
山田 孝雄 <4回同期>
余がこの身はいかなる境遇に在りとも、敢へて憂ふるに足らざるなり。
余が研鑽(けんさん)はこの地にありて一進境あらむことを期す。出来得べくば、余が研鑽をしてこの地に在る間に一頭地を抜かしめよ。余が此の身は如何なる境遇に在りとも、敢へて憂ふるに足らざるなり。(随想「大言小言録」より)
明治34年(1901)5月、高知県立第一中学校安芸分校に転任したばかりの、26歳の国語教諭兼舎監の山田孝雄の言葉である。今までの5年間で学び究めてきた日本文法の研究を論文に具体化する決意を表した言葉である。若い研究学徒のほとばしる情熱が感得されてならない。翌35年に、書き上げた論文「日本文法論」を三部に分け、『日本文法論・上』を出版した。そして山田は明治37年(1904)にこの論文を学位請求論文として、審査を東京大学文学部に願うことを添え書きして文部省に提出した。さらに研究は続いた。その論文は明治41年(1908)に1500ページにも及ぶ『日本文法論・全』として新しく上梓された。金色燦然と輝く名著の誕生である。博士請求論文のほうは、ようやく25年後の昭和4年(1929)2月に文学博士の学位が授与された。この経緯を知った徳富蘇峰は「官学にも私学にも無縁の一衆生の大快事」と『東京毎日新聞』紙上で山田を絶賛した。
山田は、明治8年(1875)富山市総曲輪に生まれた。明治20年(1887)に富山県尋常中学校(本校の前身)に入学した。成績は極めて優秀であったが、一年で退学した。富山藩の藩士の家であった山田家は廃藩置県のために窮地に陥っていたからであろう。しかし、山田は独学精励し、明治24年(1891)に小学校授業生の免許を取得し、翌25年に草嶋小学校に勤めた。実はこの免許取得のために明治6年生まれとしたのである。山田は生涯この年の生まれを堅持した。その後、上市尋常小学校、下村忠告尋常小学校に勤めた。その間、小学校正教員の免許を、明治28年(1895)には尋常中学校並びに尋常師範学校の国語科教員の免許を取得した。山田の猛勉強ぶりがしのばれてならない。29年4月、下村の児童たちは「先生、おらっちゃをおいてどこへ行くがけ」「先生、まめでおられえ」と泣き叫びながら21歳の青年教師を見送った。山田は滂沱と涙を流して彼らと別れた。それから間もなく山田は故郷を出立し、兵庫県の私立鳳鳴義塾の教員となり、明治31年(1898)に奈良県郡山中学校五条分校に転任した。これらの学校や高知の学校で舎監を兼務したのは研究書の購入と家への仕送りのためであった。
明治39年(1906)にいよいよ上京した。翌40年に文部省国語調査委員会補助委員を嘱託され、大正2年(1913)まで務めた。これは香取秀真(かとりほつま・鋳金家・歌人)と森鴎外(陸軍軍医総監・作家)の推薦によるものであろう。大正9年(1920)に日本大学講師に、大正14年(1925)に東北大学講師に就任した。2年後に教授に昇進し、昭和8年(1933)まで教鞭を執った。昭和15年(1940)に神宮皇学館大学長兼神宮皇学館長に任ぜられ、昭和19年(1944)に貴族院議員に推挙された。そのためだろうか昭和21年(1946)に公職追放の身となった。その時、山田は郷里に戻りたかったらしいが、当時の富山は戦災からほとんど復興していなく、山田一家を迎え入れるゆとりがなかったのであろう。しかし、世には救いの神が存在するもの、東北大学時代の教授仲間の阿部次郎の厚意によって仙台の地を終のすみかとすることができたのである。
昭和26年(1951)に追放解除となり、昭和28年(1953)に文化功労者として顕彰され、昭和32年(1957)に文化勲章を授与された。同時に富山市名誉市民に推挙された。翌33年8月に帰省し、本校にも立ち寄った。その折、「これからはNEDやOEDに匹敵する大型の辞書を息子たちと作りたい」と力強く述べた。だが、偉大な学者も病には勝てず、同年11月20日この世を去った。享年83歳。富山市役所松川畔の中庭に自筆の歌碑「百千度(ももちたび)く里かへしても読毎(よむごと)にこと新たなり古之典(いにしへのふみ)」が建っている。この歌からもうかがわれることは、山田は生涯学びと究めを確かにかつたくましく続けた大学者であったことである。
(神島達郎・66回卒)