
西 川 義 正<43回>
世界の畜産界を一変
かっての畜産会は、農耕などの役牛の飼育が中心であり、その繁殖は自然交尾で行われていた。 そのため繁殖率は極めて低かったが現在の畜産界は、大きく変わった生活様式に対応し、役牛から乳牛・肉牛の飼育へと変化し、年間200万頭以上の子牛が生産され飼育数も飛躍的に増加している。この変化を可能にしたのは冷凍精液技術による人工授精技術であり、この技術を開発したのが西川義正(43回)である。日本の人工授精技術は大正初期にロシアから移入されていたが、それは生精液を使うものであり、軍馬を対象とするものであったから畜産界に大きく普及しているわけではなかった。なお、このロシアからの人工授精技術移入に関わったのが石川日出鶴丸(8回)である。しかし、義正が開発した冷凍精液を使う技術は、時間・空間を超えて優良精液を効率的に利用できるようになって、健康で質の高い乳・肉牛の生産に大きく貢献したのである。
義正は、上市町上中町でみそ・醤油を製造する醸造業を営んでいる西田家の5男として大正2年に生まれ、大学卒業後に芦屋市の西川美枝と結婚し西川姓を名乗った。義正がが富山中学に入学したのは大正15年である。富山中学在学中は絶えず級長を務め、当時、認められていた飛び級によって中学4年修了をもって旧制富山高等学校理科に進学した秀才であった。旧制富山高校では理系の学生の多くは医学志望であったが、西川は東京帝国大学農学部獣医学科へと進んでいる。それは、富山中学2年の時の担任で博物担当の先生が、子供の頃から魚を捕えたり、昆虫を集めたりすることが好きであった西川少年を大変可愛がってくれ、その影響を受けたことによると自ら語っている。
昭和11年、東京帝大を卒業した義正は、農林省に入省し、昭和32年まで一貫して畜産研究部門にかかわっていた。この間の同27年に冷凍精液の研究に携わることになった。敗戦国日本の独立が実現し、この年に海外の学会出席も2学会に限って認められた。その1つに選ばれたのがコペンハーゲンでの国際家畜繁殖学会であり、農林省農業技術研究所畜産部の若手研究者であった義正が参加することとなったのである。その学会で出会った、世界で初めての牛の精子の冷凍保存に成功したイギリス国立研究所のポルジ報告に刺激され、帰国後精液の希釈液にグリセリンを混合し、ドライアイスで凍結することに成功した。世界の畜産界を一変させる大発見であった。その後は、その実用化に向けた研究を続けた結果、同32年に京都大学農学部教授に異動し、翌年に和牛を用いた試験を成功させた。その後も研究者・教育者としての道を押し進んだ。京都大学教授時代に、家畜審議会専門委員、日本学術会議会員、京都大学農学部付属牧場長、日本畜産学会会長などを務め、同39年に日本学士院賞を受賞している。同51年に京都大学を退官した後は帯広畜産大学学長となった。帯広畜産大学時代の同53年には世界畜産学会会長に就任し、同56年に日本学士院会員に選定されている。同59年から富山女子短期大学学長として同短大の国際交流事業に努力し、晩年は郷土の高等教育に貢献している。本校の卒業生の中から偉大な学者が多数輩出しているが、日本学士院会員となっているのは昭和50年に選ばれた内分泌学の竹脇潔(34回)と西川義正の2名だけである。残念なことに、富山女子短期大学を退任した翌年の平成6年2月に芦屋市で交通事故にあって80歳で亡くなった。
(133号)