
山田 昌作<19回>
北陸ブロックの自律性を守り抜いた信念
命令あるまで所信翻さず 山田昌作を語るうえで欠かせないのが、太平洋戦時下における電力の国家管理に敢然と立ち向かい、北陸ブロックの自律性を守り抜いた信念である。
電力の国家管理は、戦時経済統制の一環として、既存の発電設備および主要な電力設備を日本発送電1社に帰属させ(昭和14年4月第一次国家管理)、全国を8地区に分割して各地区内の電気事業者を統合しそれぞれに配電会社をつくるというものだった(16年4月決定の配電事業統合要綱)。この要綱では、北陸地方は中部配電の供給区域に編入されることになっていた。電気事業者たちからは一斉に国家管理に反対の声が起こったが、戦時経済統制が強まり軍部の発言力が拡大していた当時、反対運動が実ることはなかった。唯一、この政府案に北陸の自律性を主張し、行動したのが山田だった。
これが実施されれば北陸地域の独自性は完全に失われ、中部地域の辺地となりかねない。山田は、「北陸に育ち、北陸において成長した産業は、すべて北陸の特殊性によって成立したものである。北陸地方の歴史的・地理的実情に照らしても北陸は独立した電力圏をつくるべし」と主張。北陸の電気事業者に自主的な統合による北陸電力圏の確立を促す一方、自ら逓信省に粘り強く陳情を続けた。しかし、戦争目的貫徹を標榜して論評の余地を許さない戦時下において山田の行動は命の危険すら伴ったという。山田の決意を昭和16年7月10日付北日本新聞は、次のように伝えている。
命令あるまで所信翻さず 山田社長の帰来談
北陸ブロックを要望するのは、国家に得策であると信ずるからである。北陸ブロックの独立については、命令書を戴くまでは、あくまで所信に向かって邁進する。容れられるか、容れられぬかは問はない。所信を述べることが臣道の実践であることを信ずるからである。北陸ブロックが認められぬ以上、八月一日より創業営業する北陸合同電気会社は無駄ではないかといふ者もあるが、然し今日まで和やかな会合を持って築いた物質的、精神的収穫はよほど大きいものがあった。今後は、いわゆる不変をもって変に処する心構えをもって、ブロック問題に処していきたいと思ふ
北陸の自律性を確保
16年4月、山田の説得に応じて日本海電気・高岡電燈・立山水力電気・大聖寺川水電・出町電燈・金沢電気軌道・小松電気・雄谷川電力・手取川水力電気・石川電気・石川電力・越前電気の12社が北陸合同電気を設立した。大阪毎日新聞はこれを「配電統合方式の全国的範例」と報じた。北陸合同電気の設立は、国家管理の枠組みは受容しつつ、そのなかでの相対的な自律性を確保しようという地方資本側の「対抗戦略」であった。
自主によるか、強権下に統御されるかの違いは大きい。8月3日には政府が配電会社区分要綱にもとづく分割を決定したが、山田の働きと自主統合が功を奏し、特例によって北陸ブロックの独自性が認められ、北陸配電が設立されることになった。翌日の北日本新聞は「要望酬いられて特例“北陸合同電気”存立 中部地区は二社制で国策線へ」と報じた。戦後行われた電気事業再編成でも、これが既成事実となって、現在の9ブロック体制が維持された。
富山中学講師からの転身
山田昌作は、明治23年に富山市に生まれた。父信昌は、元富山藩士で一時期売薬も営み、十二銀行や、富山電気(昭和3年に日本海電気)、金沢電気の取締役を務めた。昌作は、大正3年に東京帝国大学法学部独法を卒業し、「長男が家を離れることは不都合」とする父に随って母校富山中学の講師として法政経済とドイツ語を教えたが、大正5年に富山電気の社長金岡又左衛門に招聘され、弱冠26歳で同社常務取締役に就任した。
以後、金岡の片腕として同社の経営を担い、昭和4年からは日本海電気の社長として北陸最大の電気事業者に発展させる一方、伏木臨海工業地帯や富山市北部などに繊維工業、重化学工業を誘致して富山県が日本海側屈指の工業県に成長させる礎をつくった。戦後は、北陸電力の社長として常願寺川有峰発電計画を実現するとともに、立山黒部の開発、さらには(財)がん研究会(癌研)の理事長として病院の再建にも奔走するなど、その足跡は多方面に及んだ。
参考文献:『北陸地方電気事業百年史』山崎広明ほか/
『北陸電気産業開発史』正橋清英/
『日本電力業発展のダイナミズム』橘川武郎/
『山田昌作伝』/『金岡又左衛門翁』
(82回卒 森田 弘美)