生まれ故郷 “小見(おみ)”

略歴
1972年 富山高等学校卒業
1977年 京都大学工学部卒業
同 年 三協アルミニウム工業㈱ 入社
以後、同社 商品開発、技術開発企画、
経営企画、人事部長 及び 三協・立山ホールディングス㈱ 
人事部長、経営管理部長、経営企画部長等を経て
2011年 三協・立山ホールディングス㈱
取締役 経営企画統括室長
2012年 三協立山三協マテリアル社 社長
2013年 三協立山㈱ 代表取締役社長
(現任)
管理主事
2015年 ㈱チューリップテレビ代表取締役社長(現任)

仕事柄いろいろな人と会う。また、会食なども多い。そういうときによく「どちらの出身ですか」と聞かれる。「富山県です」と答えると、「富山県のどちらですか」とまた聞かれる。今は合併で富山市になっているが、昔で言うと上新川郡大山町小見(おみ)の出身である。ところがその地名を言っても分からないことが多いので、「立山山麓スキー場の近く」とか「富山地方鉄道立山線の、昔は小見、今は有峰口といって有峰ダムや薬師岳登山の入り口駅がある村」と答えている。  

お会いする人であまり山奥出身者がいないせいか、この山村の話は結構興味深く受け取られる。そこで、今回は私の生まれ故郷の“小見”について書いてみようと思う。  
前述のとおり立山山麓スキー場が近く、スキー場から自宅前までずっと4kmほどの下り坂。小学生の頃、道路は全く除雪されていなかったので、いつもスキーを履いたまま30分程かけて滑って帰るのが楽しみだった。  

また、冬は玄関前にウサギの足跡とフンがあった。昔は今と違って里山が管理されていて人間と獣たちの境界がしっかりしていたせいか、熊やイノシシや猿などが村にまで出てくることは無かった。しかし、小学校のとき、授業中にボーッと校庭越しに遠くの山を見ていると、秋で木々の葉っぱが落ち見通しの良くなった山肌を熊がゆっくり歩いているのが見えた。今思うと夢なのか本当なのか定かではないが、退屈な授業中の思い出である。  

映画にもなった「剱岳点の記」に登場する山岳案内人の宇治長次郎は小見近郷の和田(当時は小見と同じ大山村)の生まれである。この映画が評判になり村の墓地に新しく宇治長次郎の墓が建てられた。毎年、お盆には小見に墓参りに行き、その際に私の母の実家の墓にもおまいりすることにしているが、その墓の後ろにあった空き地に宇治長次郎の墓が建っていた。そこは母の実家の土地であったが、そうとは知らず、ただ、「空いているから大丈夫」と思ったのであろう。その墓ができた後、県知事もお参りに来られたそうである。母の実家の叔母さん曰く、「人の墓だし、いまさらずらせとも言えんわ」とのことで、そのままになっているが、ある意味おおらかな村の人たちの話である。  

小見に持専寺というお寺がある。そのご住職から聞いた話だが、豊臣秀吉の時代までは現在の富山市梅沢町にあったという。秀吉が本願寺の勢力強大化を嫌って採った策により、その後の東・西本願寺分派につながる内紛が起きた。持専寺十世正宗のその内紛に対する行動が秀吉の逆鱗に触れ、時の富山城主前田利長に持専寺制裁の厳命がおり、結果として正宗は慶長2年(1597年)7月6日に“いたち川原で斬首獄門”になる。後日その子供が夜陰に乗じて晒し首を盗み常願寺川に沿って上流へ上流へと逃げ、たどり着いたのが小見の地だった。そこで首級を埋め草庵を建てたのがこの村のお寺の始まりとのことである。その後、昭和になって首塚碑が建立され今も毎年7月6日には法要が営まれている。
当時は小さな集落だったと思われるが、そこには宇治長次郎や私のご先祖がいたのであろうか。以上は、現在の持専寺住職 梅澤昭俊氏が自費出版された「持専寺の歴史」を参考にした。  

同窓会会報の原稿依頼には、「内容は自由」とあったので、富山高校とは全く関係の無い話を書きました。まだまだ小見の思い出は尽きませんが、このあたりにしておきます。

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