生徒を見下さなかった母校

略歴
昭和35年 富山高等学校卒
昭和39年 東京教育大学文学部国語国文学科卒
昭和39年―49年 富山県立高岡高等学校教諭
岩瀬から公害をなくす会」創設、富山県公害被害者
連絡会議事務局長
昭和54年富山県議会議員当選、
以降、6期24年富山県議会議員として
富山県総合開発審議会委員などを歴任。富山県参与
平成12年 富山八雲会創設に関与
平成14年 社会福祉法人・とやま虹の会理事長
日本海北前ロマン回廊構想実行委員会事務局長

昭和35年富山高校を卒業して上京直後、ミュンシュ指揮ボストン交響楽団、年末にはジュリーニ指揮イスラエルフィル、翌春にはバーンスタイン指揮ニューヨークフィルを聴いた。次々に世界第一級の指揮者たちの姿に直接触れていったが、その根っ子には、高校三年間の生活があった。 当時、吹奏楽部と弦楽部が年に一度合体して、オーケストラを編成していたのである。演奏した曲は高水準のものばかりで、モーツアルトのヴァイオリン協奏曲第五番「トルコ風」、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第一番、グリークのピアノ協奏曲…等々、眼高手低の傾向もあったろうが高い志をもつ営みであった。  

埼玉県出身の同級生に「俺の出身校にはオーケストラがあるんだ」と言ったところ、激しい反発にあった。「嘘を言え。高校生のオーケストラなどは日比谷高校くらいにしかないよ」というのである。  

この瞬間、僕はそんなに高い文化水準をもつ高校生活を楽しんでいたのかと、改めて痛感したものである。なかなかハイブロウ(highbrow)な学校生活を楽しんでいたのである。  

授業では、一年生の時であったが、社会科の金山先生が1917年のロシア革命、レーニンのネップ(新経済政策)、ケインズ経済学の概要などを熱っぽく語った姿も忘れ難い。音楽の大間知先生が国際的な大ピアニストであるウィルヘルム・ケンプを招いて電気ビルで演奏会を開催したのよ、と楽しげに語ったことも鮮烈に記憶している。数学は不得意であったが、黒沢先生の授業は一瞬たりとも油断や、うたた寝ができなかった。  

三年生の時の十月のある日(その前日、全学連の学生たちが国会正面に突入した)、中川先生が中国の大作家・魯迅の『藤野先生』に触れ、顔を赤らめながら、日中友好の歴史の一齣を語っていた。  

こうして富山高校の三年間、僕は音楽に耽溺し、美を求める感性を育み、日本と世界を見る眼の基礎を学んだ。相手はたかが高校生じゃないかと見下したり、手抜きしたりすることのない、真剣な授業が少なくなかった。高校生の年齢ともなると物事に敏感である。いい加減な授業や、「適当」に進められていく時間に対しては、拒否的な嗅覚が働くものだ。  

二年生の頃だったか、夏休みの宿題に小泉八雲の『怪談』の対訳本や、旧制富山高等学校以来から富山大学文理学部に在籍する教官が作成した基礎英語の参考書も与えられた。  

僕の家は旧制富山高等学校があった富山港線蓮町駅に近い。登下校時には富山大学の校舎が見えた。小学生のころから、蓮町のこの学校に小泉八雲の英・仏・和の約2500冊に及ぶ全蔵書を収めた『ヘルン文庫』のあることを知っていた。  

富山高校は、地元の旧制富山高等学校以来の教育・文化の伝統に関わっているのだという感慨のようなものが胸中に去来した。祖父が旧制富山高等学校の尋常科の生徒たちのための寮(「三計塾」)を建設し、経営にあたっていたことも手伝ったのかもしれない。  

わが母校が受験競争に埋没せず、学校全体をおおうエートスに於いても、また部活動に於いてもユニークで、高水準の内容を誇るOnlyOneの学校であり、「地域に根差しつつ世界を見つめる」学校であってほしい、との思いには切なるものがある。

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