
山田 昌作<19回>
大都市資本に対抗した企業誘致
山田昌作がその存続に心血を注いだ北陸圏の危機は電力国家管理だけではなかった。山田が富山電気に迎えられた大正初期の電力事業は、大規模貯水池発電所と長距離送電の技術革新を迎えていた。大都市の大電力資本による大規模水力開発が展開され、その手は北陸にも及んだ。5大電力の一角日本電力と大同電力が富山県に進出。開発した水力は、昭和10年時点で日本電力系が45万3,700kW、大同電力系は10万7,600kWにものぼった。地元最大手の日本海電気は系列を加えても8万5,900kWにすぎず、重要な水力開発地点の多くが大都市資本に占有され、送電された。山田は大電力会社に対抗する形で富山の地域開発にかかわっていった。
昭和4年から15年までの間、日本海電気が低廉な電力をもって誘致した企業は、七尾セメント(イワキセメント:七尾港)、伊藤忠兵衛率いる呉羽紡績(呉羽・庄川・井波・入善の9工場)、日清紡績富山工場、日満アルミニウム(現、昭和タイタニウム)、中野有礼率いる日本曹達(高岡・岩瀬・富山)、日曹人絹パルプ(興国人絹パルプ)、日本カーバイド工業、さらには、自らが中心となって設立した日本海船渠(現、新日本海重工業)など十指に余る。
なかでも、富山県の要請を受けて誘致した日満アルミニウムには1kWh5厘7毛8糸の破格な低料金で常時電力3万2,900kWを供給した。これは、富山県営愛本発電所の電力を買電し、かつ、送電線の設置に巨費を投じるものだった。また、日曹人絹パルプの誘致には、製造工程で必要な蒸気を供給するため日本海電気初の火力発電所を建設。さらには、その燃料となる石炭を日東美唄炭砿(北海道)を買収して調達した。
これは、天賦の自然資源を武器に送電コストの不要な地元に電力多消費型工業を誘致したものである。しかし、立地企業にとっては、関西圏の8分の1という破格の電力料金も、製造品の輸送コストを考えれば競争力の決め手にはならない。企業誘致による地域開発も、本社が大都市にあって地方に進出した分工場に意思決定機能がなければ分工場が得た経済余剰は本社に流出してしまう。つまり、後発地域に重化学工業を興し競争力を獲得するには、単に安い電力を供給して工場を誘致すればすむわけではない。では、山田はどのようにして企業誘致を成功させ、競争力を育んだのか。
地域に根付く企業誘致戦略 山田が主導した富山の地域開発は大きく三つの戦略で展開されたが、それは外来型開発の形をとりながら戦後のそれとは大きく異なった独自の発展を遂げるものだった。一つは、立地企業を地域外資本と地元資本との共同出資によって設立し、その多くが中枢機能を富山に置いた。大正5年に誘致した電気製鉄は、日本鋼管が資本金の半分を出資し、後は富山電気をはじめとする地元資本が出資して本社を伏木に置いたこと。昭和4年に設立した呉羽紡績は、伊藤忠兵衛とともに山田が設立発起人となり役員にも就任、株式の募集にあたっては自ら日本海電気の社員に積極的に働きかけた。また、富山電気ビルデイングなどの地元企業設立の際には誘致した企業にも出資を仰いで地域との絆を太くした。この共同出資による企業設立は、大規模設備を要する重化学工業などの資本不足を補うとともに、リスクを分散し、事業に対する責任を地域的に共有する意味もあった。
二つ目には独自技術の確立。山田が誘致した企業のほとんどが、当時全国でも例のない最先端技術の実現であったことである。新しい技術を先行して確立すれば技術的優位性を持つことになり、将来的に競争力の決め手となる。しかし、工業化の後れた地方に自前で最先端技術を創り出すことは容易ではない。山田はそのジレンマを地域外企業の先端技術力をいち早く導入して地域に定着することで克服しようとした。
三つ目は、これら誘致企業の事業が確立するまで日本海電気が採算を度外視して支援した。誘致した企業は例外なく苦労した。日本海電気はこれを、低廉で安定した電力供給に加え、株式や社債の保有などの資金的な援助、さらには電気代の肩代わりや貸し倒れも引き受けていたのである。こうして富山県は戦前全国で6、7位の工業県に成長した。特筆すべきは、戦後多くの企業誘致が失敗したなか、これら進出企業のほとんどが立地から80.90年を経た現在も富山で事業を継続していることである。
参考文献:『北陸電気産業開発史』正橋清英/
『日本電力業発展のダイナミズム』橘川武郎/
『山田昌作伝』/『金岡又左衛門翁』有峰ダム (82回卒 森田 弘美)
山田が北陸電力の社運を賭けて建設した有峰ダム。貯水池 の水は発電だけでなく、富山市の74%を賄う水道水として その水源の95%を提供しているほか、常願寺川一体の農業 用水として利用されている。 北陸の自律性を守り抜き、近代富山の礎を築いた
