ連盟会長
昭和45年春、富山高校入学時の印象は、伝統のある校舎、清らかな校歌、『慎重敢為』という富山県人らしい校訓となります。
授業が始まっていくと、初めて出会う人種の方々から実に沢山の刺激を受けつつ私の十五の春が始まり人との付き合い方の基盤を形作ってもらった三年間だったと思い起こしています。
[生徒編]中学までは地縁のある幼馴染の中でしたが、高校では呉東中心とはいえ町や村の神童、附属ショックとも称しうる個性的集団、一浪二浪の先輩の同級生、新入生を厳しく指導する応援団やバスケ部の先輩等など多彩な人々から新鮮な刺激をいただきました。大学や社会人になってからの更に多様な人々との付き合いの良き訓練になりました。
[先生編]中学と異なり大方の先生は生徒を一人前に近い存在として認め、学者っぽい雰囲気がありました。三島由紀夫自決の日は授業ではなく三島文学や人生を涙ながらに語った先生、校舎全焼の中生徒記録を持ち出し火傷を負われた先生、春休み呉羽山にビールを担いだクラス会にスクーターで駆けつけ不祥事にならずに対応いただいた先生、大学受験の苦手英語の補習にお付き合いいただいた先生、卒業後も毎年クラス会に参加いただいた先生等など記憶に鮮明な先達が多くおられました。
[学校生活編]最初の中間試験の数学で赤点を取り、高校は甘くないと、定期試験前と受験直前は結構励みました。部活はバスケ部一応はキャプテンでしたが、インターハイ常連の後輩のお陰で今も繋がっています。一番の思い出は、二年中間試験中日の校舎全焼、トンビの声に癒される中央農業での授業、暑さ寒さ対策に苦労したプレハブ校舎、今では古くなった新校舎での卒業式です。次いで高三の運動会、全校生徒静寂の中、最初に団長として富高応援エールを切ったこと、まだ痩身で後輩のファンができたり、失恋もありました。
文部省に入り、北日本新聞の同級生交歓の記事で、教員になった倉田君は、私を“非凡なる凡人”と評してくれました。その凡人は、中三の秋の夕暮れ、校舎の壁にボールをぶつけながら、将来は国の仕事をしよう!そのためには、西田地方小、南部中から北部高校、東京大学となれば東西南北完成だ!と思いつきました。その思い付きは、方位は完成しませんでしたが、一応現実となりました。文科省となり、スーパーサイエンスハイスクール創設に携わった時に富山県第一号として富山高校を指定させていただき、小さい恩返しもできました。
文科省36年半、東京オリパラ組織委8年半を評価いただき、令和7年秋に瑞宝中綬章を拝受し、オリパラの記録を本にまとめ、古希の良い記念になりました。
高校以来学んだ人との付き合い方、和敬塾という学生寮以来身についた酒との付き合い方で、人の輪が繋がり、仕事にも広がりを持たせることになり、凡人なりに世の中に貢献できたかな、と古希に振り返っています。
現役の皆さん、富山高校生活を楽しんでください。