
略歴
昭和48年 高岡市立高岡西部中学校教諭
昭和49年 高岡市立下関小学校教諭
昭和50年 上市高校教諭
昭和58年 富山高校教諭
平成 8年 指導課指導主事
平成12年 富山中部高校教頭
平成14年 指導課主幹
平成15年 学校教育課主幹
平成16年 魚津工業高校長
平成18年 魚津高校長
平成19年 生涯学習・文化財室長
平成20年 県立学校課長
平成21年 富山高校長
木造の旧校舎で学んだ高校生の3年間、教員として勤めさせてもらった13年間に続きこの度三度目の太郎丸での生活が始まりました。高校時代の3年間は、右も左も分からず、また学校の雰囲気に本当の意味で馴染めないまま終わってしまった気がします。部活動もせず、輝かしい青春の記憶もなく、印象に残ったことと言えば、旧制富中の校歌を指導された厳しい応援団とあっという間に進んでいく先生方の難しい授業でした。
私の教室は、現在の東門を入ってすぐのところにあり、すぐ向かいが土蔵になっていました。まさに今の百周年記念館のあたりでしょうか。担任は同窓会報の編集長をしていただいている牧野好男先生でした。そのころの私は、まだ精神的にも幼く、学習にも熱心な生徒ではなかったので、先生には、大変ご迷惑をおかけしました。
旧校舎は残念なことに昭和46年の火災で焼失しましたが、わが1年9組の教室の辺りにあった図書館、土蔵、理科館、そして卒業時には完成していた第1体育館などいくつかの建物が残りました。記念館の庭に佇むと当時のことが瞼に浮かんできます。
時は移り、私はこの学校に教員として赴任することになりました。校舎の様子も大きく変わり、母校とはいえ、その印象も薄いまま、担任として教科指導に明け暮れる毎日となりました。当時、食堂は今の北辰会館の位置にあり、昔のままの佇まいでした。そしてその隣りにはミルクホールという聞き慣れない名前の建物が建っていました。そこには売店もあり、文房具やバッジ・リボンの販売も行われていました。
でもこの建物、よく見ると、どこかで見たような気もします。窓枠が階段状になっていることを手がかりに確認してみると、昔の音楽室が移築されたとのことでした。その音楽室は、現在の後棟と第二体育館との間の辺りにあり、本館から離れた別棟になっていたため、類焼を免れたようです。木造校舎のうちで奇跡的に残った唯一の物です。自分の学んだ校舎の一部が残っていることに感慨深いものを感じました。更に音楽担当であった清水キヨ先生の指導のもと、イタリア民謡を歌った記憶も蘇ってきました。 そしてこの春、前提の桜に迎えられるようにして、母校に校長として着任しました。
「学びたきもの集う」本校には、学ぶ意欲に溢れた生徒諸君が毎年入学し、その目標に向かって勉学や部活動に取り組んでいます。「学びたい」という強い意志をもって高校生活を送られた同窓の諸姉諸兄には、とりわけこの学校に寄せる強い思いがあることと思います。仲間と共に過ごされた学校生活の思い出の中には、太郎丸の杜にある樹木や校舎の面影がしっかりと刻み込まれていることでしょう。また在校生諸君は、目の前の課題の処理に追われるなど、大変な日々の連続になると思いますが、本校が標とするバランスの取れた全人教育のもと、いろいろな活動に積極的に参加し、記憶に残る一コマ一コマを高校時代に、この太郎丸の地で刻んでくれることを願っています。
同窓の諸姉諸兄には、本校が今後とも若き有為な人材の育成に全力投球することをお誓いしたいと思います。 そして本校教育がより一層充実したものとなりますよう、本校への益々のご理解ご支援をよろしくお願い申し上げ、ご挨拶といたします。