
略歴
1976年 富山高等学校卒業
1983年 武蔵野美術大学造形学部卒業
1983年 富山県職員(学芸員)となる
富山県民会館事業課(県民会館美術館)に出向し勤務
1987年 富山県立近代美術館学芸課に勤務
1995年 富山県文化課新美術館建設班に勤務
1998年 富山県水墨美術館学芸課に勤務
2016年 同館 館長
2017年 同館 顧問
森記念秋水美術館館長 現在に至る
積雪7㎝。年明けに降った雪も一段落して、先日、卒業以来久しぶりに母校富山高校の正門をくぐった。正面玄関に向かう途中、帰宅する学生達が、何人も「こんにちは」「こんにちは」と、通りがかりの私に進んで挨拶をしてくれた。予期せぬ彼らの嬉しい挨拶は、礼儀正しく、それでいて自然な対応に感心した。余韻は私を快く学生時代に誘い、幸せな気分にしてくれた。
玄関に近づくと、皆と机を並べた学舎は、昔と変わらず残っていた。それでも視線を広げると、新「図書館」や「百周年記念館」等、当時には無かった新施設が整備されて、母校は予想以上に様変わりをしていた。約40年間仕舞っておいたアルバムを開くように、構内を歩いてみた。
正門から入って右手、「北辰会館」の隣に見える、ひときわ古い建物に足が止まった。今は資材置き場だが、間違いなく当時売店があった「ミルクホール」だ。そう思うと、よく食べた惣菜パンの味を思い出した。昼休みのチャイムと同時に、我先にと駆け込んだ懐かしい所である。放課後はブラスバンドの練習場所に変わって、各楽器のロングトーンが、ここからよく聞こえてきたものだ。 あの頃、我が家では「もっと、本分の勉強をしなさい!」が、私に対する母親の小言の定番だった。それでも多感だった私は、美術と音楽と演劇に熱が入った。中でも美術は、幼い頃から絵を描くことが大好きで、将来は美術の仕事に就きたいと夢を抱いていた。演劇は、気が置けない親友に入部を誘われ、後に部長を務め、舞台美術の面白さも教わった。
「ミルクホール」から渡り廊下を通って南に進むと、現在の「第二体育館」のあたりに、当時「演劇部の部室」があった。私が2年生まで放課後毎日通った所だ。木造瓦葺屋根の古い建物で、外壁はピンクに塗られていて、僕らはここを親しみを込めて「桃色館」と呼んでいた。記憶では、他に美術、文芸、茶道、華道の部室が同居していたと思う。隣の文芸部とはベニヤ板一枚で仕切られ、両部の話はいつも筒抜けで、それはそれで楽しかった。南側の大きな窓からは、テニスボールを打ち返す音が響き、窓越しに見る夕景は、グラウンド一面を紅に染めてとても神秘的だった。
こうした高校生活も、3年生になって状況は一変した。これまで余技として楽しんでいた美術を、余技では無く私の本業にして行こうと決断した。自分自身がここで変わらないといけないとも思った。進路は美術大学を志願し、放課後は美大受験の実技に専念した。前棟2階の一番西側「美術教室」に活動場所を移し、懸命にデッサンに励んだ。結果、現役での合格は叶わなかったが、後に努力の甲斐あって念願の美術大学に進学できた。
やがて、地元美術館でのアルバイトをきっかけに、学芸員資格を取得し富山県に奉職した。以来、富山県民会館の美術館を皮切りに、県立近代美術館、県水墨美術館、森記念秋水美術館に務めた。この間、近代日本画の巨匠「横山大観展」や「川合玉堂展」、刀匠「正宗展」や「徳川美術館展」等、50以上もの展覧会を企画し開催してきた。
あの時、もしも余技の美術を余技のままに、美大への進学も断念していたら、今の自分は勿論無い。私にとって高校時代は、長く美術に携わってきた私の人生の原点であり、出発点と言っても過言では無い。
あらためて学生時代の懐かしい記憶を思い返す時、あの時の私、そして今に至る私の人生をも育んでくれた母校に、深く感謝するとともに、これからも皆様の架け橋となって、美術の魅力、芸術のすばらしさを紹介し、心豊かに過ごしていきたいと願っている。