
富山県立図書館にある素琴の句碑
志田義秀〈8回〉 志田延義〈36回〉 親子
ひよこ共 浴びよ 木蔭の砂涼し
現在の私たちは芭蕉の俳句を味わい、文学として体系的に学ぶことができる。しかし、明治から大正時代にかけて、俳句は文学研究の対象とはみなされなかった。大正14年に、志田義秀(1876年~1946年)が、東京帝国大学文学部講師として日本で初めて「俳諧史」を講義する際には幅広い反対論さえあった。こうした中で、義秀は俳文学のパイオニアとして講義に心血を注いだ。受講生の一人、後の国文学者市古貞次 は講義の内容を「素晴らしかった」と述懐している。息子の志田延義も学生として父の講義を受講しており、「未知の学問に懸命に取り組む姿は、国文学科の学生の理解を得ていくようになった」と述べてい る。義秀はその後、昭和7年(1932)に『俳文学の考察』を刊行し、昭和12年に松尾芭蕉を取り上げて俳文学で初の文学博士号を授与された。これらを通じて、日本固有の文化である俳句が、文学として確 立されたと言える。
志田義秀は、素(そ) 琴(きん) の号を持つ俳人でもある。学生時代から正岡子規の日本派に入会し、子規庵を訪ね、夏目漱石とも親交があった。大学卒業後、岡山の第六高等学校に赴く以前の明治42年には、日本初となる『日本類語大辞典』を佐伯常磨と共に刊行するなど、大変な努力を重ねた学者であった。六高教員の頃に高浜虚子の句会に参加し、学生にも多くの影響を残した。当時の教え子の内田百(ひゃっけん) 閒は「校友会雑誌は、まるで俳句雑誌のようであった」と記しており、後に俳句で名をなした大森桐明や内藤吐天も義秀の弟子である。
六高後は、成蹊高等学校(現成蹊大学)教授となった。戦中に疎開のため富山に帰ったが、ライフワークである講義ノートを空襲で焼失したが、その後も文学研究を続ける途中で亡くなった。研究と趣味の 両面から俳諧の本質を探究した得がたい研究者といえる。
一方、息子の志田延義(1906年~2003年)も父に劣らず、日本文学の新しいジャンルを切り拓いたパイオニアである。東京帝国大学卒業後、戦争中は「国民精神文化研究所」で「国体の本義」の作成に携わったため、戦後に公職追放となった。占領軍から恩師の久松潜一を守り、「国文学会」の存続を図るため責任をとったと言われる。
志田延義の素晴らしさは、この不遇な時代にあって、日本の文化史に残る名著『日本歌謡原史』を執筆したことである。昭和28年(1953)には歌謡研究で東京大学文学博士となった。対象とする歌謡は、記紀・万葉集・源氏物語・今(いま) 様(よう) ・謡曲・歌舞伎・現代の歌謡曲までと幅広い。昭和38年(1963)に「日本歌謡学会」を設立し、毎年授与される「志田延義賞」は、若手研究者の登竜門となっている。 父にならい俳句をものし、俳号は素(そ) 諷(ふう) である。親子の研究への思いをつなぐ句として、死の直前まで校訂作業をしていた父の姿を心に刻むように詠まれた一句には、切ない思いが溢(あふ) れている。
雪ゆふべ書き入れの朱の黒みゐし 素諷
志田延義は、山梨大学教授・鶴見女子大教授を経て富山での研究執筆活動を行い、最晩年の仕事は、戦災で消失した父の義秀の講義ノートの復元だった。志田親子は、それぞれが学者として見事な 人生を送っており、自らの人生を貫く真(しん) 摯(し) な姿勢からは、多くの示唆をもらうことができる。
- (1)内田百閒 法政大学教授・小説家・随筆家。著書『冥途』『百鬼園随筆』など。
- (2)大森桐明 第一高等学校講師・俳人。「東炎」同人。正岡子規研究や俳諧史研究。句集『高原』。
- (3)内藤吐天 名古屋市立大学教授。「早蕨」を創刊・主宰。句集『落葉松』『鳴海抄』など。
- (4)久松潜一 東京大学・慶應義塾大学教授・国文学者・歌人。著書多数。