
久世 光彦<66回>
2006年、70才で亡くなった久世光彦は、1935年東京に生まれ、幼年時代を阿佐ヶ谷で過ごした。小学生時代は父の勤務の関係で5回も転居を繰り返し、1945年7月父方の家のある富山へ疎開した。堀川小学校・富山大学附属中学校・富山高校を出て東京大学文学部へ進み、1960年TBSに入社。2年後、ドラマ「パパだまってて」をデビュー作品として演出家の道を歩む。家族もの、文学作品、時代劇とジャンルは広く、中でも「寺内貫太郎一家」「時間ですよ」は最高視聴率30%を超えるテレビドラマ黄金時代を築きあげた。
手がけたテレビドラマは141本を数え、「女正月「聖なる春」で芸術選奨文部大臣賞を2回受けた。50才頃からエッセイや評論にも及び、『昭和幻燈館』や『ニホンゴキトク』などはノスタルジーに満ちている。小説は『蝶とヒットラー』でドゥマゴ文学賞、『一九三四年冬-乱歩』で山本周五郎賞、『蕭々館日録』で泉鏡花文学賞をもらい、51冊が刊行されている。62才から毎年、舞台演出に取り組み計14本を手がけた。さらに青年時代からの詩作が、小谷夏、市川睦月の名で作詞に至り、60才の時「桃と林檎の物語」で日本作詞大賞を受賞。世に出た歌の作詞は148篇以上ある。
富山での足跡をたどる
2009年8月、東京・世田谷文学館の学芸員、瀬川ゆきさんが富山へやってきた。同年9月から開く「久世光彦~時を呼ぶ声」展の担当者である。開催を前に、富山での彼の足跡を確認しようとするものだった。『時を呼ぶ声』は1992年から96年にかけ北日本新聞連載の随筆集で、久世さんは富山の思い出を書いている。66回同期の本木英子さん・熊木美智子さんと一緒に空港へ出迎えた。まず案内したのは、戦災後久世一家が一時身を寄せた熊野村字安養寺である。光彦少年は熊野川の川原に寝そべって見た青空が「一番美しかった」という。その後転々とし、落ち着いた先が今泉の二軒長屋だった。そこに9年間住んだが、今は古ぼけたアパートに変り、しかも人の気配もなかった。この家から堀川小学校へ歩いて10分、富山高校のグランドは斜め向かいという近さだった。
私たちは富山高校の前を通って市電通りへ出た。8月1日のあの夜、久世一家は相生町のおばの家から堀川小泉町の父方の家へ泊りに来ていて、そこから焼夷弾の中を逃げたそうだ。空襲時を偲びながら、久世さんと私たちも通った附属中学校へ向かう。当時の附属中学は富山連隊の建物を校舎としていたのだが、今は富山大学である。その庭の一隅にあった中学生の頃の遊び場は、昔の面影がそのまま残っていた。
そのあと呉羽山山頂で立山と市内を一望し、長岡御廟へ向かった。途中、なだらかな坂があり、香西かおりが歌った「無言坂」の歌詞はここでイメージしたそうだと話し合う。富山藩主前田家の墓の奥に久世家の墓があった。「僕に墓の道順を何度も教えた」と言っていた父親は、彼が中学のとき急死してここに葬られたという。彼が中学・高校時代を通じて心をわくわくさせて歩いたのが、総曲輪と中央通りだった。中央通りの牛嶋屋喫茶店に同期の友人たちが集まっていたので、瀬川さんを紹介し、久世さんのことを語り合って富山での様子を少しでも感じてもらった。
仕事の原点をさぐる
久世さんの多彩な仕事の原点は、幼少期からの並外れた読書量、青年時代の精力的な映画の観覧、そして男女・年齢を問わない交友関係の広さである。一度会った人の名前も振舞いも忘れないという抜群の記憶力があった。そして富山への郷愁の元は、戦災で焼き尽くされた衝撃の記憶と、雄雄しくも優美な立山連峰など、富山の風土ではなかろうか。小学6年生の時初めて登った感動がその後の度々の立山登山につながった。
「久世光彦~時を呼ぶ声」展の世田谷文学館には、死の当日まで使っていた彼の書斎が再現され絶筆「百閒先生 月を踏む」の原稿、ドラマ「東京タワーオカンとボクと,時々,オトン」の構想など、彼の遺した数多くの資料が展示されていた。ただ、寝る間も惜しんで書きまくった久世さんだったが、書き尽くしたとは思えない。とくに、小説にこれから本腰を入れるつもりではなかったか。道なかばであった、と惜しまれる。
私たち中学・高校の同期生が『追想久世光彦』を一周忌前に完成させた。また世田谷文学館は、冊子『久世光彦の仕事』を展覧会と同時に発行した。これは彼の多面的な創作活動を網羅したものである。ほかにもいくつか写真展、ライブ等が開かれた。今後も様々な久世さんを回顧する行事や出版物が出てくるだろう。
(66回卒)牧野 睿子