富山高校人物伝
富山高校人物伝 37
アマチュアに徹し世界で高く評価された
劇団「文芸座」理事 小泉邦子〈67回〉
地中海に面したモナコ公国では、4年に1度世界演劇祭が開催されます。ハリウッド映画の有名女優グレース・ケリー(1929〜1982)が、モナコ公妃となり、劇場創設や舞台芸術などを通じた芸術文化の発展に尽したことに由来します。
この時の舞台の、可西舞踊研究所との協力公演「カルミナ・ブラーナ」にも出演され、スタンディングオベーションを受けられました。
邦子氏は、1985年から毎回参加され、多くの舞台が高く評価されてきたことが受章につながりました。
世界アマチュア演劇祭で最高賞受賞
邦子氏は本校卒業後、1955年から劇団「文芸座」に入団し、生涯にわたり活躍なさいました。
「文芸座」は、1977年、国際アマチュア演劇連盟の第9回ダンドーク国際アマチュア演劇祭で最高賞を受賞し、1981年アメリカのウェストチェスター国際アマチュア演劇祭でもゴールドアワードなど多数を受賞しています。
富山の舞台芸術が海外で高く評価され、文化交流の道が拓けたことから、置県100年を記念し1983年に国際アマチュア演劇連盟の公式行事として富山国際アマチュア演劇祭(TIATF'83)が開催されました。以来、現在の「とやま世界こども舞台芸術祭」(PAT)までほぼ4年おきに、富山での国際的な舞台芸術祭が開催されています。
邦子氏は、長年の貢献から1998年ハンガリーのデブレツェン市文化功労チョコナイ賞をはじめ、富山県功労表彰(2004)、北日本新聞文化功労賞(2011)、地域文化功労者文部科学大臣表彰(2019)などを次々に受賞されています。
舞台を愛し純粋に追求 圧倒的存在感
自分にない人格を脚本から理解し、別の人生を演じることが楽しく、翻訳物は日本と宗教や考え方、動作も異なり、自ら勉強なさったとのこと。また、「動」の演劇に対し「静」の能楽の仕舞を学んだことも、舞台に生かしておられました。
邦子氏の、舞台での圧倒的な存在感、凜とした立ち居、響きのある声は、演劇にかける勁い意思、弛まぬ努力のたまものと言えるでしょう。
こうして60余年もの演劇活動を夫で演出を務める博氏(63回)とともに続け、主婦として子育てや事業扶助なども、見事にこなしていらっしゃいました。
南極大陸にもたらした新たな文化
邦子氏は、2016年12月に、世界初となる南極大陸での演劇公演では80歳ながら、見事に主演を務めました。
2015年に南極大陸を訪問した際に、初公演を勧められ、博氏とともに新たな挑戦に取り組まれました。約8ヵ月間の準備の上で、南極大陸ユニオングレーシャー基地を再訪、日本の文化を背景としたセットや小道具を持ち込み、スペイン語の説明とともに、チェーホフ作「結婚の申し込み」を公演されました。
新聞報道によれば、世界各国からの観客は、文化の違いを超えて共感し楽しんだといいます。
過酷な自然の中、政治的中立地での演劇初公演の成功は、まさに人類普遍の文化の力、人々を共感させる芸術の意義を象徴する快挙と考えます。
夢をもち新たな挑戦に取り組む大切さ
その後もご病気でお亡くなりになるまで、さまざまな舞台にお立ちになり、後進を育てられました。
人生において常に目標をもつことの大切さを、身をもって示されたご生涯と言えるでしょう。
生前、邦子氏と博氏は、イースター島を訪ねた際に、モアイ像周辺での舞台を構想なさったそうで、本年8月に、これが実ります。
邦子氏が生涯を通じて示された、夢をもち実現するとやまの芸術文化活動は、これからも多くの人々に、夢と勇気を与え続けることでしょう。
富山高校人物伝 36
明治時代の日本・北陸の人々を世界に紹介
本県初の外国人英語教師 C.L.ブラウネル
着物姿のブラウネル
明治時代、近代化を急いだ日本の学校では、欧米諸国の外国人を教師として求めました。日本政府から高額報酬が支給され、敬意とともに「お雇い外国人」と呼ばれました。
明治19(1886)年の「中学校令」「尋常中学校ノ学科及其程度」により、英会話が必修科目とされ、外国人教師を雇うことが県議会で決定されました。
富山県初のお雇い外国人教師、C.L.ブラウネルは米国人の文学修士・理学士で、ハーバード大学などを卒業後、1986年頃来日しています。駿河台の東京学館や東京専門学校(現早稲田大学)の講師を務めた後、明治21(1888)年11月から富山県尋常中学校(本校)に20代半ばで赴任しました。月給100円は、一般の大工や左官が5〜6円であった頃、県知事などに次ぐ破格の額でした。
ブラウネルの授業について、本校2回生の桑島虎次郎は「氏の授業は立派なもの」とし「英語の達者な勉強家が生まれた」と述べています。(『富中回顧録』昭和25年)
歌舞伎への傾倒と、社会階層を超えた文化交流
ブラウネルは日本で歌舞伎に魅せられています。富山には、元禄14(1701)年に第二代藩主前田正甫が幕府に許された、全国11の歌舞伎の常設小屋のうちの1つがありました。ブラウネルはある時、素晴らしい芝居を見て、役者2人を招いたところ、一座全員がやってきて近所の料亭でもてなし、町の人も加わり交流を楽しんだと記します。
「役者を歓待したという情報が広まって、残念ながら社会的地位を失ったのだと思うが、それにしてもとても楽しかった」と記しています。当時は役者の社会的地位が低く見られ、ブラウネルのフランクな交流は教員の行動として問題視されたようです。
本校以後のブラウネル
本校へ赴任期間1年半ほどで、1890年から福井県尋常中学校(現藤島高校)で半年教え、後に帰国。ニューヨークタイムズなどのコラムニストとなり、"Tales from TOKYO"(1900年刊)出版後、大英博物館で日本研究に携わり、晩年は米国に帰り、教育に携わっています。
外国人教師の確保と、英語教育への願い
本校は、ブラウネル以降もG.N.ウエルス、アンドリュー.フォスターなど、外国人教師を次々に採用し、英語教育の向上に努め優秀な生徒を育てました。哲学者蟹江義丸、英文学者三兄弟・南日恒太郎・田部隆次・田部重治や本県最初の大臣の南弘などたる人材があげられます。
明治時代の北陸の人々が魅力『日本の心』
ブラウネルの著書『日本の心』※2は1902年ロンドン、翌年ニューヨークで出版されています。
その「序」には、「およそ旅行者が足を踏みいれたことのない日本の地、しかも今まで外国人が誰も来たことがないところに暮らし」「日本人の生活の中の本当の内なる精神、(中略)古くて魅力的な日出ずる国の精神を垣間見たと信じている」とし、「日本人の物の見方を示したいという、心の奥の願い」から本書を著したと記しています。
当時の多くの日本研究者は、日本人の精神の解明をめざしました。ブラウネルの他にない特徴は、北陸での体験を、魅力的に描いている点です。
米国の公立図書館で日本を知る本として人気
1904年は、日露戦争により日本への関心が世界的に高まり、この年の全米公立図書館における日本関係書籍の請求数では、1位のラフカディオ・ハーンの『神国日本』に次ぐ2位※3でした。日米文化交流史でも、注目すべき冊子と言えます。
読んでみよう『日本の心』本校図書館に寄贈
本校卒業生で出版に当たられた、TBSディレクター高成麻畝子(102回)さんから、本校図書館に10冊が寄贈されています。 英語の原本もあり、ぜひ手にとってほしい一冊です。
- ※1 クラレンス・ルドロウ・ブラウネル(1864 ~ 1927)アメリカ合衆国コネティカット州ハートフォード生まれ。
- ※2『日本の心』原題"THE HEART OF JAPAN" CLARENCE LUDLOW BROWNELL 1902 LONDON 邦訳2013年 桂書房
- ※3「日露戦争中、米国で読まれた『日本』米国公共図書館で請求された日本及び日本文化関連書物に関する考察」塩崎智(敬愛大学国際研究第16 号2005 年12 月)による。
富山高校人物伝 35
立山への憧れ 英文学・山岳随筆のパイオニア
田 部 重 治〈14回〉
田部重治(1884〜1972)は、南日恒太郎(本校2回)、田部隆次(5回)の実弟です。英文学者として有名なことから、南日三兄弟と呼ばれました。
重治は、幼少年期は病弱で、登山など思いもよらないことでした。しかし、立山連峰を仰いで育つうちに、心には山への憧れが芽生えていました。
本校などでの恩師との出会い
1897年、本校に入学した重治が大きな影響を受けたのは、漢文教員で登山家の小杉復堂でした。
1902年、入学した四高(現金沢大)には、兄で日本山岳会会員の田部隆次が教授におり、英語教員の林並木から聞いた、日本の自然と文学の魅力に感銘を受けますが、体力は不足していました。
1903年には、田部家との養子縁組が決まりますが、同年に、母や、叔母が相次いで亡くなります。
多くの人との出会い 登山と英文学研究
1905年6月婚約者急逝で傷心の重治を慰めようと7月の四高卒業後、兄の恒太郎と隆次が誘い、神通川を遡行し、高山までの初の山旅をしました。
9月に東京帝大英文科に入学し、夏目漱石や上田敏らに師事し、中勘助らと級友となります。
近所の新聲社(後の新潮社)に出入りし、編集者の木暮理太郎と知り合います。木暮との出会いが、その後の山岳研究の原動力となりました。1908年、東京帝大卒業後、重治は帰省の際の妙高山登山を皮切りに、登山に邁進するようになります。
明治大や中央大の講師を始め、1910年に田部家に入籍。英国の文学者・評論家ウォルター・ペイター(1839〜1894)研究に取り組み始めています。
1912年4月、東洋大教授となり、英語や文学概論などを教え、また11月から海軍経理学校の教師として心理学なども教えています。
1922年法政大法文学部が設置され、漱石門下の森田草平らとともに英文学教授に就任しました。
ヘルン文庫の誘致を試みる
新学科創設記念のため、兄の田部隆次を通じて、小泉八雲の旧蔵書(通称ヘルン文庫)の誘致を働きかけましたが、譲渡額の工面に苦しみました。
1923年9月に関東大震災後も譲渡話は進みません。こうした事情を知った南日恒太郎が、田部隆次と小泉せつさんを説き、旧制富山高校の初代校長として、とやまにヘルン文庫を誘致したのです。(詳細は158号人物伝33、159号同34参照)
自然詩人ワーズワースの影響
重治の重要な研究テーマは、ロマン派詩人ウィリアム・ワーズワース(1770〜1850)です。自然の中に崇高な存在を見出だし讃美する詩が親しまれており、重治自身も深い影響を受けています。
渓谷と森林の美に魅せられて
日本の自然美は、豊かな森林に守られた渓谷と清流にあります。頂上をめざす西洋アルピニズムに対して、重治はこうした自然美にふれることに大きな意義があると主張し、多くの人が共感しました。
「絶頂よりも渓谷、雪よりも深森という風な変化が、著しく私の山に対する志向の上に現れるようになってきた。」(『深林と渓谷』(1918)
「(西洋の)アルプスと日本の中部山岳とを比較して、日本の山の麗しさは山腹を取り巻く樹林と渓谷にあると言ったウェストン※1 の言葉は至言である」(『日本の自然美』(1941)と記しています。
戦前・戦後を通じ、熱心に学生を指導
その後、時代が戦争に向かう中、1941年法政大学英文科廃止とともにやむなく教授を辞し、困窮の中にあって山旅も難しくなり、1944年には友人の木暮理太郎が亡くなっています。
困難な戦前・戦中時代を経て、戦後は東洋大など大学や大学院で熱心に学生を指導しました。一方で、病苦のため登山は制約されました。「わが散文詩・わが詩」と記されたノートの最後のページには、次の二首があります。
雨樋の中に巣を作りいる
親雀くわえ来るもの見ればいじらし
悲しみの思い出多く深くして
花やぎ知らぬ生命なりけり 八十八翁(入院中)
読んでみよう 名著『山と渓谷』
重治の山岳随筆は、自然と人の関わりを文学者の目で見つめ、時代を超えて人々に親しまれてきました。『山と渓谷』は、パイオニアとしての重治の登山と思索が分かる一書です。本校を始めとして公立図書館が所蔵し、一般書店でも購入できます。ぜひ手にとってほしいと考えます。
- 参考文献:「『山と渓谷』岩波文庫/『田部重治の登山と英文学』田部重治研究会/『田部重治詩歌集』田部重治先生詩歌集刊行委員会/他
- ※1ウォルター・ウェストン(1861 〜 1940)英国の宣教師、登山家。『日本アルプスの登山と探検』などを執筆。
富山高校人物伝 34
恩師ヘルンの思いに報いた英文学者
田 部 隆 次 〈5回〉
田部隆次(1875~1957)は、秀才として名高かった南日恒太郎(本校2回)の実弟であり、大変優秀な生徒でした。生後間もなく他家の養子に出され、養家の都合で実家に戻ってからも経済的理由から本校受験を反対されるなど、少年期に辛い思いを重ねました。
本校在学中に田部家の養子となりますがここでも苦労を重ねる中で学問を志しました。本校卒業後は養母の負担を考え、仕送り期間が旧制高校に比べ3年間と短かった東京専門学校(現 早稲田大学)に進学し、坪内逍遙や夏目漱石にも学んでいます。
この間に養母が逝去し、遺産相続の争いに決着がついたことで、1896(明治29)年に念願の文科大学(現 東京大学)の英文科に全科選科生として入学します。当時の試験官の一人には英語学者の神田乃武がいました。
隆次の入学した年の9月に、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲 以下ヘルン)が講師として大学に赴任します。
隆次はヘルンの英文学の講義を受け、著書を読み感動します。この講義は学生ノートによって翻刻されて現代も読み継がれています。
富山大学附属図書館「ヘルン文庫」には、隆次が晩年に口述し、娘の内田百合が筆記した『田部隆次の半生』が収められています。
その中では、ヘルンが学生に創作力を評価するレポートを課していたこと、隆次の英文が高く評価され「ホーソン全集」や「ラスキン全集」などが贈られ賞されたことなどが記されています。ヘルンは愛情に満ちた教育者であり、優秀な学生には、私財を投じて援助をしていました。
金沢四高での教員時代
大学卒業後、隆次は金沢四高(現 金沢大学)の教員となり、教員仲間だった西田幾多郎らと交流しました。学生には富山出身の正力松太郎や河合良成ら、後に日本を動かす俊秀がいました。
旧制高校の入学試験では各高校の教員が東京に集まって採点していました。当時一高の教師だった恩師の夏目漱石とも親しくなり、互いに往来しています。
伝記・全集執筆とヘルン文庫創設
四高に8年勤務する間の1904(明治37)年に、ヘルンが亡くなっています。その後、隆次は神田乃武の推薦で学習院女学部教授となり、西大久保に住むようになります。
家が近いこともあり、ヘルン未亡人の小泉節子さんから頼られ、英文の手紙の代筆などを皮切りに、後には、伝記『小泉八雲』(1914(大正3)年)を執筆します。さらに、京都府の学校長への転任を打診された際には、『小泉八雲全集』の飜訳・編集などのために辞退し、武蔵高等学校教授、津田英学塾教授を歴任しました。
節子夫人が依頼したヘルン蔵書の譲渡については、実弟の田部重治の法政大学側の事情で行きづまっていました。1923(大正12)年の関東大震災後、新設の旧制富山高等学校初代校長として上京した南日恒太郎は、この話を聞き、貴重な文献資料として、ぜひ富山に欲しいと説きました。節子夫人は、隆次への信頼のもと、恒太郎の熱意を知り、譲渡を決心したのです。富山大学「ヘルン文庫」は、本校の先輩が培った師弟の絆と学問への情熱から生まれたと言えます。
本校図書館で著書にふれよう
伝記『小泉八雲』「序」の冒頭は、ヘルン自身がこの呼び方を気に入っていたという、師への敬愛の思いが溢れる一文から始まります。本稿もこれに敬意を表しヘルンと記しています。
この書は、欧米のヘルン伝記を検証し、日本時代を加え、節子夫人の「思い出の記」や、ヘルンの人柄や感性や思想が理解できるエピソードが多面的に記され、興味深く読める名著です。
隆次らが手がけた『小泉八雲全集』(全17巻 第一書房 1928)も高く評価されています。
1950(昭和25)年に富山大学で開催された「ヘルン生誕百年記念祭」で隆次は「小泉八雲と日本」との演題でヘルンの人物像を多面的に語りました。当時は、75歳の高齢で失明に近い状態でしたが、師への思いが溢れる講演です。
いずれも本校図書館が所蔵しており、ぜひ手にとってほしいと考えます。なお隆次の孫には、評論家の村松剛や女優・詩人の村松英子がいます。
- ※1『小泉八雲 東大講義録 日本文学の未来のために』(ラフカディオ・ハーン著 池田雅之:編訳 角川ソフィア文庫)
- ※2『へるん倶楽部』第7号 (2009.6 富山八雲会)
富山高校人物伝 33
とやまに高等教育・文化を開く「知の拠点」を創る
南 日 恒 太 郎〈2回〉
南日恒太郎(1871~1928)は努力家で学業が優秀でした。英語教育を推進した文部大臣森有礼が明治23年10月、本校を来校し、突然英語で質問した際にも、恒太郎らは明快に答えたといいます。
しかし、後に本県初の大臣となった南弘とともに県に建白書を出したこと、重い眼病になったことなどから卒業前に中退し、四高(現金大)への進学を諦めます。挫折の中で、事務員を勤める傍ら、独学で文部省教員検定試験などをめざしました。
英語検定試験で第一人者に認められる
恒太郎は明治26年(1893)に国語教員の試験に合格し、本校の助教諭となります。当時の外国人講師アンドリュー・フォスターと交流し、英語学習を続けました。努力の結果、明治29年の英語検定試験で極めて優秀でした。試験官で英語学者の神田乃武は、自ら校長をしていた正則中学に、恒太郎を招聘しました。ここでも恒太郎の卓越した英語力が認められ、京都の三高(現京大)を経て、明治35年に学習院教授となります。
恒太郎は、自らの苦学の体験から英語教育のため『英文解釈法』や『和文英訳法』など多くの参考書を著し、英語教育の先駆者となりました。
また、国文学・英米文学に精通し、『英詩藻塩草』(1916)や『英文藻鹽草』(1929)など見事な対訳書があり、本校図書館で閲覧できます。
とやま初の高等教育機関の設立の悩み
大正時代になっても、とやまには高等教育機関がなく若者達は進学に苦労しました。この状況を打開しようと岩瀬の豪商 馬塲はるさんは大正12年(1923)5月、百万円(現在の百億円相当とも)を県に寄付し、高等教育機関の設置を願い出ます。
恒太郎は父母の介護のため大学を休職し富山におり、初代校長を打診されましたが、すぐには応じませんでした。自らの独学体験から若者を支援したい一方で、僻地とされた富山の後発の学校に、優秀な教授と学生を集める方策に悩んだからです。
この年の9月1日、関東大震災が首都圏に甚大な被害をもたらしました。日本を世界に紹介した小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の未亡人せつ夫人は、ハーン蔵書の安全な保管場所が必要と考え、ハーン愛弟子の英文学者田部隆次(南日恒太郎の弟)に依頼していましたが、進展しませんでした。
教育・研究の拠点となる高等教育の場を
この年11月、恒太郎は旧制富山高等学校(現富大)初代校長を受諾し、学校設立のために東京を訪れ、弟の隆次からハーン蔵書の現状を知ります。恒太郎はこの時の思いを『ヘルン文庫目録』(昭和2年)の序文に英語で記しています。
Only a few days before, I had consented to accept the position I now occupy, and I hailed the news as something providential. (訳例 ほんの数日前に、私は現在の職責の受諾に同意しており、その知らせを何かしら天佑のように迎え入れた)
素晴らしい学校への道筋が啓かれた感激が伝わります。2千冊を越えるハーン蔵書など1万5千円の巨額の支払いには私財を抛つ覚悟でしたが、馬塲はるさんは、快く資金を拠出なさいました。
左から3人目
恒太郎は先述の『ヘルン文庫目録』序文に、次のように宣言しています。
And now the long-wished-for treasury is open at last. May lt forever serve as a Pierian spring, alike to professors and to students ! (訳例 さて、長らく待望の宝庫がついに開かれた。願わくばこの文庫が、教師及び学生両方にとってピエリアの泉たらんことを!)
「ピエリアの泉」は、ギリシャ神話で知識と霊感をもたらすとされます。小冊子『ヘルン文庫』(昭和10年刊)には、恒太郎は「北陸文化開発を思念し、本校をして北陸に於ける一大学園たらしめん」としたことが記されています。
webサイト
富大附属図書館
恒太郎は、学生とともに行動し、感化を図りました。その最期も、学生らと游泳中の急逝でした。
恒太郎の思い通り、ヘルン文庫を有し、全国初の七年制を採用した学園には、全国から志ある優秀な教員・学生が集まり、本校からも多くの生徒が進学し、高い成果をあげ、人材が育つ名門校となりました。
戦後は、新制大学設立の中核となり、今や日本海側最大級の国立大学に成長した「知の拠点」富山大学に引き継がれているのです。
富山高校人物伝 32
地域を愛し、地方発展を志ざしたリーダー
鹿 熊 久 安 〈14回〉
若くして家を継ぎ、日露戦争に従軍鹿熊久安(明治15(1882)年~昭和19(1944)年)は、富山県下新川郡山﨑村(現朝日町)出身の実業家、政治家である。
富山中学には第二学年まで修業したが、父や兄を相次いで亡くし、17歳で家督を継ぐという大きな責任を担うことになった。20歳から25歳までの5年間の兵役で、明治37(1904)年8月から明治39(1906)年1月まで日露戦争に従軍した。この間に、指揮者として一隊を率い、敵地を騎馬で駆け抜け奇跡的な生還を遂げるなどの武勲から、金鵄勲章を受賞したが、手柄話を口にされなかったという。
日露戦争から帰還後、賭博が村民の生活に与える悪影響を憂慮し、青年団を新たに組織、団長として賭博や喧嘩などを禁じた。この更正活動に多くの村民が協力し、賭博行為は一掃されたという。
こうした十代、二十代からの責任ある指導者としての決断の経験が、多くの人が証言する人間的な深みのもととなったのではないか。
故郷の村の発展を生涯をかけて実現
明治42年28歳で村会議員、大正7年に37歳で山㟢村村長となると、先頭に立ち事務刷新や村政全般の指導にあたった。大正8年には、自治会興共励会を設立、教育徹底、民力充実、風俗改善、体位向上、庶政刷新などを掲げ、発展に尽くした。
「農」をもとに、治山・治水に取り組む
農を根本にし、洪水被害から守り豊かな水資源を確保するため、森林の涵養や治水事業にも活動を広げた。大正元(1912)年の豪雨で二級河川の小川の大洪水で田畑が流失した際には、復興計画と農地整理により、以前に勝る美田となったという。
灌漑・発電による環境調和の村づくり
大正9年には山㟢村農会長となり、終生、農村指導にあたった。棚山水田の灌漑のため用水池改修と拡張、機械化や産業組合設立など近代化を図った。
また、同年、水力電気株式会社を創設。用水路を利用した小規模発電を手がけ、文字通り「明るい村づくり」を行った。経営者として「地方民の利益を図るよう、設備拡充に利益金を使う」と口にしたという。
県政に関わり、電力国家管理から県を守る
大正8(1919)年に、富山中学同期の松村謙三などとともに県議会議員に初当選。4期16年間を務め、県議会議長にも選出された。
富山県は水害の克服のため、明治以降は官民が協力し、水力発電に大きな労力を払い「災いを転じて福」としてきた。ところが昭和13(1938)年、国会に上程された電力国家管理関係法の原案では、県や民間が長年築いた財政上の成果が失われることが懸念された。この際には、県政調査会の電気事業特別委員長として関係省庁に精力的に働きかけ、県への財政保証を勝ち取ったのだった。
地域振興に努めた晩年
多岐にわたる活躍は広く知られ、郡農会長、県農会長を歴任し、帝国農評議員の要職にも就いた。また、県森林組合連合会長として県内の林業の発展や林道網を整備し、砂防協会富山県支部長として治山治水に熱意をもって努めた。晩年、県政を退いてからは、村の発展に専念した。
日本初の自然保護団体の創設に関わる
スキーや登山を趣味とし、大正14年にはスキー倶楽部を組織し、冬季の村民の運動を促した。
朝日岳と白馬岳は古来「大蓮華山」と呼ばれ、地上に咲く蓮の大輪に喩えて、敬虔な思いが寄せられていた。その自然を守り育てる「大蓮華保勝会」を昭和3年に設立した。日本初の自然保護団体であり、現在まで、朝日小屋や登山道の整備、ブナ林の保全など、さまざまな活動を行っている。
敬虔な信仰から昭和9年に新嘗祭の供御米奉耕者となり、昭和16年には忠霊塔建設に取り組んだ。
子どもから大人まで 教育の充実を図る
教育に展望をもち、小学校の友人の高等師範学校の学費を支援するなど、陰徳を積んでいる。
大正5年には少年少女団長、昭和15年には青少年団長として、また、県内初の青年学校を創り、独立校舎を建て師弟同行の教育を行った。小学校にもよく顔を出し、校舎や設備の整備を促進した。
大正11年から、学校や役場の職員による「自修会」を組織。毎月10日の早朝に集い意見交換し20年以上の間、終生一会員として参加されたという。先の大蓮華山保勝会もここから生まれた。自ら行動し率先して学ぶリーダーであったと言える。
戦時中にも関わらず、逝去後わずか2ヶ月で『鹿熊久安翁』(富高図書館蔵)、各界から50人余が寄稿した100頁もの追悼集が編まれたことからも、多くの人から慕われ惜しまれたことが推し量られる。
子息に鹿熊安正氏(元県議会議長・参議院議員)、内孫に鹿熊正一氏(元県議会議長・84回)がおり、地方自治への熱い思いは、脈々と継承されている。
富山高校人物伝 31
明治・大正・昭和の三代
郷土の発展に尽力
石 坂 豊 一〈4回〉
石坂豊一は明治7年(1874)に中新川郡東加積村大崎野(現滑川市大崎野)で10人兄弟の末っ子として生まれた。中学へ進学することは家計上困難であったが、姉の力添えで25年(1892)に富山中学を卒業した。
翌年、税関監吏補試験に合格し神戸税関に勤務した。勤務の傍ら同志社大で学んだが、27年、同志社大を中退し郷里へ帰った。28年、下新川郡役所書記後、西砺波郡役所や中新川郡役所書記となり、大正5年(1916)に富山県理事、8年には庁事務官となった。
13年(1924)5月から昭和17年4月迄は衆議院議員として、19年3月から21年12月迄は富山市長、翌年4月から34年(1959)5月迄は参議院議員を務めて、45年5月に96年の生涯を終えた。
大きい富山中学時代の影響
富山中学には当時全県から秀才が250人集まっていた。先輩には枢密院顧問官の南弘、英語学者で旧制富山高校長となった南日恒太郎、同期には文法学者で文化勲章の山田孝雄などが学び、学生は政治論を交わすなど生き方の礎を築いたと述懐している。
高等学校への進学は許されなかったが、日本は海外へ進出すべきとの考えから、当時の秋山恒太郎校長とも相談し税関吏を目指した。県会議員の義父の助けを得て神戸へ行った。
神戸では新聞配達等で生活費を稼ぎ、神戸税関監吏補試験に合格したが、実際の採用迄は英語塾に入り夜学で刑法や国際法を学んだ。日清間の緊迫した国際情勢から、明治27年徴兵検査を受けるため富山へ帰った。神戸での生活は国際的視野を広げた。
富山では郡役所の上司に相談したところ「国会議員をねらえ」と言われ、早稲田大や中央大の通信教育(校外生)を受け勉学に励んだ。
富山県の官吏時代・米騒動
大正2年婦負郡長の時、畜産振興を図ったが翌年の洪水で全滅し借金の返済に苦労した。その後山田・井田川の河川改修工事に努め、治水関係で大きな成果を収めた。5年には富山県理事、内務部勧業課長となってからは、富山市磯部の桜並木や五福への橋の設置など多くの事業を行った。
7年に植林の視察を行っていた折、北陸線に乗って米騒動を知り対策に奔走した。北海道で漁をしていた滑川の漁師達が不漁で家へ送金出来ず、富山での米の値段が倍増し母親達が騒いだ事件である。対策として東京へ出向き安い外米を割り当てて貰い、高い県産米を北海道で売り対処したと記されている。
樺太庁赴任と政治活動
富山県官吏時代の上司の長井金次郎が、大正8年樺太庁の長官となった。長井の要請で樺太で事務官として5年間過ごした。樺太は日露戦争で南半分が日本領になったが、その開発は遅れていた。築港整備や鉄道の敷設、教育改革、金融事業の振興等に当たった。
13年5月の第15回総選挙で富山一区から出馬して衆議院議員に初当選し、昭和17年4月まで5回当選し活躍した。この間、常願寺川直轄砂防や治水・植林・高山線開通、電力開発、富山県立短大の新設など成果を挙げたが、広い道路や公園の設置は樺太行政の名残であった。
昭和8年(1931)の春の通常国会開催中に、鳩山文相の下で勅任文部参与官として活躍した。
富山市長時代と参議院議員の頃
昭和19年3月、71才で富山市長に選任され、21年の12月まで2年8ヶ月務めた。20年8月2日、富山空襲で市内は灰燼に帰し、富山県庁内で執務し戦災処理や新都市計画の復興作業に追われた。
22年4月には参議院議員に立候補し73才で初当選し、85才になった34年5月まで務めた。39年4月に戦後初の生存者叙勲で勲一等瑞宝章に叙せられ、43年滑川市名誉市民に推された。
参考文献:「時代を拓いた人々ー富中・富高人物伝ー」(富山高等学校同窓会)/「石坂豊一先生を偲んで」(昭和59年 実行委員会 桂書房)/議会政治の歩みと石坂豊一展記念講演 滅私奉公の人「豊一」(平成13年 石坂誠一 チューエツ)/「議会政治の歩みと石坂豊一展」(平成13年 滑川市立博物館 チューエツ)/「富中・富高九十年の歩み」(昭和50年 富山高等学校同窓会)
富山高校人物伝 30
「おわら」を日本を代表する 伝統芸能に育てた
川 崎 順 二〈28回〉
地域医療や、富山県教育に貢献
川崎順二は、明治31年(1898)八尾町(現富山市)生まれ。大正5年(1916)富山中学校を卒業後、金沢医学専門学校(現金大医)を経て、八尾で病院を開業し地域医療に尽くすとともに、結核菌研究で医学博士、富山県医師会長や富山県教育委員会教育委員長に就任するなど、医学や教育で社会に貢献した。昭和46年(1971)没。本年が五十回忌となる。
おわら再興、郷土文化に捧げた生涯
おわら風の盆は、元禄15年(1702)八尾町創建に関わる重要文書を取り戻したことを祝い、町民が三日三晩歌い踊ったことに始まり、やがて二百十日のに、風神の鎮魂を願う祭りとなった。
明治時代以降、衰えつつあった「おわら風の盆」を生涯にわたり私財をかけて再興し、日本を代表する伝統芸能に成長させたのが川崎順二であった。自宅と病院跡は、現在「八尾おわら資料館」となっている。
多彩な文化人や民衆の英知を生かす
青年医師となった順二は、仲間と芸術文化を語り合う「会※1」のリーダーとなり、大正8年(1919)からおわら研究を始めた。大正13年「民謡おわら研究会」理事長となると、文部省民謡調査員の本居長世をはじめ、翁久允※2らが仲介した多くの文化人を自宅に招き、おわらを味わってもらい、感想や詩歌、素描などを自由に記してもらった。劇作家の長谷川伸、詩人の野口雨情や佐藤惣之助、音楽家の哲夫など錚々たる文化人が名を連ね、後に「帳」と名付けられた。
画家で歌人の小杉放庵に、新しい歌詞を依頼し、「八尾四季」が生まれ、この歌詞にふさわしい踊りを創るため、東京から日本舞踊の師匠若柳吉三郎を招いた。
昭和4年の東京の富山県物産展では「三越ホール」(現三越劇場)で披露し、大きな反響を呼び、「女踊り」「男踊り」として今日まで継承されている。
これを契機に、順二を会長とする「越中八尾民謡おわら保存会」が結成され、広く新しい歌詞を公募し、時代の気風を盛り込み、伝承芸能からの脱皮を図った。
おわらと川崎順二に関連する新研究
昨年は、注目すべき研究結果が次々に発表された。
和光大学の長尾洋子教授は、克明な調査に基づき、おわらが20世紀前半に近代詩運動などと連動し、近代ナショナリズムのもとで展開した過程を、学際的視野から捉え※3翁久允賞(令和元年度)を受賞した。順二や翁久允らの大きな役割も描き出されている。
また、静岡県立大学の細川光洋教授は、近年発見された吉井勇※4の八尾疎開の頃の日記や書簡から、順二が戦時中、小谷契月ら仲間とともに、大正ロマンを代表する耽美的な歌人吉井勇の疎開を引き受け、様々な交流があったことを丹念に明らかにした。※5
地域文化の可能性を世界に伝える
戦後も順二のもとには、作家の井上靖や五木寛之、詩人の白鳥省吾、舞踊家の石井獏、国文学者の池田彌三郎などが訪れ、「鱈福帳」に足跡を残している。
昭和27年(1952)の全国民謡舞踊大会で、おわらが優勝すると、昭和28年にフランスのパリで開催されたユネスコ国際民族音楽会議・音楽舞踊祭に日本代表として参加した。「おわら」は、民間の伝承芸能を、新たな伝統芸能に進化させたことで、地域文化の可能性を世界に知らしめたと言える。
こうした功績から、順二は昭和30年に全日本民謡連盟会長となり、全国の民舞踊の発展にも寄与した。
先の「鱈福帳」をはじめ、多くの貴重な資料を保有する「八尾おわら資料館」は、近年の研究に基づいて本年三月末に新展示となる。先人の思いにふれることができる場であり、ぜひ訪れてほしい。
参考文献:『越中人譚Ⅲ』「川崎順二」神島達郎 ㈱チューリップテレビ 平成20年/『おわらの記憶』おわらを語る会 桂書房 平成25年
※1 甚六会 甚六はお人好しのこと。「総領の甚六」は長男を戒める言葉。会に詩人小谷契月、板画家林秋路らがいた。
※2 翁久允(1888~1973) 富山出身の作家・ジャーナリスト・郷土史研究家 北米移民地文芸を創始 「高志人」発刊(19回卒)
※3 『越中おわら風の盆の空間誌 <うたの町>からみた近代』長尾洋子(和光大学教授)ミネルヴァ書房 令和元年
※4 吉井勇(1886~1960) 歌人、歌集『酒ほがい』など多数。「ゴンドラの唄」作詞「命短し恋せよ乙女」の歌詞で有名。
※5 『吉井勇の戦中疎開日記(上)(中)(下)』細川光洋(静岡県立大学教授) 平成30年~令和元年 「吉井勇と高志びとたち ~戦中日記より」細川光洋(静岡県立大学教授) 北日本新聞 平成30年~平成31年
富山高校人物伝 29
富山銀行創設者 米田元吉郎五代目の境涯
米 田 元 吉 郎〈26回〉
富山中学校第26回卒業の米田元吉郎は、累代にわたって神通川右岸の東岩瀬町においてバイ船(北前船)を経営してきた米田家の五代目である。その人柄には京都の公家風の美しい品格を感じさせるものがあった。それもそのはずである。
現在、国登録有形文化財「内山邸」(富山市宮尾村903番地)に生まれ育ったからである。内山松世(雅号は「外川」・元治元年(1864)〜昭和20年(1945)・衆議院議員・漢詩人等)の次男として、明治28年(1895)に生を享けた。その名は厳麿。明治43年(1910)四代目米田元吉郎・ツヤと養子縁組し(筆者の祖父、東岩瀬町・名誉助役犬島宗左右衛門が仲人)、「元二」と改名した。
北前海運は江戸末期の天保年間にピークを迎えているが、明治期に入ると電信が発達して「価格差」を活かした商売が次第に衰退に向かった。さらに鉄道などの交通インフラの革新も激しく進んでいった。つまり、産業の巨大なイノベーション期に突入したため、北前船海運は明治20年代に入ると全国的に衰退していく。米田家は、蓮町の旧制富山高等学校設立のために、巨額寄付した馬場ハル刀自に次いで、「岩瀬五大家」の二番目に位置づけられているが、蓄積された資本は地主資本と金融資本に変貌していく。米田家の所有する土地は「富山県一」といわれる膨大なものであり、また「岩瀬銀行」等の資本ともなった。その分、社会的責任も大きく、その土地の一部は旧制富山高等学校の敷地として寄付、岩瀬と富山を結ぶライトレールの前身である「富岩鉄道」の敷地のほとんどが米田家の提供によるものであった。富岩運河の土地も米田家の土地であった。富山港の近代化のためにも尽瘁したことは長く特筆記憶されるべきである。
五代目米田元吉郎は上新川郡東岩瀬町が富山市と合併した昭和15年(1940)の当時、東岩瀬町長として苦労した。長男元郎病死、次男英之介は昭和20年(1945)フィリピン戦線で戦死した。戦後の混乱期にあって広大な農地を「農地改革」で失ったにもかかわらず、公的任務に励み、初代富山県公安委員長、第十代富山県商工会議所連合会長として社会的責務を果たした。金融家としての最大の仕事は今の富山銀行の前身である「富山産業銀行」を創設して、富山県の金融事業を発展させたことである。朝鮮戦争後の深刻な不況期に、彼は地元中小企業が必要とする資金対策を考え、昭和29年にこの銀行を設立したが、社名変更を余儀なくされ、現在の「富山銀行」とし、創設時から昭和50年まで頭取、会長を務め、堅実な経営に励んだ。その生涯は波乱に満ちていた。昭和55年に没したが、四男一女に恵まれ、三男寿吉(旧制富山高等学校、京大卒。実質的には六代目元吉郎)が二代目富山銀行頭取・会長となった。「富山銀行」は「リージョナル・バンク」として発展を続けている。 (犬島肇)
- 参考文献:越中人物誌』越中人物誌刊行会・昭和16年。『富山銀行五十年史』平成16年。
富山高校人物伝 28
毅然として真実に立ち向かった歴史家
高 瀬 重 雄〈38回〉
端正典雅な風車形の花の濃い紫は純乎として東洋の紫である
さながら紋服の折り目も正しい老翁が端然と孤坐する姿を見るごとし
(細川宏:福光町出身、東大教授遺稿詩集『病者・花』より)
高瀬重雄の風貌を言うならばまさしくこの詩がぴったりである。眼差し温和にして人に和し、先師・先輩・同輩・後輩・知友等多くの人と好誼を交し、時として端然と孤坐し、あくまで学問の深淵にどこまでも私たちを招き入れようとする熱情は、たまらなく魅力的な歴史学者であり教育者であった。高瀬は歴史研究・歴史教育・著作活動のほか、県内の歴史研究者を糾合した『越中史壇会』の創立(昭和29年)に関わり初代会長として県内の歴史研究の基礎を築き、また編纂監修者(昭和40年度~60年度)として県内外の専門家を麾下に招き、全20巻『富山県史』を世に出すなど地域の歴史学界のリーダーとして、そのほか、豊かな識見をもって県文化財審議会会長・県社会教育委員・県地方労働委員会委員長・町村公平委員会委員長など各界で大きく貢献した。56年には勲二等瑞宝章を授与された。
高瀬は明治42年(1909)3月25日、中新川郡寺田村(現立山町寺田)で生をうけた。富山中学校に進学、大正15年(1926)3月卒業、4月に富山高等学校文科甲類に入学、昭和4年(1929)4月に京都帝国大学文学部史学科へ入学、国史学を専攻、7年(1932)3月に卒業した。卒業論文は「平安末期の歴史思想について」。引き続き4月に同大学院に進学、「日本における歴史学の発達」をテーマに研究を進めた。昭和16年4月、立命館大学助教授、翌17年2月に教授となる。同年4月には最初の研究書『伊達千広 生涯と史観』(創元社)、10月には『日本人の自然観』(川原書房)を刊行した。昭和18年(1943)秋に招集を受け兵役に就くも、その後、戦火のなかでも研究を続け、昭和19年4月、編著『中世文化史研究』(星野書店)を刊行している。昭和19年6月、富山に帰り高岡工業専門学校教授に就任した。終戦を経て昭和21年(1946)、母校の富山高等学校講師を兼任し、23年、富山大学設置委員会幹事となり、24年富山大学設立と同時に文理学部教授に就任。日本史教育を担当するとともに、開学当初に学生部長と図書館長を兼任、評議員を務め、さらに文理学部長を6期12年間も務めた。
昭和49年(1974)3月、定年により富山大学を退官。同年金沢経済大学(現金沢星稜大学)教授に就任するとともに富山大学名誉教授の称号を授与された。昭和56年(1981)3月『立山信仰の歴史と文化』(名著出版)を刊行した。この年4月の春の叙勲で勲二等瑞宝章を授与されている。同年11月功労が認められて富山県文化表彰を受けた。平成16年11月13日永眠、享年95。同日付で正四位の叙位を受けている。
高瀬の歴史学研究に向き合う真摯な姿は、研究を妨げる何者に対しても毅然として立ち向かう強い信念にあった。一例を紹介すると、昭和19年(1944)、戦時中にあって立命館大学教授の時、中世史の研究では当時第一人者と目されていた清水三男の論文が左翼の唯物史観に与するものではないかと誤解や批判を受け、その論文の所載も敬遠されていたとき、高瀬は当時京都大学の文化史学の少壮新進の学者の論文とともに件の清水論文を自らの編著『中世文化史研究』に収載し注目されたものである。件の論文が論旨明快な社会経済史研究であると高く評価し収載するという毅然たる態度に高瀬の歴史研究者としての真骨頂をみることができるのである。自らは「虎関師錬の国家意識」を収めている。 (米原寛)
富山高校人物伝 27
北陸金融界の雄
中 田 清 兵 衛(徳次郎)〈6回〉
中田清兵衛(徳次郎)は、明治9年(1876)、富山市常磐町の薬業家9代密田林蔵の五男として誕生した。27年に富山中学校を卒業し、金沢医科専門学校薬業科(現金沢大学薬学部)に進学。卒業後は軍隊に入隊し、日清戦争後に除隊している。明治30年に実兄の10代密田林蔵が設立した富山貯蓄銀行取締役に就任した。33年、十二銀行頭取で貴族院議員を務める14代中田清兵衛の養子となり養父の経営する家業(薬業・書店)や銀行の業務を助けた。中田家と密田家は、ともに江戸時代から代々続く薬種商で、8代林蔵の妻を中田家から迎えるなど関係は深かった。
大正6年(1917)、養父の病没を受けて15代中田清兵衛を襲名するとともに、十二銀行5代目頭取に就任し、昭和21年(1946)に北陸銀行頭取を辞任するまで、30年余りにわたって北陸の金融界を牽引し、地方銀行協会の設立にも尽力した。
わが国では、日清戦争が終わった明治28年ごろから企業ブームが起こったが、その多くが銀行と鉄道会社で、34年には全国に2358行、北陸3県でも120行を数えた。しかし、農業以外に見るべき地場産業のない富山では、どの銀行も効率的な資金運用ができず頭を痛めていた。そのなかで、十二銀行だけは、明治30年代から大阪・東京・金沢・北海道・福井に支店網を広げ、中央と疎遠な地にあって都市銀行に匹敵する預金額を持つ地方銀行の雄であった。頭取となった清兵衛は、堅実な経営を第一として地元の売薬業者との関係を密にする一方、積極的に北海道に支店を開設した。その数は、彼の時代だけでも、函館・帯広・・釧路など10店舗を数え、大正15年の十二銀行総預金の40.9%、総貸出金の41.4%を北海道が占めていた。
清兵衛の堅実経営は、常に用意周到の注意を払って支払準備の充実に意を用い、余剰資金はコールローンを利用して行われた。昭和2年(1927)に発生した金融恐慌では県内でも多くの中小銀行が破綻したが、清兵衛率いる十二銀行の支払準備金は総預金の44%に達し、後年、「(金融恐慌時には)かえって預金が増加した」と語っている。一方で、徹底して貸出を厳選し、いつでも資金化できるような者でないと貸出に応じず、時に「冷酷」と批判された。昭和6年7月には、清兵衛の実家が経営していた密田銀行が破綻したが、何度も特別融資を依頼されながら、「貸出の厳正を期す」方針は崩さず、身内だからといって特別な扱いをしなかった。後年、自ら「支店へも自ら検査部長みたいに回ってずいぶん細かいところまでやりました……だからよく地方銀行協会の集まりで君はあまりに細かいといって評判のあまり良くないこともありました」と語っている。「勤直、着実、謙遜を標語としているような男で、公会の席でも末席につくをわず」とも評された。それでも、地元で勃興した電気事業をはじめとする新しい産業には、地元金融機関として積極的に資金を提供するとともに経営にも参画した。なかでも山田昌作率いる日本海電気(現北陸電力)には、筆頭株主となってその経営を支えた。
戦時下では、統制経済によって銀行の合併が進められ、昭和18年には県内でも十二銀行、高岡銀行、中越銀行、富山銀行の4銀行が合併し、新しく北陸銀行が誕生した。清兵衛はこの合併にも中心となって奔走し、北陸銀行の設立とともに推されて初代頭取に就任した。
清兵衛の生活はきわめて質素で「勤倹貯蓄」を信条とし、昭和21年に国が戦争で重ねた膨大な借金を返済するための財産税が課せられた際には、「一億国民総懺悔しなくてはならぬ時である」と、富山市中央通りの土地をためらいもなく手放した。一方で、自然を愛し、山の木一本、石一つにも「我が庭と思え」と、その破壊を強く戒めたという。第一線を退いた後は、社会福祉事業に協力を惜しまなかった。 (森田弘美)
- 参考文献:大阪朝日新聞1924年8月6日付「地方巡礼北陸の巻」。『創業百年史』北陸銀行調査部百年史編纂班編・1978年。『越中百家』富山新聞社編・1973年。『越中人物誌』水上正彦編・1941年。
富山高校人物伝 26
真摯、励精なる学問の開拓者
雪 山 俊 夫〈11回〉
研究者・教育者・住職として
雪山俊夫は明治13年(1880)4月1日に浦山村(現黒部市宇奈月町浦山)のに生まれた。幼少から多彩な能力を発揮して将来を期待され、明治32年(1899)に富山中学校を卒業し、第一高等学校を経て東京帝国大学に進んだ。ここで俊夫は(夏目漱石、らとの交友でも有名)と出会う。藤代は東京帝国大学ドイツ文学科を卒業後、大学院に進学し、研究しつつ第一高等学校などでドイツ語を教えていた。明治31年には東京帝国大学文科大学講師も嘱託された。その二年後にはドイツへ留学するため、二人の重なる時期は必ずしも長くはないが、研究意欲に燃える若き教育者藤代から雪山が大いに刺激を受け、学問に目覚めたことは間違いない。その後、明治39年東京帝国大学を卒業した雪山は第四高等学校、さらに第六高等学校にドイツ語教師として勤務したが、第六高等学校時代に住職であった兄が他界したため、雪山は跡を継がなければならなくなった。しかし、親族、地域の人々の理解、協力もあり、長野の親戚から住職代理を迎え、雪山は善巧寺第十九世住職でありながら、教師・研究者の道を引き続き歩むことができたのである。
「ニーベルンゲンの歌」との出会い
教育者のみならず、研究者としても認められた雪山は、大正10年(1921)文部省の推薦で念願のドイツ留学を果たした。ベルリン大学で著名なレーテ教授・ヘルマン教授に師事し、ライプチヒ大学ではジーフェルス教授のもとで畏友ドクトル=カルクとともに中世語学の研鑽を積んだ。そこでゲーテの「ファウスト」と並び、中世文学や語学が尊重され、中でも「ニーベルンゲンの歌」が盛んに研究されていることを知るのである。
帰国後、雪山は大正14年(1925)から京都帝国大学に招かれドイツ文学・語学の講師となる。この時の京大ドイツ文学教授こそ藤代禎輔であった。この恵まれた環境で、雪山は本格的に「ニーベルンゲンの歌」の研究をはじめる。この作品は留学前にも原文で読み進めたものの、使用言語が現ドイツ語ではなく、参考書も少なく解読が難しかった。また、ドイツ国内では研究は盛んであるものの、本文の正しい言葉の理解や成り立ちを総合的にまとめた研究書はなかったのである。雪山はそれを自らの手で作ろうと考えたのである。こうして先行研究の乏しい分野を真摯な姿勢とたゆまぬ努力で切り開いていく雪山を今まで出会った恩師らが励まし、助言を与えてくれた。そして昭和9年(1934)、『ニーベルンゲンの歌 基礎の研究』が刊行されたのである。この書の緒言で、雪山はドイツ語の基礎から指導を受け、病床にあっても教示を惜しまなかった故藤代教授(昭和2年死去)をはじめ、故ジーフェルス教授や親友カルク教授への感謝の言葉をつづっている。こうした雪山の研究成果は高い評価をうけ、文学博士の学位を授与された。さらに昭和10年(1935)にはドイツ政府から栄えあるフンボルト賞を日本人として初めて授与されたのである。
雪山俊夫を語る
昭和19年(1944)、京都大学を退職した雪山は善巧寺に戻り、門徒の教化に努めた。前年に妻を亡くし、子供たちも巣立っており、寂しい生活であったが、読書は決して欠かさなかった。知人には、京都へ行き、ゲーテ協会のために尽力したいとも語っていたという。しかし、間もなく病に倒れ、昭和21年(1946)11月8日、66歳で帰らぬ人となった。
長男の俊之は、父を「本を大切にする人」であり、「自分の後ろ姿を通して教えてくれる人」であったと語る。書斎には原書しかなく、「語学を学ぶには原書にあたれと言わんばかり」であったという。学問に対する厳しい雪山の姿勢がうかがわれる。
『ニーベルンゲンの歌―構成と内容―』の著者の石川栄作(現徳島大学教授)は、九州大学の独文学研究室の書庫で初めて『雪山文庫』と出会った。入手不可能な1800年代の貴重な古書をみて「筆舌に尽くしがたい感動」を覚え、「生涯のテーマが一瞬で決まった」という。また、「その古書を手に取ってページをめくっていると時々雪山博士のハガキや原稿の一部が発見され、別の感動を覚えた」とも述べている。手紙の内容は知る由もないが、雪山との時空を超えた「対話」を通して研究を志す若者が育っていったと言えようか。
最後に、雪山の死後、学会誌に寄稿された小牧健夫(九州大学名誉教授。雪山の蔵書を『雪山文庫』として九大に寄贈を斡旋)の文章から一部を紹介して結びとしたい。小牧は雪山の学問に対する真摯で極めて良心的な態度とともに、「開拓者」としての面を評価し、その業績と人間性を称えている。
「開拓者の行く道はつねに険しく寂しい。雪山君も稀にはそういうことを漏らしたこともあったが、学問的情熱が旺盛な君はそれをかこつ(不満を言ったり、それを口実にする)ようなことはしなかった。むしろこのような仕事を畢生の業に選んだことに喜びとある矜持を持っていたようにも見えた。」 (裏野哲行)
- 参考文献:『語りつぎたい黒部人~黒部に足あとを残した人々~』(黒部市教育委員会・2008)。雪山俊夫『ニーベルンゲンの歌 基礎の研究』(大岡山書店・1934)。泉健「藤代禎輔(素人)の生涯―瀧廉太郎、玉井喜作との接点を中心に―」(和歌山大学教育学部紀要 人文科学第60集・2010)。小牧健夫「雪山君の業績」(『ドイツ文学』vol.1・日本独文学会・1947)。石川栄作「私と図書館」(徳島大学附属図書館報№47・1993・4)。『宇奈月町史』(宇奈月町・1969)。
富山高校人物伝 25
日本固有の文化 俳文学と歌謡文学それぞれの研究のパイオニア
志田義秀〈8回〉 志田延義〈36回〉 親子
ひよこ共 浴びよ 木蔭の砂涼し
現在の私たちは芭蕉の俳句を味わい、文学として体系的に学ぶことができる。しかし、明治から大正時代にかけて、俳句は文学研究の対象とはみなされなかった。大正14年に、志田義秀(1876年~1946年)が、東京帝国大学文学部講師として日本で初めて「俳諧史」を講義する際には幅広い反対論さえあった。こうした中で、義秀は俳文学のパイオニアとして講義に心血を注いだ。受講生の一人、後の国文学者市古貞次 は講義の内容を「素晴らしかった」と述懐している。息子の志田延義も学生として父の講義を受講しており、「未知の学問に懸命に取り組む姿は、国文学科の学生の理解を得ていくようになった」と述べてい る。義秀はその後、昭和7年(1932)に『俳文学の考察』を刊行し、昭和12年に松尾芭蕉を取り上げて俳文学で初の文学博士号を授与された。これらを通じて、日本固有の文化である俳句が、文学として確 立されたと言える。
志田義秀は、素(そ) 琴(きん) の号を持つ俳人でもある。学生時代から正岡子規の日本派に入会し、子規庵を訪ね、夏目漱石とも親交があった。大学卒業後、岡山の第六高等学校に赴く以前の明治42年には、日本初となる『日本類語大辞典』を佐伯常磨と共に刊行するなど、大変な努力を重ねた学者であった。六高教員の頃に高浜虚子の句会に参加し、学生にも多くの影響を残した。当時の教え子の内田百(ひゃっけん) 閒は「校友会雑誌は、まるで俳句雑誌のようであった」と記しており、後に俳句で名をなした大森桐明や内藤吐天も義秀の弟子である。
六高後は、成蹊高等学校(現成蹊大学)教授となった。戦中に疎開のため富山に帰ったが、ライフワークである講義ノートを空襲で焼失したが、その後も文学研究を続ける途中で亡くなった。研究と趣味の 両面から俳諧の本質を探究した得がたい研究者といえる。
一方、息子の志田延義(1906年~2003年)も父に劣らず、日本文学の新しいジャンルを切り拓いたパイオニアである。東京帝国大学卒業後、戦争中は「国民精神文化研究所」で「国体の本義」の作成に携わったため、戦後に公職追放となった。占領軍から恩師の久松潜一を守り、「国文学会」の存続を図るため責任をとったと言われる。
志田延義の素晴らしさは、この不遇な時代にあって、日本の文化史に残る名著『日本歌謡原史』を執筆したことである。昭和28年(1953)には歌謡研究で東京大学文学博士となった。対象とする歌謡は、記紀・万葉集・源氏物語・今(いま) 様(よう) ・謡曲・歌舞伎・現代の歌謡曲までと幅広い。昭和38年(1963)に「日本歌謡学会」を設立し、毎年授与される「志田延義賞」は、若手研究者の登竜門となっている。 父にならい俳句をものし、俳号は素(そ) 諷(ふう) である。親子の研究への思いをつなぐ句として、死の直前まで校訂作業をしていた父の姿を心に刻むように詠まれた一句には、切ない思いが溢(あふ) れている。
雪ゆふべ書き入れの朱の黒みゐし 素諷
志田延義は、山梨大学教授・鶴見女子大教授を経て富山での研究執筆活動を行い、最晩年の仕事は、戦災で消失した父の義秀の講義ノートの復元だった。志田親子は、それぞれが学者として見事な 人生を送っており、自らの人生を貫く真(しん) 摯(し) な姿勢からは、多くの示唆をもらうことができる。
- (1)内田百閒 法政大学教授・小説家・随筆家。著書『冥途』『百鬼園随筆』など。
- (2)大森桐明 第一高等学校講師・俳人。「東炎」同人。正岡子規研究や俳諧史研究。句集『高原』。
- (3)内藤吐天 名古屋市立大学教授。「早蕨」を創刊・主宰。句集『落葉松』『鳴海抄』など。
- (4)久松潜一 東京大学・慶應義塾大学教授・国文学者・歌人。著書多数。
富山高校人物伝 24
ブラジル移民のリーダー
松 沢 謙 二<30回>
松沢謙二は明治34年(1901)、金沢市生まれ。富山中学校を経て、大正11年(1922)、東京大学農学部農業実習科を卒業。農商務省農事試験場、長野県立南安曇農学校に勤め、県立福野農学校教諭となった。
ブラジル移民計画
1920年代の日本は人口・食糧問題が深刻であった。それらを解決し、農業経営難を緩和するための施策として海外移民が検討され、実行に移されていた。
大正15年(1926)、富山県知事白上佑吉が、ブラジルでの富山村建設を計画し、サンパウロ州アリアンサに3250ヘクタールの土地を購入した。次の白根竹介知事もこの方針を継続し、移民を募集する。そして、村民のリーダー、農業技術指導者として選ばれたのが、当時27歳の松沢だった。生徒からは温厚・実直と評された松沢は、日本の海外進出の必要性を感じており、ブラジル行を早くから希望していた。
昭和2年(1927)、富山県によって第三アリアンサ富山村が開設されると、松沢は他の三家族と共にサントス丸に乗り込んだ。松沢は富山村創設先発隊長として、妻玉喜とともにブラジルへと出発したが、これが見送りの人々との永遠の別れとなった。
苦難と希望のアリアンサ入植
当時のブラジルは奴隷解放からわずか20年。他の地域の日本移民には、奴隷の代替として酷使されていた例もあった。しかし、アリアンサへの入植は、ブラジル永住、さらにはブラジルとともに発展、
富山県からの入植者が入った第三アリアンサは、移民に先行していた信濃海外移民協会と富山海外移民協会が土地を購入し、開拓した村である。入植当初は大きな苦難を伴い、原生林に、持参した天幕二基を張り、掘立小屋が出来るまでの一カ月を過ごした。この時のマラリアによる高熱と過酷な労働は、決して強くない松沢の体を蝕んだ。
松沢は開設以来、信濃との協調に心がけた。さらに、後から来た移民たちの不満を聞き、互助を説いた。そういった松沢の人格に服したからか、アリアンサ内で富山村は最も安定した移住地であるといわれた。荒野からの開墾で資金繰りに苦労する中、コーヒー・トウモロコシ・ジャガイモ・米・バナナなどが植え付けられ、次第に村としての体裁を整えていった。 また、日本力行会の幹事であった宮尾厚とは、もと教師という共通項から、青年のための補修学校、子どもたちのための日本語学校創設にも関わり、専門分野を教授した。また、文化事業にも熱心で、第三アリアンサ図書館には日本から書籍が数多く寄贈された。
資金不足に翻弄される
海外移住組合法の成立を受けて、昭和3年(1928)、富山県海外移住組合が発足すると、第三アリアンサ富山村の運営権が富山県に移され、松沢はその主任理事となった。資金不足は、入植当時からの慢性的な問題であったが、松沢はその調達でますます心労を重ねることになる。「金さえあれば問題は解決出来る」と訴えるが、県からは送金が全くない。絶望から辞表を幾度となく提出するも、了承されなかった。
昭和6年(1931)には大降霜のため、コーヒーに大打撃があり、その二年後、松沢は富山村の移住地事務所の閉鎖を宣言する。万策尽きた松沢は公務を去り、第三アリアンサの奥に借地して一農民となった。
清貧の晩年
妻玉喜と、5人の子供に恵まれたが、昭和4年(1929)に生まれた長男には、貧と名付けた。「清貧にして正しく生きること」を望んでである。松沢自身も、生涯清貧に甘んじ、後年は長く病床にあったが、昭和38年(1963)10月、入植直後のマラリアが再発し、ブラジルで生涯を閉じた。享年62。文字通り、移住地の諸問題を第一線で引き受けた一生だった。
現在も続くアリアンサと富山県のつながり
松沢の播いた種は、アリアンサと富山県との懸け橋として成長している。昭和53年(1978)以来、富山県は第三アリアンサ富山村日本語学校へ日本語指導教員を派遣しているが、これは現地からの強い要望に応えてのものである。平成27年度までに19名が派遣されており、県単位での教員派遣事業としては、ブラジル内で最も長い。近隣のミランドポリス市にも、平成5年(1993)以来、高岡市から教員が派遣されている。
また、本校同窓生には、昭和37年(1962)、卒業と同時にブラジルに乗り込んだ「富山高校三人組」がいる。林忠行・浅野隆史・根塚弘(74回)である。彼らは、当時、高度経済成長期にあった日本にありながら、在校時からブラジル移住の意志を固め、周囲を説得した。ブラジルではそれぞれ起業し、成功している。根塚氏は現在ブラジル富山県人会顧問である。
(川上 徹)
参考文献: 『 第三アリアンサ創設五十周年史』・第三アリアンサ編集委員会・1979年。
『富山県南米移民史』・富山県南米協会・1989年。
『ブラジル日本移民百年の軌跡』・丸山浩明・明石書店・2010年。
『共生の大地アリアンサ』・木村快・2013年。
資料・写真提供: 富山県南米協会。谷英志しらとり支援学校教諭(第三アリアンサ富山村日本語学校派遣)。
富山高校人物伝 23
人間味あふれる法曹三者
高 木 常 七<23回>
ユニークな人柄
『北日本新聞』昭和33年6月28日の紙面には、「郷土から二人の最高裁判事出す」として、石坂修一(父は参議院議員・石坂豊一)と高木常七が取り上げられている。
二人はともに富山中学校出身(高木23回、石坂25回)である。東大法学部卒の石坂は「事実を正直にながめてきた」気骨漢であり、東京地裁時の河合栄治郎事件の無罪判決に代表される、イデオロギーに左右されない判決を行った人物である。広島・名古屋・大阪の高裁長官をへて最高裁判
事となった。
一方、高木常七の紹介文は、かなり変わっている。広くもない客間には趣味で集めた陶器と仏像、郷土色豊かなおもちゃがあふれかえっていること、「人間
はどちらかといえば、あほうの方がいい。あんまり利口になると、かえって不幸だから」との発言、法廷での和やかな雰囲気や、噛んで含めるような判決
がしばしば被告の感涙をよんでいること、早稲田大学卒業後、検事・弁護士・判事の「法曹三者」をすべて経験したが、判事になる時には迷い、浅草観音
のおみくじが吉と出たから転身を決めたなどのエピソードが書かれている。
最高裁判事として、彼は4年9か月余の在任の間、松川事件、砂川事件などの重大事件を手掛けた。特に松川事件では一審、二審の死刑を含む有罪判決を
破棄し、高裁へ差戻す意見に同調した。これはのちの再上告の棄却にもつながる重要な判決となった。
「その頃の思い出」―忘れ得ぬ師との出会い―
高木常七は、明治26年(1893)3月15日、富山市清水町に生まれた。富山中学校時代は自宅から3、40分かけて通学し、五年間無欠席だった。「病気に
かからぬよう心掛け、通学に支障のない病気ならば、薬瓶を下げて通った」という。四年生の時、皇太子殿下(のちの大正天皇)の学校行啓があり、優秀な
生徒献上作品の中に彼の図画も選ばれている。
この富山中学校時代には高木にとって、忘れ得ぬ師との出会いがあった。
一人は斎藤八郎。その高潔な人格にひかれた高木は、五年生の時、斎藤に直接願い出て、同級生と毎週一回、斎藤宅で「孟子」の講義を受けた。「座
布団なしの畳の上に素足で座り、膝を崩さず一時間ばかりの講義は苦しみ」でもあったとのちに高木は語っているが、爛々として輝く眼と、さびのある鋭
い口調で一句一句説き進める斎藤の講義が、彼の人生に大きな影響を与えたことは間違いない。
そして高木が深く傾倒し、生涯にわたり交流を続けたのが国語担当の塩野新次郎であった。塩野は福井県出身で、富山中学校在任わずか3年で名古屋幼
年学校教官に転じたが、闊達な口調、誠実な指導で多くの生徒の信望を集めた。転任後も高木は原稿を書くたびに名古屋の塩野宅に送り、塩野も懇切丁
寧に添削をした。俳句に傾倒しかけた高木に「まずは勉学が大切」と叱咤したこともあった。大正5年(1916)に高木が早稲田大学英法科を卒業し、その後、
検事・弁護士を経て昭和21年2月に静岡地方裁判所長となった時、塩野はその新聞記事を見て真っ先に喜びの手紙を高木に送った。高木は常に気にかけて
もらっていたことを改めて感じ、涙を流したという。
後輩たちへ
昭和40年(1965)10月、「創校80周年式典」及び記念行事が開催され、講師として招かれた高木は、全校生徒を前に、「理屈と道理について」と題し講演
を行った。その冒頭で当時の校長が本校出身であることに触れ、「自分の出た学校の自分の後輩を教える。これは非常にありがたいことだと思うんです。」
と語りはじめる高木。この講演は彼にとってこれからを担う後輩たちへの「授業」であったのかも知れない。難しい用語を控え、アパートの貼り紙をめぐ
るエピソードから話を起こす。『論語』に書かれている孔子の言動に「法律家」的な面があることを紹介し、現行の刑法や民法の話と結びつけてみる。さ
らに、法律の二つの解釈(文理解釈と論理解釈)について、小説の中の宮本武蔵を登場させて語らせる。こうした彼の持つ豊かな知識と巧みな話術が生徒た
ちを惹きつけたであろうことは、講演記録から十分にうかがわれる。
この年の春、長年の功績が認められ、勲一等瑞宝章を賜った高木は、富高同窓会会報に寄稿した。彼は、中国の『戦国策』にある物語「死馬の骨」に
なぞらえ、これは受章に値しない私が受けることで、もっと優れた人間が相次いで現れるであろう「深謀遠慮」と解釈し、「あっさり」拝受したと語る。ど
んな時でも常に自分のスタイルを貫く高木であった。その10年後、彼は82歳で静かにこの世を去った。
(裏野 哲行)
参考文献: 『 富中富高百年史』。
『富中回顧録』(1950・10)の中の高木常七「その頃の思い出」。
『富山県立富山高等学校同窓会会報』第14号(1965・8)の巻頭に「死馬の骨」寄稿。
『むつみ23号』(1965・11)「創立80周年記念講演〝理屈と道理について〟」講演記録
富山高校人物伝 22
高岡市の産業基盤を築く
木 津 太 郎 平(清太郎)<6回>
木津太郎平(清太郎)は、明治8年(1875)、高岡市上川原町の廻船問屋木津家に生まれた。父五代目太郎平は、高岡共立銀行を設立し、高岡商業会
議所三代目会頭を務め、大正・昭和にかけて高岡政財界の御三家(木津・菅野・荒井)の地位を固めた。
清太郎は、中田清兵衛(徳次郎)と同じ明治27年に富山中学校を卒業。28年12月に志願兵となって入営し、除隊後33年に25歳の若さで高岡米穀外四
品取引所理事となった。その後、富山県貿易協会常議員・同幹事、36年には急死した父の跡を継いで六代目太郎平を襲名し、高岡貯金銀行取締役に
就いた。37年には、菅野傳右衛門、荒井荘藏とともに高岡電燈の設立に参加、取締役に就任したが、日露戦争旅順攻囲戦で消耗した兵力の補充に
自ら応召、奉天会戦に従軍した。
日本の産業革命期には地方商人が地域経済の成長を支えたが、太郎平もまたその一人で、積極的に新しい産業の立ち上げに投資し、経営にも参加
した。祖母が高峰譲吉の伯母いつであったことから、明治27年にアメリカでタカジアスターゼの事業化に成功した高峰から多くの薫陶を受けた。41
年には高峰が設立した富山県で初めての化学工業北陸人造肥料の設立に参加し、大正8年(1919)には高峰がアメリカのアルコア社と合弁で設立し
た東洋アルミナムにも参画した。現在の黒部ダム(黒四)の地点に高さ約151.5mのダムを造り、そこで発生する電力で高岡銅器の技術を生かしてア
ルミ工業を興そうという構想で、大正10年には発電所建設の資材運搬のための黒部鉄道の建設も始まった。東洋アルミナムは、高峰の急逝で頓挫し
たが、発電所建設工事は日本電力によって継承された。木津は高岡をアルミの産地にという高峰の遺志を引き継ぎ、昭和18年(1943)に高岡のアルミ
加工業者を統合して北陸軽金属工業を設立し、社長に就任してアルミ産業の存続に力を注いだ。
また、明治40年には高岡商業会議所会頭に就任し、45年4月に「高岡製産品評会」を開催。以後毎年開催して、市の産業、とくに伝統産業の品質
向上に資するところが大きかったという。対岸貿易振興にも情熱を燃やし、明治34年に単身ウラジオストックを視察。その経験を生かして44年、
伏木-浦塩間命令航路に関する意見書」を政府に提出して、当時脚光を浴びていた大陸との定期航路開設にむけた積極的な運動を展開した。ま
た、大正9年には高岡銀行の取締役、15年には頭取となって実業界で確固たる地位を築き、ほかにも浅野総一郎とともに設立した伏木板紙、山田昌
作に呼応して参画した日本海側初の民間ドック日本海船渠など、地域内外に構築した重層的なネットワークを基に、地域経済活性化に努めた。
しかし、すべてが順調だったわけではない。義弟の菅野傳右衛門が第一次世界大戦の好況にのって興した高岡鉄工所の経営を引き継いだものの、
顧客の帝政ロシアが革命によって消滅し、もっていたルーブル紙幣が紙くずとなって破綻に追い込まれた。また、氷見市出身の浅野総一郎が計画し
た庄川水力電気に発起人として参加したが、流木権を主張する住民との間に庄川流木争議が発生し、全国的な問題となった。さらに、昭和恐慌の
影響で自身も破産に追い込まれ、家財道具・農地・株式等いっさいを整理する憂き目にもあった。
木津は政治にも携わった。明治45年に市政団体の要請を受けて衆議院議員に立候補、37歳の若さで当選したが、政党内の争いに絶望して大正4年に
政界から引退し、「政治と絶縁」した。昭和13年に至って、派閥争いで混乱した高岡市政の浄化を懇請され、第13代高岡市長に就任、20年まで市
長を務めた。市長時代には、日露戦争で受けた金鵄勲章の年金を基金に、出征兵士の借財を肩代わりし、弔慰金も贈っていたという徳望の人でも
あった。
(森田弘美)
参考文献: 『高岡商工会議所百年史』高岡商工会議所・1997年。
『越中の群像:富山県百年の軌跡』桂書房・1984年。
『人的事業体系・電力編』松下伝吉・中外産業調査会・1939年。
『越中人物誌』越中人物誌刊行会・1941年。
富山高校人物伝 21
-日本社会問題の先駆者-
横 山 源之助<1回>
富山の滑川は、大正7(1918)年に米騒動の発祥地として知られる歴史に残る土地であるが、政論家でも実業家でもない魚津生まれの横山源之助を知る人は少ない。
日本経済学の古典を挙げるとすれば、広い視野で古代から幕末までの歴史を、文明開化史として叙述し、明治10年.15(1877.82)年に刊行した「日本開化小史」(田口卯吉)、明治32(1899)年刊行の「日本の下層社会」(横山源之助)、大正5(1916)年刊行で人道主義の立場から、当時社会問題化していた貧乏を取り上げ衝撃を与えた「貧乏物語」(河上肇)であろう。
横山源之助の「日本の下層社会」は、明治期における下積みの人々(農民、職人、女工、鉄工夫、土方、人足等)の生活の様子を、日本で初めて明らかにし、総合的に研究した力作であり、昭和24年に岩波文庫から復刻出版され、平成11年まで47版を重ねる名著である。この研究は「イギリス労働階級の状態」(エンゲルス)、日本の紡績工場で働く女子の、苛酷な労働条件と虐待の実態を描いた、大正14年刊行の「女工哀史」(細井喜久藏)にも通じる。
横山源之助は私生児で捨て子となり、魚津金屋町の腕の良い左官職人、横山伝兵衛の養子となった。魚津明理小学校(大町小学校)を卒業した11歳の時、魚津の素封家で神明町の油・醤油問屋を営む沢田家に奉公した。沢田家の理解と源之助の優れた才によって、明治18(1885)年、本県最初の富山中学(富山高校)の第一期生として入学した。幼少から大志を抱き、何とか日本人の為になろうとしていた。そんな彼は田舎の中学生として甘んずることなく、一年を終了すると、同郷の岩崎文太郎・五島茂と星雲の志を抱いて東京へ出奔(郷里を逃げ)し、英吉利法律学校(現中央大学)に入学し弁護士を目指した。
二葉亭四迷との出会い社会問題研究へ
傾倒源之助は明治24年、5年の弁護士試験に失敗し暗澹たる日々を過ごしていた。その頃、東京外国語学校ロシア語科を出て、ロシア社会主義の影響を受け、官報局(外国情報の翻訳や官報の編集)に勤務しながら、「浮き雲」(同20年.23年発表)、「めぐりあい」(同21年)など、日本初の言文一致体小説を書き、近代写実小説の先駆者となった二葉亭四迷と出会った。またそこに集まった松原岩五郎や内田魯庵などの影響もあり、社会問題研究に傾倒していった。機械文明、資本主義化が著しく進んだ状況下でもあった。
二葉亭四迷の、人間の問題は社会の問題と深く関わらねばならぬとする考えは、源之助に現実に立ち向かう厳しい姿勢を伝え、弱者や貧しい者への純粋な気持ちを、リアルな記録文学へと誘った。二葉亭は「文学は男子一生の仕事にたらず」とも述べている。
明治27年(1894).32年にかけて横浜毎日新聞社(現毎日新聞社とは別)に入社し、社会問題の探訪記事を書き続けた。明治34年頃から海外移民に関心を持つようになり、貧民・労働者救済の途として海外移住を有力な手段と考えるようになった。特にブラジル移民に関心を持ち、自ら移民事情調査に9カ月間も渡航し、斯界の権威者となり、各階層の全貌が初めて明らかにされた。尽きない人間愛によって、虐げられた状況を生き生きと描きだした。ある時は、東京の貧民窟に何日も身を委ね、大道芸人、車夫、日雇い人足の生活を、多角的に捉え世に訴えた。下積みの人々の側に立った姿勢を貫き、桐生・足利の機織り企業を訪ね、女工の痛々しい境遇を記録し、関西のマッチ工場の工員、鉄工所の労働状況を精査し、郷里富山では小作人の貧苦の様子を描きだした。大正4年(1915)6月、魚津の養父亡き後、上京していた家族を養う負担と、腺(せん)病(びょう)質(しつ)という病の中で、45歳で夭折した。
「日本の下層社会」のほか、「内地雑居後の日本」(昭和29年)、「織工事情」(同56年)が岩波文庫から刊行されている。また魚津市新金屋公園に顕彰碑(同39年)が建立されている。
(加藤 淳)
富山高校人物伝 20
-全国の国分寺跡・国分尼寺址を最初に踏査した歴史家-
堀井 三友<16回>
まことに本村の如きは、地理的に、人文的に、はたまた社会的見地よりして早晩いづれか、あに市編入を見ずして止むべけんや。関係各位の助言、あるいはさもあらん、しかれども唐突なる村態の変革を思ひ、安からぬ民心の衝動を思へば、卒然として決すべきにあらず。むしろ悲愴なる心懐を抱きて、陰にこれを村内公職ならびに有志に告げて、もってこれに善処せんことを期す。
本文は、昭和10年(1935)3月25日付の奥田村報・合併記念号の巻頭言の一節である。筆者は堀井三友。現況を切々と説き、将来を堅実に期したこの文章は、説得力抜群の名文である。
堀井三友は、明治18年(1885)生まれ。父は奥田村長を二度も務めた人。母は南日恒太郎の長姉。明治37年(1904)富山中学校(現県立富山高等学校)を卒業し、早稲田大学文学部に進んだ。学生時代は、文学・美学・美術関係の書を耽読した。ワイルドの小説やオイケンの人生哲学等を翻訳して地方紙などに掲載した。叔父恒太郎の影響によるものか。さらに奈良の名刹を歴訪して「仏像めぐり」を執筆した。続いて郷土研究誌『高志人』に「越中仏像礼賛」を66回も連載した。例えば、三友の鋭敏な鑑識眼によって発見・鑑賞された南砺の安居寺の聖観音像は重文に指定されるにまで至った。昭和5年(1930)には、富山県史跡名勝天然記念物調査委員や帝国美術院付属研究所員を委嘱された。翌年には富山郷土研究会の創設に参加し、いよいよ古仏像や古美術の調査のための全国行脚を本格的に始めた。
ところが、この学究の徒の三友が昭和9年(1934)2月5日、奥田村最後の村長に推された。三友の篤実な人望と父が二度も村長を務めた奥田村への報謝の念とが彼をして村長を引き受ける決意をさせたのであろう。合併反対者への説得、合併条件の整備、県知事や市長との交渉など翌10年3月31日まで村長としての激務に没頭した。この間の心境を表出したのが上記の文章である。
村長の職を終えた昭和11年(1936)には、越中史跡古美術調査会を創設して、学究の徒として再出発した。この会の第一回の調査が越中の国分寺址の調査であった。高岡市伏木一の宮字国文堂にある真言宗の薬師堂の古仏像が国分寺の遺物であることを察知し、さらにその付近を発掘して古瓦などを発見して、この地に国分寺があったと三友は確信したのである。この調査研究を『高志人』昭和13年5月号に詳細に発表した。
これを機に、全国の国分寺址・国分尼寺址調査に改めて着手した。三友は、ドイツ製の写真機や測量器具を新たに購入して徹底的に実地踏査を行い、その研究成果を世に問う決意のもと、まっしぐらに歩を進めた。
いよいよ「国分寺の研究」の稿が成った時、三友は病の床についてしまった。しかし、病床の中ながらも、古瓦の写真・寺址付近の地図・国分寺、国分尼寺の復原図などの整理に夢中になった。どうにか公刊される運びとなり、その序文の中には「自分は畢生の力をこの書に傾け盡したおもひがある」という文句があったとのこと。世の中はむごいもの、この書の刊行を見ないで、三友は昭和17年(1942)5月31日癌のため不帰の客となってしまった。その上、戦火のため原稿も印刷途上のものも烏有に帰してしまった。息子に先立たれた母は、次のように述懐している。
近辺の家はみな瓦葺きなのに、我が家だけは瓦屋根に葺き替えていないことを何度も注意しても、ハイと返事するが「研究費が要るので」と申して、瓦屋根を見ないで先立ってしまいました。困った息子だと悲しく思い出しながらも、学問好きな南日家の血を引いている息子の姿を温かく思い出したのではなかろうか。
世の中も落ち着き始めた昭和25,6年ごろから、故人の研究を懐かしむ声があちこちから上がるようになった。幸いにも草稿と備忘録とが残存していたので、原田淑人・石田茂作・駒井和愛・安藤更生・島田正郎・赤間義洋・堀井乾三からなる「堀井三友遺著刊行委員会」が設置されて、昭和31年(1956)11月20日、『堀井三友著「国分寺址之研究」』が上梓された。さらに翌32年11月1日には、三友の肖像顕彰碑が堀井家の邸内に建立された。奢らず、焦らず、生涯学び・究め続けた堀井三友の人生と、学界の堅固な礎石であり続けているこの先輩の業績に改めて注目したいものである。
神島達郎(66回卒)
富山高校人物伝 19
-司法権の独立に貢献した最後の大審判長-
細 野 長 良
細野長良は、富山市相生町に細野長元の次男として生まれた。明治31(1898)年に富山中学校を中退し、同35年同校補修科入学後、9月には第六高等学校に入学、同41年京都帝国大学独法科を卒業し名古屋地方裁判所に勤務し、裁判官としてのスタートをきった。細野は富山藩士の家に生まれたが、若い頃は貧しかったため、実業家の金岡又左衛門から資金援助を受け、苦学を重ねた。昭和4(1929)年6月13日、就学の恩人金岡又左衛門の葬儀に出席し、金岡家奨学出身総代 大審院判事 細野長良として弔辞奉呈している。
昭和21(1946)年2月1日、細野長良は最後の大審院長に就任した。その後、新憲法施行に際して最高裁判所長官に就くことが期待されていたが、人事をめぐる法曹界内部の対立などのため細野長良の最高裁判所長官就任の夢は果たせなかった。しかし、戦後、GHQで共に作業に加わったオプラー氏は、細野の葬儀に際して、弔辞のなかで細野の勇気、精力・誠実さについて触れ「細野が日本の司法権の独立に貢献したことは長く歴史に残ると確信する」と。
ところで、こうした裁判官細野の正義を貫くための勇気と自信はどのように育まれたものであろうか。一つに北陸人らしい忍耐づよさ、二つには、ドイツ・オーストラリアに留学や法官として4年間(大正9年~)イギリスでの勤務など海外留学により、イギリス流の個人と自由の尊重を身につけたこと、そして、才能と身分に恵まれながらも経済的に奨学資金に頼らなければならない境遇により、その視線を民衆や弱者に向け、その実現のために「司法の独立」を実現する必要があると考えていたことなどが挙げられる。
細野長良は、任官競争に敗れ、都下吉祥寺で悲運の生涯を終えたのは昭和25(1950)年正月1日であった。旧憲法下での最後の大審院長(現在の最高裁判所長官)であり、行政からの司法権の独立を実現させた。
司法権の独立を実現すべく二つのエピソード
細野の司法権の独立の強い思いとは、遠く明治の頃からの問題となっていた「司法権の独立」をかかげることであった。裁判所が政府や軍部の支配下に置かれる状況にあった戦前、戦中から司法の独立を訴え続けた、細野の何者にも屈しない正義を貫く姿勢のなかで当時の法曹界でも讃えられた二つの「事件」を紹介する。
一つには、戦局激しい昭和19(1944)年春、東条英機首相は全国裁判所長官合同会議で演説、裁判官の自由主義的傾向を痛烈に非難し、「諸君には特別の覚悟が必要だ。これに応じなければ非常の措置をとる用意がある。分かったか」と強言した。これに反発して、広島控訴院長であった細野長良は「内閣総理大臣は、我が国に於ける司法を監督すべき機関に有らず、…陛下の名に於いて為す裁判に対し、行政機関より批判又は示唆を加うる如きは、帝国憲法の厳として存する限り断じて為し能はざる所なり…」として首相と法相に抗議文を送りつけた。軍政下では命がけの勇気ある行動だったとして讃えられた。
また、天皇が東京霞ヶ関の大審院に行幸した時、司法省が綿密な計画を立て、司法大臣が天皇を先導して大審院庁舎を案内するということであったが、大審院判事であった細野の強硬な反対論で司法省の計画そのものが御破算となったことがある。「天皇が行幸されるのは大審院であって司法省ではない。大審院長が先導申し上げるべきで司法省の出る幕ではない。」正義派らしい細野の言葉である。その後、細野と司法省との間に確執が残った。
主な参考文献
(山本裕司『最高裁物語』・日本評論社)
(金岡又左衛門翁追悼会編『金岡又左衛門翁』)
(『越中人譚』第十八号・株式会社チューリップテレビ)
米原 寛(73回)
富山高校人物伝 18
-少年期から恋した創作 ‐多彩なジャンルで開花‐道半ばで逝く-
久世 光彦<66回>
2006年、70才で亡くなった久世光彦は、1935年東京に生まれ、幼年時代を阿佐ヶ谷で過ごした。小学生時代は父の勤務の関係で5回も転居を繰り返し、1945年7月父方の家のある富山へ疎開した。堀川小学校・富山大学附属中学校・富山高校を出て東京大学文学部へ進み、1960年TBSに入社。2年後、ドラマ「パパだまってて」をデビュー作品として演出家の道を歩む。家族もの、文学作品、時代劇とジャンルは広く、中でも「寺内貫太郎一家」「時間ですよ」は最高視聴率30%を超えるテレビドラマ黄金時代を築きあげた。
手がけたテレビドラマは141本を数え、「女正月「聖なる春」で芸術選奨文部大臣賞を2回受けた。50才頃からエッセイや評論にも及び、『昭和幻燈館』や『ニホンゴキトク』などはノスタルジーに満ちている。小説は『蝶とヒットラー』でドゥマゴ文学賞、『一九三四年冬-乱歩』で山本周五郎賞、『蕭々館日録』で泉鏡花文学賞をもらい、51冊が刊行されている。62才から毎年、舞台演出に取り組み計14本を手がけた。さらに青年時代からの詩作が、小谷夏、市川睦月の名で作詞に至り、60才の時「桃と林檎の物語」で日本作詞大賞を受賞。世に出た歌の作詞は148篇以上ある。
富山での足跡をたどる
2009年8月、東京・世田谷文学館の学芸員、瀬川ゆきさんが富山へやってきた。同年9月から開く「久世光彦~時を呼ぶ声」展の担当者である。開催を前に、富山での彼の足跡を確認しようとするものだった。『時を呼ぶ声』は1992年から96年にかけ北日本新聞連載の随筆集で、久世さんは富山の思い出を書いている。66回同期の本木英子さん・熊木美智子さんと一緒に空港へ出迎えた。まず案内したのは、戦災後久世一家が一時身を寄せた熊野村字安養寺である。光彦少年は熊野川の川原に寝そべって見た青空が「一番美しかった」という。その後転々とし、落ち着いた先が今泉の二軒長屋だった。そこに9年間住んだが、今は古ぼけたアパートに変り、しかも人の気配もなかった。この家から堀川小学校へ歩いて10分、富山高校のグランドは斜め向かいという近さだった。
私たちは富山高校の前を通って市電通りへ出た。8月1日のあの夜、久世一家は相生町のおばの家から堀川小泉町の父方の家へ泊りに来ていて、そこから焼夷弾の中を逃げたそうだ。空襲時を偲びながら、久世さんと私たちも通った附属中学校へ向かう。当時の附属中学は富山連隊の建物を校舎としていたのだが、今は富山大学である。その庭の一隅にあった中学生の頃の遊び場は、昔の面影がそのまま残っていた。
そのあと呉羽山山頂で立山と市内を一望し、長岡御廟へ向かった。途中、なだらかな坂があり、香西かおりが歌った「無言坂」の歌詞はここでイメージしたそうだと話し合う。富山藩主前田家の墓の奥に久世家の墓があった。「僕に墓の道順を何度も教えた」と言っていた父親は、彼が中学のとき急死してここに葬られたという。彼が中学・高校時代を通じて心をわくわくさせて歩いたのが、総曲輪と中央通りだった。中央通りの牛嶋屋喫茶店に同期の友人たちが集まっていたので、瀬川さんを紹介し、久世さんのことを語り合って富山での様子を少しでも感じてもらった。
仕事の原点をさぐる
久世さんの多彩な仕事の原点は、幼少期からの並外れた読書量、青年時代の精力的な映画の観覧、そして男女・年齢を問わない交友関係の広さである。一度会った人の名前も振舞いも忘れないという抜群の記憶力があった。そして富山への郷愁の元は、戦災で焼き尽くされた衝撃の記憶と、雄雄しくも優美な立山連峰など、富山の風土ではなかろうか。小学6年生の時初めて登った感動がその後の度々の立山登山につながった。
「久世光彦~時を呼ぶ声」展の世田谷文学館には、死の当日まで使っていた彼の書斎が再現され絶筆「百閒先生 月を踏む」の原稿、ドラマ「東京タワーオカンとボクと,時々,オトン」の構想など、彼の遺した数多くの資料が展示されていた。ただ、寝る間も惜しんで書きまくった久世さんだったが、書き尽くしたとは思えない。とくに、小説にこれから本腰を入れるつもりではなかったか。道なかばであった、と惜しまれる。
私たち中学・高校の同期生が『追想久世光彦』を一周忌前に完成させた。また世田谷文学館は、冊子『久世光彦の仕事』を展覧会と同時に発行した。これは彼の多面的な創作活動を網羅したものである。ほかにもいくつか写真展、ライブ等が開かれた。今後も様々な久世さんを回顧する行事や出版物が出てくるだろう。
(66回卒)牧野 睿子
富山高校人物伝 17
-講道館柔道を伝えた先生-
大島英助先生<職員>
本校に講道館柔道創始者嘉納治五郎の書『身心自在』大島英助先生の扁額があることを知っている人は意外と少ない。ロンドンオリンピックで日本柔道が苦戦したが、世界中の柔道人口が増加し、その頂点に立つことが難しくなったことが理由の一つであろう。日本の柔道を世界の柔道に広めたのは嘉納治五郎の功績である。嘉納の扁額がどのような経緯で本校にあるか正確なことを聞いてはいない。しかし『富中富高百年史』編纂のおり、本校と嘉納治五郎との間に大島英助先生の存在があることを知った。
明治27年(1894)、本校の前身、富山県尋常中学校の物理・化学・英語・体操の教師として大島英助教諭が着任した(当時、校舎は総曲輪にあった)。大島先生は慶応元年(1865)山形県米沢市に生まれ、苦学力行しながら旧制第一高等学校から帝国大学理科大学物理学科(現在の東京大学物理学科)に進んだ。卒業後まもなく本校に着任したが、すでに30歳近くであった。嘉納治五郎が講道館柔道を創始し、東京下谷永昌寺のわずか12畳の道場で活動を始めたのは明治15年である。大島先生が大学入学後間もなく講道館に入門し、嘉納治五郎師範の直接指導を受けたと思われる。本校に着任した明治27年には全国でもまれな講道館柔道2段の有段者だったといわれている。
当時は生徒・教師間でのトラブルやストライキ騒ぎで学校は荒れることが多かったが、訥弁ながら鷹揚な先生は生徒からの信望が厚かった。大島先生の着任によって28年2月から柔道を体操科の一部として取り入れることになり9月に開始式を行っている。29年には5年生で週3~4回、4年生3回、2、3年生2回の割合で柔道の時間が割り当てられている。寒稽古も行われ、30年6月には校内での柔道紅白試合も行われた。柔道を教育の一環として取り入れたのは嘉納治五郎が教師をしていた東京高等師範学校(後の東京教育大学、現在の筑波大学)付属中学校が最初で、明治26年1月のことである。本校はその2年後の導入であるから、全国でも最も早く有段者による柔道教育を始めた中学校といえる。国が旧制中学の教育に柔術または柔道を正式に取り入れたのは明治31年(1898)からのことである。他校に先んじて柔道を教育科目にできたのはまさに大島先生の存在があったからこそである。こうした中等教育における柔道の導入にあたって、大島先生が大学の先輩で柔道の師である嘉納治五郎師範を本校に招いて直接指導を仰ぎ、その折冒頭に記した柔道の基本である『身心自在』の揮毫を依頼した可能性は想像できる。もっとも総曲輪校舎は明治32年(1899)に富山市大火で焼失しているので、扁額の寄贈は明治33年太郎丸校舎に移って以後のことであろう。嘉納師範来校の有無はともかく、高弟大島英助が在職した本校からの頼みなら快く扁額の揮毫を承諾されたであろう。大島先生が後に校長として在職した福井県立福井中学校(現在の藤島高校)の場合は、寒稽古に嘉納治五郎を迎え、その指導を得て実施している。
大島先生の本校在任はわずか3年で、高知県尋常中学校海南学校教諭に転任し、さらに2年後の明治32年には35歳で福岡県立中学名善校の校長となった。同41年福井県立福井中学の校長となり、昭和7年(1932)、68歳まで同校校長を勤めあげた。一生を中等教育に捧げた名物校長として全国的にもよく知られた教育者であった。大正3年(1914)、柔道3段の時に講道館四天王の一人横山作次郎と共に著した『柔道教範』は英語・ドイツ語・フランス語に翻訳され、柔道啓蒙の書としてヨーロッパの人々の注目を集めた。恩師嘉納治五郎の「日本の柔道」を「世界の柔道」への願いの実現に大きな役割を果たしたに違いない。嘉納治五郎筆『身心自在』の扁額は昭和46年(1971)本校火災の折、額装が損傷したが、やがて補修されて今も柔道場に掲げられている。
※参考資料:『富中富高百年史』・『富中回顧録』・『富山中学校一覧』・『富山日報』・『中学教育史稿』・『富山高校史資料及び美術品目録』・小林健寿郎著『偉大なる教育者・大島英助』
※大島英助先生写真:一般社団法人明新会(福井県立藤島高等学校)提供
富山高校人物伝 16
-文芸を学問研究の対象とした先駆的国文学者-
岩城 準太郎<8回>
「浮雲」の出づるや、世人は其内容形式共に、全然従来の作物と其選を異にするに驚き「書生気質」に比して隔世の感あるを認めたり。実に「浮雲」は「書生気質」を過渡の橋梁として新時代に入りし小説界最初の創作なりき。思ふに「小説神髄」の所説を最忠実に体認して純粋なる新時代模写小説の範となりしは『書生気質』に非ずして「浮雲」なり。固より前者は模写小説の粉本なりしも、前項に見えたる幾多の事実に之をして該種小説の範たらしめず、創新の名誉は挙げて後者に帰せり。
上の文章は、岩城準太郎の「明治文学史」の一節である。この著は、哲学者井上哲次郎・歴史学者坪井九馬三(くめぞう)・国文学者芳賀矢一の企画に基づく「明治歴史全集」の1巻である。明治36年(1903)、恩師の芳賀からこの企画に参加することを薦められ、明治37年(1904)5月から明治39年(1906)6月までの満2年をかけて執筆し、その年末に刊行された。準太郎28歳の時であった。明治35年(1902)に東京大学文学部国文科を卒業した。卒業論文は「源氏物語の題材」であった。すぐに大阪府立北野中学校に奉職し、明治37年(1904)に三重県立第一中学校に転任した。この20歳代の新米の中学教師時代に、この書が書き上げられた。当時はまだ同時代の文芸を本格的に学問の研究対象にする風潮がなかった。しかし、さればこそ準太郎は恩師の薦めに応じるためにも同時代の文芸を歴史的に研究することに敢然と立ち向かったのである。
そんな意気込みのもとで書かれた文章は、ヘーゲルの思考方法に倣った論述の仕方が感得され、しかも見事な雅文体で記述されている。当時の青年学者たちは、みなこのような雅文体で記述している。そのような書を手にした時は、かれらの言葉の豊かさと学問的素養の豊かさにきまって驚異の目を見張るのである。
準太郎は、明治11年(1878)上新川郡大広田村字大村(現富山市)に生まれた。母は分家をして父を婿養子に迎え、新しい家を構えた。明治24年(1891)に富山県尋常中学校(現富山高等学校)に入学した。中学時代は学校の近くに下宿した。真面目で多感な準太郎は、下宿部屋の石油ランプの灯の下で、逍遥・四迷・?外等の小説をはじめ、「早稲田文学」や「文学界」などの文芸誌を読み耽った。また、父の実家も母の実家も十村役を勤めた旧家であり、それらの家の土蔵には江戸時代の和本や木版刷りの漢籍などが多く保管されていた。準太郎は虫干しの手伝いをしながら、これらを読みあさった。後年「明治文学史」を著す素地がこの時に既に培われたといえよう。
準太郎は、その後、第四高等学校(現金沢大学)を経て、さらに東京大学に進んだ。明治41年(1908)に母校の第四高等学校に赴任し、大正4年(1915)に奈良女子高等師範学校(現奈良女子大学)の教授となった。以後、研究領域をさらに古代にまで広め、巨視的な構想のもとに「新講日本文学史」や「新修日本文学史」を著し、また日本文学を幅広く論じた「国文学の諸相」や「国文学群像」等を著した。昭和18年(1943)奈良女子高等師範学校を退官したが、奈良の地を終の棲家とし、二葉亭四迷の研究などにいそしんだ。昭和32年(1957)逝去した。享年79。
写真は「越中人譚」58号からの転載
(66回卒・神島達郎)
富山高校人物伝 15
-北陸の自律性を守り抜き、近代富山の礎を築く (2) -
山田 昌作(19回)
大都市資本に対抗した企業誘致
山田昌作がその存続に心血を注いだ北陸圏の危機は電力国家管理だけではなかった。山田が富山電気に迎えられた大正初期の電力事業は、大規模貯水池発電所と長距離送電の技術革新を迎えていた。大都市の大電力資本による大規模水力開発が展開され、その手は北陸にも及んだ。5大電力の一角日本電力と大同電力が富山県に進出。開発した水力は、昭和10年時点で日本電力系が45万3,700kW、大同電力系は10万7,600kWにものぼった。地元最大手の日本海電気は系列を加えても8万5,900kWにすぎず、重要な水力開発地点の多くが大都市資本に占有され、送電された。山田は大電力会社に対抗する形で富山の地域開発にかかわっていった。
昭和4年から15年までの間、日本海電気が低廉な電力をもって誘致した企業は、七尾セメント(イワキセメント:七尾港)、伊藤忠兵衛率いる呉羽紡績(呉羽・庄川・井波・入善の9工場)、日清紡績富山工場、日満アルミニウム(現、昭和タイタニウム)、中野有礼率いる日本曹達(高岡・岩瀬・富山)、日曹人絹パルプ(興国人絹パルプ)、日本カーバイド工業、さらには、自らが中心となって設立した日本海船渠(現、新日本海重工業)など十指に余る。
なかでも、富山県の要請を受けて誘致した日満アルミニウムには1kWh5厘7毛8糸の破格な低料金で常時電力3万2,900kWを供給した。これは、富山県営愛本発電所の電力を買電し、かつ、送電線の設置に巨費を投じるものだった。また、日曹人絹パルプの誘致には、製造工程で必要な蒸気を供給するため日本海電気初の火力発電所を建設。さらには、その燃料となる石炭を日東美唄炭砿(北海道)を買収して調達した。
これは、天賦の自然資源を武器に送電コストの不要な地元に電力多消費型工業を誘致したものである。しかし、立地企業にとっては、関西圏の8分の1という破格の電力料金も、製造品の輸送コストを考えれば競争力の決め手にはならない。企業誘致による地域開発も、本社が大都市にあって地方に進出した分工場に意思決定機能がなければ分工場が得た経済余剰は本社に流出してしまう。つまり、後発地域に重化学工業を興し競争力を獲得するには、単に安い電力を供給して工場を誘致すればすむわけではない。では、山田はどのようにして企業誘致を成功させ、競争力を育んだのか。
地域に根付く企業誘致戦略 山田が主導した富山の地域開発は大きく三つの戦略で展開されたが、それは外来型開発の形をとりながら戦後のそれとは大きく異なった独自の発展を遂げるものだった。一つは、立地企業を地域外資本と地元資本との共同出資によって設立し、その多くが中枢機能を富山に置いた。大正5年に誘致した電気製鉄は、日本鋼管が資本金の半分を出資し、後は富山電気をはじめとする地元資本が出資して本社を伏木に置いたこと。昭和4年に設立した呉羽紡績は、伊藤忠兵衛とともに山田が設立発起人となり役員にも就任、株式の募集にあたっては自ら日本海電気の社員に積極的に働きかけた。また、富山電気ビルデイングなどの地元企業設立の際には誘致した企業にも出資を仰いで地域との絆を太くした。この共同出資による企業設立は、大規模設備を要する重化学工業などの資本不足を補うとともに、リスクを分散し、事業に対する責任を地域的に共有する意味もあった。
二つ目には独自技術の確立。山田が誘致した企業のほとんどが、当時全国でも例のない最先端技術の実現であったことである。新しい技術を先行して確立すれば技術的優位性を持つことになり、将来的に競争力の決め手となる。しかし、工業化の後れた地方に自前で最先端技術を創り出すことは容易ではない。山田はそのジレンマを地域外企業の先端技術力をいち早く導入して地域に定着することで克服しようとした。
三つ目は、これら誘致企業の事業が確立するまで日本海電気が採算を度外視して支援した。誘致した企業は例外なく苦労した。日本海電気はこれを、低廉で安定した電力供給に加え、株式や社債の保有などの資金的な援助、さらには電気代の肩代わりや貸し倒れも引き受けていたのである。こうして富山県は戦前全国で6、7位の工業県に成長した。特筆すべきは、戦後多くの企業誘致が失敗したなか、これら進出企業のほとんどが立地から80.90年を経た現在も富山で事業を継続していることである。
参考文献:『北陸電気産業開発史』正橋清英/
『日本電力業発展のダイナミズム』橘川武郎/
『山田昌作伝』/『金岡又左衛門翁』有峰ダム (82回卒 森田 弘美)
山田が北陸電力の社運を賭けて建設した有峰ダム。貯水池 の水は発電だけでなく、富山市の74%を賄う水道水として その水源の95%を提供しているほか、常願寺川一体の農業 用水として利用されている。 北陸の自律性を守り抜き、近代富山の礎を築いた
富山高校人物伝 14
-北陸の自律性を守り抜き、近代富山の礎を築く (1)-
山田 昌作(19回)
命令あるまで所信翻さず 山田昌作を語るうえで欠かせないのが、太平洋戦時下における電力の国家管理に敢然と立ち向かい、北陸ブロックの自律性を守り抜いた信念である。
電力の国家管理は、戦時経済統制の一環として、既存の発電設備および主要な電力設備を日本発送電1社に帰属させ(昭和14年4月第一次国家管理)、全国を8地区に分割して各地区内の電気事業者を統合しそれぞれに配電会社をつくるというものだった(16年4月決定の配電事業統合要綱)。この要綱では、北陸地方は中部配電の供給区域に編入されることになっていた。電気事業者たちからは一斉に国家管理に反対の声が起こったが、戦時経済統制が強まり軍部の発言力が拡大していた当時、反対運動が実ることはなかった。唯一、この政府案に北陸の自律性を主張し、行動したのが山田だった。
これが実施されれば北陸地域の独自性は完全に失われ、中部地域の辺地となりかねない。山田は、「北陸に育ち、北陸において成長した産業は、すべて北陸の特殊性によって成立したものである。北陸地方の歴史的・地理的実情に照らしても北陸は独立した電力圏をつくるべし」と主張。北陸の電気事業者に自主的な統合による北陸電力圏の確立を促す一方、自ら逓信省に粘り強く陳情を続けた。しかし、戦争目的貫徹を標榜して論評の余地を許さない戦時下において山田の行動は命の危険すら伴ったという。山田の決意を昭和16年7月10日付北日本新聞は、次のように伝えている。
命令あるまで所信翻さず 山田社長の帰来談
北陸ブロックを要望するのは、国家に得策であると信ずるからである。北陸ブロックの独立については、命令書を戴くまでは、あくまで所信に向かって邁進する。容れられるか、容れられぬかは問はない。所信を述べることが臣道の実践であることを信ずるからである。北陸ブロックが認められぬ以上、八月一日より創業営業する北陸合同電気会社は無駄ではないかといふ者もあるが、然し今日まで和やかな会合を持って築いた物質的、精神的収穫はよほど大きいものがあった。今後は、いわゆる不変をもって変に処する心構えをもって、ブロック問題に処していきたいと思ふ
北陸の自律性を確保
16年4月、山田の説得に応じて日本海電気・高岡電燈・立山水力電気・大聖寺川水電・出町電燈・金沢電気軌道・小松電気・雄谷川電力・手取川水力電気・石川電気・石川電力・越前電気の12社が北陸合同電気を設立した。大阪毎日新聞はこれを「配電統合方式の全国的範例」と報じた。北陸合同電気の設立は、国家管理の枠組みは受容しつつ、そのなかでの相対的な自律性を確保しようという地方資本側の「対抗戦略」であった。
自主によるか、強権下に統御されるかの違いは大きい。8月3日には政府が配電会社区分要綱にもとづく分割を決定したが、山田の働きと自主統合が功を奏し、特例によって北陸ブロックの独自性が認められ、北陸配電が設立されることになった。翌日の北日本新聞は「要望酬いられて特例“北陸合同電気”存立 中部地区は二社制で国策線へ」と報じた。戦後行われた電気事業再編成でも、これが既成事実となって、現在の9ブロック体制が維持された。
富山中学講師からの転身
山田昌作は、明治23年に富山市に生まれた。父信昌は、元富山藩士で一時期売薬も営み、十二銀行や、富山電気(昭和3年に日本海電気)、金沢電気の取締役を務めた。昌作は、大正3年に東京帝国大学法学部独法を卒業し、「長男が家を離れることは不都合」とする父に随って母校富山中学の講師として法政経済とドイツ語を教えたが、大正5年に富山電気の社長金岡又左衛門に招聘され、弱冠26歳で同社常務取締役に就任した。
以後、金岡の片腕として同社の経営を担い、昭和4年からは日本海電気の社長として北陸最大の電気事業者に発展させる一方、伏木臨海工業地帯や富山市北部などに繊維工業、重化学工業を誘致して富山県が日本海側屈指の工業県に成長させる礎をつくった。戦後は、北陸電力の社長として常願寺川有峰発電計画を実現するとともに、立山黒部の開発、さらには(財)がん研究会(癌研)の理事長として病院の再建にも奔走するなど、その足跡は多方面に及んだ。
参考文献:『北陸地方電気事業百年史』山崎広明ほか/
『北陸電気産業開発史』正橋清英/
『日本電力業発展のダイナミズム』橘川武郎/
『山田昌作伝』/『金岡又左衛門翁』
(82回卒 森田 弘美)
富山高校人物伝 13
-鉄釉陶器で人間国宝第1号-
石黒 宗磨 <26回>
石黒宗麿は明治26年(1893)射水郡作道村字久作業中の石黒宗磨 々湊(現在の射水市久々湊)の医者の長男として生まれた。独学で中国古陶磁の技法解明と復元に生涯をかけ、昭和30年(1955)),鉄釉陶器の技で重要無形文化財保持者(人間国宝)第1号に認定された。
宗麿は13歳で県立魚津中学に入学したが、明治43年(1910)4月に旧制富山中学3年に編入学した。翌年秋に富山中学を中退、慶応義塾普通部3年に転学している。20歳の時、金沢の野砲兵第九連隊に入隊、やがて朝鮮に駐屯した。23歳で金沢に帰還したあと野田で楽焼(※手づくねで作る鉛釉の陶器)を見て陶芸に関心を抱くようになった。除隊後父が開業医をしていた新湊立町に楽窯を作り試作を始めた。大正8年(1919)26歳の時上京し、やがて渋谷の松濤に窯を築く。2年後岩佐とうと結婚。同12年、関東大震災によって埼玉県小川町に移住し、苦しい生活を続けた。再び金沢野砲兵第九連隊に入ったが除隊後楽焼の肖像彫刻や置物などを製作、笠山焼の名で販売した。大正末から昭和初年にかけて富山市、金沢市で、昭和2年(1927)には東京丸ビルで展示会を行った。この年、作陶の中心地京都に移り、東山蛇ケ谷に窯を作った。近くに間借りしていた小山冨士夫と知り合い生涯の友となる。小山は中国古陶磁研究の第一人者となるが、石黒宗麿の陶芸を高く評価した最大の理解者であった。
小山と宋磁を研究し初めた頃、稲葉家の曜変天目茶碗(現在は静嘉堂文庫美術館所蔵の国宝)を見て、その技法の復元を志すようになったといわれる。また小山を通じ大原美術館長武内潔眞、大原孫三郎などとの交流が生まれ、物心両面の支援を得た。昭和10年(1935)、佐賀県唐津に赴き、古窯跡を調査、研究し唐津焼を製作する。同年夏、京都洛北八瀬近衛町に窯を築き、生涯の仕事場とする。同12年44歳の時パリ万博に「唐津風大鉢」を出品して銀賞を受け、同14年中国宋代の柿釉、翌年木葉天目の技法を初めて再現し高い評価を受けた。15年には小山冨士夫の尽力もあって東京で個展を開いた。17年東京高島屋の工芸展に出品した柿釉鉢が受賞し、やがて木葉天目茶碗の完成に成功して注目を浴びた。
戦後は日本を代表する陶芸家としてフランス・イタリア・アメリカなど海外に紹介された。一方日本伝統工芸展では独力で解明した様々な技法を用いて鳥文や魚文をデザインした鉢や壺を発表した。昭和30年、鉄釉陶器により国指定重要無形文化財技術保持者に認定され、人間国宝第1号となった。陶芸家荒川豊蔵、浜田庄司、富本憲吉らも同時に認定された。 宗麿には陶芸の師はなく、古陶を徹底的に研究し、自ら技法を解明し習得した。彼は書画にも秀でていたが、同じく古典だけが師であった。
平成10年(1998)郷土の偉人・石黒宗麿を顕彰する新湊市博物館が開館し、
人間国宝認定の翌年新湊市名誉市民に推された。また本校26回生として母校富山高校に作品「絵高麗文字壺」を寄贈し、現在、百周年記念館に収蔵されている。昭和43年(1968)京都で没した。享年75歳。
(元本校教諭 日本史 保科 齊彦)
参考文献: 小山冨士夫監修『石黒宗麿作陶五十選』(朝日新聞社)
石黒宗麿』(新湊市博物館開館記念)
小野公久『手紙が語る石黒宗麿の心』(新湊市民文庫)
定塚武敏『越中の焼き物』(巧芸出版)
小野公久監修『石黒宗麿書簡集』(射水市新湊博物館)
『富山大百科事典』(北日本新聞社)その他多数。
(元本校教諭 日本史 保科 齊彦)
富山高校人物伝 12
-中国古代史研究・16代目島の徳兵衛-
岡 崎 文 夫 <16回>
見よまいか 見まいか 見よまいか 島の徳兵衛の嫁 見まいか岡崎文夫先生 お縁に七棹 座敷に八棹
上の歌謡は、富山市梅沢町の天台宗正覚山円隆寺で、毎年7月の盂蘭盆に催される「さんさい踊り」の歌詞である。島の徳兵衛は岡崎徳兵衛のことである。岡崎家は、富山市西本郷一帯の土地をほとんど全部を有していた江戸時代からの豪農であり、代々富山藩の十村役を務めた名家である。岡崎文夫は、この徳兵衛・十六代目である。
文夫は、明治21年(1888)の生まれ。明治38年(1905)富山中学校(本校の前身)卒業、第四高等学校(現金沢大学)を経て明治42年(1909)京都大学史学科に入学した。四高では西田幾太郎、大学では内藤湖南・狩野直喜・鈴木虎雄など錚々たる学者の教えを受けた。はじめは中国近代史に注目していたが、大学院に入ってからは中国古代史を専ら研究するに至った。これは内藤湖南の影響によるものだろう。その後、中国に留学し、大正13年(1924)東北大学文学部史学科助教授に任ぜられ、仙台に居を構えた。翌年英仏に留学した。
大正15年(1926)帰国の途次、父の佐次郎と一緒に中国を旅行した。父は「老後の楽事ここに極まれり」と喜んだ。佐次郎は衆議院議員を務め犬養毅とも昵懇の間柄であったが、政治家になることをさして好まず、漢詩文をこよなく愛し「藍田」と号して漢詩を多く作った文人であった。文夫が中国史を研究したのは父のこの姿に影響されたものであろうか。文夫は書物を広く読み究め、用意周到な講義ノートを作成して教壇に立った。文夫の研究におけるこの識見卓犖ぶりから「東北大学に岡崎文夫の東洋史あり」と喧伝された。その最初の成果が『魏晋南北朝通史』(昭和7年・弘文堂刊)の大著である。文化史に重点を置いて中国の歴史を見渡した恩師の内藤湖南はこの書に漢文の序を贈った。湖南は厳しく評しながらも、政治史に重点を置いたこの通史の新しい研究方法に率直に目を見張ったのである。
文夫は昭和24年(1949)大学を定年退職して故郷に帰った。農地解放によって広大な岡崎家の農地もほとんどなくなって家屋敷だけになっていた。さらに前年の洪水で二、三年前から家に送っていた膨大な書籍類が水に漬かってしまっていた。しかし、四十余年ぶりに我が家に落ち着いた文夫は、これからは晴耕雨読の生活をしようと心に誓っていた。それも束の間、翌25年3月、発病してから4日後に、現代の司馬遷と称されていた生粋の歴史学者は突如としてこの世を去った。享年62歳。
■岡崎文夫の主な著書から■
Ⅰ.『新制東洋史教科書』(三省堂刊)中学校・女学校用の歴史の教科書。昭和十年代によく用いられた。図版や地図も多く取り入れ、日本の歴史と対比した年表も挟み込んだ懇切丁寧な教科書。諸子百家の説明など今も参考になるところが多い。
Ⅱ.『司馬遷』(昭和22年・弘文堂教養文庫)「史記」を最も愛読したことから必然的に生まれた書。司馬遷の全貌を把握するのに最適の書。辛辣な批評で有名な武田泰淳は自著「司馬遷史記の世界」の中で、この書を「小冊子であるが、丁寧親切にして内容豊富な解説書である」と珍しくも好意的に評している。
Ⅲ.『魏晋南北朝通史内編』(平成元年・東洋文庫)前述の大著の内編と外編とを二分して、その内編を再刊行した書。中国古代史研究のためには掛け替えのない書。史記をはじめ種々の史書からの引用は幅広くかつ精確であり、今も研究者にとっては必携の書となっている
Ⅳ.『隋唐帝国五代史』(平成7年・東洋文庫)死後45年後、文夫の講義を受講した研究学徒たちがノートを持ち寄って編集刊行された書。学徒の一人は次のように述懐している。 先生の講義は、今日はどういう講義をするのかから始まり、今日話したことをまとめるとこういうふうになるんだということをきちんと述べて終わりとされた。一回一回非常によく考えてノートを作っておられるという感じを受け感心しました。したがって、中途半端で講義の時間が終わるということは決してなかったわけです。
上述の書はどれも富中富高文庫に納めてある。生前の研究が死後ますます価値を発揮するとは。その不滅の学究力に驚嘆するとともに、このスケールの大きな先輩に対してあらためて尊敬の念が心底から湧いてきてならないのである。
(66回卒・神島達郎)
富山高校人物伝 11
-金色燦然と輝き続ける山田文法-
山 田 孝 雄 <4回同期>
余がこの身はいかなる境遇に在りとも、敢へて憂ふるに足らざるなり。
余が研鑽(けんさん)はこの地にありて一進境あらむことを期す。出来得べくば、余が研鑽をしてこの地に在る間に一頭地を抜かしめよ。余が此の身は如何なる境遇に在りとも、敢へて憂ふるに足らざるなり。(随想「大言小言録」より)
明治34年(1901)5月、高知県立第一中学校安芸分校に転任したばかりの、26歳の国語教諭兼舎監の山田孝雄の言葉である。今までの5年間で学び究めてきた日本文法の研究を論文に具体化する決意を表した言葉である。若い研究学徒のほとばしる情熱が感得されてならない。翌35年に、書き上げた論文「日本文法論」を三部に分け、『日本文法論・上』を出版した。そして山田は明治37年(1904)にこの論文を学位請求論文として、審査を東京大学文学部に願うことを添え書きして文部省に提出した。さらに研究は続いた。その論文は明治41年(1908)に1500ページにも及ぶ『日本文法論・全』として新しく上梓された。金色燦然と輝く名著の誕生である。博士請求論文のほうは、ようやく25年後の昭和4年(1929)2月に文学博士の学位が授与された。この経緯を知った徳富蘇峰は「官学にも私学にも無縁の一衆生の大快事」と『東京毎日新聞』紙上で山田を絶賛した。
山田は、明治8年(1875)富山市総曲輪に生まれた。明治20年(1887)に富山県尋常中学校(本校の前身)に入学した。成績は極めて優秀であったが、一年で退学した。富山藩の藩士の家であった山田家は廃藩置県のために窮地に陥っていたからであろう。しかし、山田は独学精励し、明治24年(1891)に小学校授業生の免許を取得し、翌25年に草嶋小学校に勤めた。実はこの免許取得のために明治6年生まれとしたのである。山田は生涯この年の生まれを堅持した。その後、上市尋常小学校、下村忠告尋常小学校に勤めた。その間、小学校正教員の免許を、明治28年(1895)には尋常中学校並びに尋常師範学校の国語科教員の免許を取得した。山田の猛勉強ぶりがしのばれてならない。29年4月、下村の児童たちは「先生、おらっちゃをおいてどこへ行くがけ」「先生、まめでおられえ」と泣き叫びながら21歳の青年教師を見送った。山田は滂沱と涙を流して彼らと別れた。それから間もなく山田は故郷を出立し、兵庫県の私立鳳鳴義塾の教員となり、明治31年(1898)に奈良県郡山中学校五条分校に転任した。これらの学校や高知の学校で舎監を兼務したのは研究書の購入と家への仕送りのためであった。
明治39年(1906)にいよいよ上京した。翌40年に文部省国語調査委員会補助委員を嘱託され、大正2年(1913)まで務めた。これは香取秀真(かとりほつま・鋳金家・歌人)と森鴎外(陸軍軍医総監・作家)の推薦によるものであろう。大正9年(1920)に日本大学講師に、大正14年(1925)に東北大学講師に就任した。2年後に教授に昇進し、昭和8年(1933)まで教鞭を執った。昭和15年(1940)に神宮皇学館大学長兼神宮皇学館長に任ぜられ、昭和19年(1944)に貴族院議員に推挙された。そのためだろうか昭和21年(1946)に公職追放の身となった。その時、山田は郷里に戻りたかったらしいが、当時の富山は戦災からほとんど復興していなく、山田一家を迎え入れるゆとりがなかったのであろう。しかし、世には救いの神が存在するもの、東北大学時代の教授仲間の阿部次郎の厚意によって仙台の地を終のすみかとすることができたのである。
昭和26年(1951)に追放解除となり、昭和28年(1953)に文化功労者として顕彰され、昭和32年(1957)に文化勲章を授与された。同時に富山市名誉市民に推挙された。翌33年8月に帰省し、本校にも立ち寄った。その折、「これからはNEDやOEDに匹敵する大型の辞書を息子たちと作りたい」と力強く述べた。だが、偉大な学者も病には勝てず、同年11月20日この世を去った。享年83歳。富山市役所松川畔の中庭に自筆の歌碑「百千度(ももちたび)く里かへしても読毎(よむごと)にこと新たなり古之典(いにしへのふみ)」が建っている。この歌からもうかがわれることは、山田は生涯学びと究めを確かにかつたくましく続けた大学者であったことである。
(神島達郎・66回卒)
富山高校人物伝 10
-新研究方法を開拓し続けた民俗学者-
大間知 篤 三 <30回>
大間知民俗学→家なるもの
大間知篤三は、明治33年(1900)4月9日、富山市愛宕町に生まれた。民俗学者大間知篤三父は6代目大間知円兵衛、母はキク。家業は呉服屋で、父は富山橋北銀行の頭取でもあった。しかし、6歳で父は亡くなった。夫婦の縁の薄かった母は義理の長男7代目円兵衛を大切に育て、旧家大間知家を守り続けた。大正7年に富山中学校(現富山高等学校)を卒業し、第四高等学校(現金沢大学)に入学した。杉山産七・中井精一・密田良二ら富山中学出身の四高生を中心として、大正11年(1922)4月に文芸誌『ふるさと』第1号が発刊され、第15号まで続いた。篤三も創刊号から同人として詩・小説・翻訳などを寄稿した。
篤三は、大正12年(1923)4月に東京帝国大学文学部独文科に入学した。在学中、篤三は社会主義学生運動の中核的団体であった新人会の有力メンバーとなり、その幹事長まで務めた。昭和2年(1927)に大学を卒業し、その年の暮れには1年志願兵として金沢連隊に入隊した。しかし、翌3年3月に思想上から治安維持法に違反するとして検挙され、3年の刑に服役した。出所後、しばらく富山で静養したが、上京して大宅壮一主宰の「千夜一夜翻訳団」に参加した。時あたかも昭和8年(1933)9月14日、柳田国男の「民間伝承論」の講義が始まった。以後12回行われ、篤三は全講義に参加し、柳田門下生として研究に専念することになった。房州白浜、伊豆神津島をはじめ伊豆の島々に実地調査に出掛けた。これに併せて社会主義運動から転向した。昭和14年2月には、辻政信の推薦により満州新京(現中国吉林省)に設立された建国大学に赴任した。ドイツ語・民族学・原始信仰研究などを担当した。この地で家族形態や婚姻制度を研究している時に、聞き取りによる語彙調査中心の研究(共時的)から事実と事実との関連に焦点をあてた文献にも目を配る社会調査中心の研究(通時的)へと変化し、大間知民俗学を樹立しつつあった。
戦後引き揚げてきてからしばらく富山に居を構えたが、昭和23年(1948)には柳田邸内に設立された財団法人民俗学研究所の所員になった。篤三を中心として『民俗学辞典』が編纂され、個人的には名著『八丈島―民俗と社会―』を上梓した。だが、昭和28年(1953)の春、過労による肺結核のため研究所を退かねばならなかった。師と仰いだ柳田との研究方法の違いがそうさせたとも言われており、以後日本民俗学会の会合にはほとんど顔を出さなかった。しかし、勤務先の中央大学では、源氏物語をはじめ古典の民俗学的研究を進めた。肥後和男・浅野晃・中平解・三谷栄一ら多士済々の集まりであった。この研究は、常民文化の過去を復原するには古文書から目を閉ざしてはならないとする大間知民俗学の新しい研究と言わねばなるまい。
昭和43年(1968)病床に就き言葉を発することができなくなった。研究が不可能になった絶望感に苛まれながらも、篤三は学びの心意気を喪失させることなく、昭和45年(1970)2月25日この世を去った。享年69歳。篤三の研究内容は、婚姻習俗や家族形態といった「家なるもの」に注目したものが目立つのは、ことによったら大きな家を献身的に守って一生を送った悲しくも美しい母キクの姿が篤三の心の奥から去ることがなかったからであろうか。
篤三の取り持ちで結ばれた大宅夫妻、壮一は「彼はその名の如く温厚篤実な人柄で、彼を知るすべての人から親しまれ、敬愛された」と讃えている。また昌子は「現代のいやらしい面には少しもおもねらず、神のような人格者でした」と偲んでいる。昭和50年(1975)に、仲間の研究者たちによって『大間知篤三著作集』6巻が刊行された。富中富高文庫にも納められている。富高生であったら、この中の1冊でもよいから手にとって、先輩の築いた本物の学問の重みを感得してほしいものである。
(神島 達郎・66回卒)
富山高校人物伝 9
-日本学士院会員に選ばれた農学者-
西 川 義 正<43回>
世界の畜産界を一変
かっての畜産会は、農耕などの役牛の飼育が中心であり、その繁殖は自然交尾で行われていた。 そのため繁殖率は極めて低かったが現在の畜産界は、大きく変わった生活様式に対応し、役牛から乳牛・肉牛の飼育へと変化し、年間200万頭以上の子牛が生産され飼育数も飛躍的に増加している。この変化を可能にしたのは冷凍精液技術による人工授精技術であり、この技術を開発したのが西川義正(43回)である。日本の人工授精技術は大正初期にロシアから移入されていたが、それは生精液を使うものであり、軍馬を対象とするものであったから畜産界に大きく普及しているわけではなかった。なお、このロシアからの人工授精技術移入に関わったのが石川日出鶴丸(8回)である。しかし、義正が開発した冷凍精液を使う技術は、時間・空間を超えて優良精液を効率的に利用できるようになって、健康で質の高い乳・肉牛の生産に大きく貢献したのである。
義正は、上市町上中町でみそ・醤油を製造する醸造業を営んでいる西田家の5男として大正2年に生まれ、大学卒業後に芦屋市の西川美枝と結婚し西川姓を名乗った。義正がが富山中学に入学したのは大正15年である。富山中学在学中は絶えず級長を務め、当時、認められていた飛び級によって中学4年修了をもって旧制富山高等学校理科に進学した秀才であった。旧制富山高校では理系の学生の多くは医学志望であったが、西川は東京帝国大学農学部獣医学科へと進んでいる。それは、富山中学2年の時の担任で博物担当の先生が、子供の頃から魚を捕えたり、昆虫を集めたりすることが好きであった西川少年を大変可愛がってくれ、その影響を受けたことによると自ら語っている。
昭和11年、東京帝大を卒業した義正は、農林省に入省し、昭和32年まで一貫して畜産研究部門にかかわっていた。この間の同27年に冷凍精液の研究に携わることになった。敗戦国日本の独立が実現し、この年に海外の学会出席も2学会に限って認められた。その1つに選ばれたのがコペンハーゲンでの国際家畜繁殖学会であり、農林省農業技術研究所畜産部の若手研究者であった義正が参加することとなったのである。その学会で出会った、世界で初めての牛の精子の冷凍保存に成功したイギリス国立研究所のポルジ報告に刺激され、帰国後精液の希釈液にグリセリンを混合し、ドライアイスで凍結することに成功した。世界の畜産界を一変させる大発見であった。その後は、その実用化に向けた研究を続けた結果、同32年に京都大学農学部教授に異動し、翌年に和牛を用いた試験を成功させた。その後も研究者・教育者としての道を押し進んだ。京都大学教授時代に、家畜審議会専門委員、日本学術会議会員、京都大学農学部付属牧場長、日本畜産学会会長などを務め、同39年に日本学士院賞を受賞している。同51年に京都大学を退官した後は帯広畜産大学学長となった。帯広畜産大学時代の同53年には世界畜産学会会長に就任し、同56年に日本学士院会員に選定されている。同59年から富山女子短期大学学長として同短大の国際交流事業に努力し、晩年は郷土の高等教育に貢献している。本校の卒業生の中から偉大な学者が多数輩出しているが、日本学士院会員となっているのは昭和50年に選ばれた内分泌学の竹脇潔(34回)と西川義正の2名だけである。残念なことに、富山女子短期大学を退任した翌年の平成6年2月に芦屋市で交通事故にあって80歳で亡くなった。
(133号)
富山高校人物伝 8
-信念を貫いた能吏-
牛塚 虎太郎<10回>
内務官僚として地方行政に尽力地方行政に尽力した牛島虎太郎氏
平成28(2016)年のオリンピックの東京誘致が話題になっている。もしこれが実現すれば昭和39(1964)年以来2度目の開催となる。しかし、これ以前の昭和15(1940)年に東京でオリンピックが開かれる予定であった。昭和15年は紀元二千六百年にあたるとされ、これを祝う盛大な国家的祝典が催されるのに合わせてオリンピック誘致が図られたのである。この時のライバルはヘルシンキであったが、昭和11年のIOC総会で36対27の大差で東京開催が決定した。しかし、日中戦争が拡大し、激しくなるなかで、軍部の圧力で中止させられ、幻のオリンピックとなったのである。このオリンピック誘致に大活躍したのが、当時、東京市長であった牛塚虎太郎(第10回生)であった。また、この昭和15年には万国博覧会も東京市と横浜市が共同で開催するはずであったが、これも幻で終わっているが、ここでも牛塚は活躍している。
牛塚は射水郡水戸田村(現射水市)の出身で、富山中学卒業後は、第四高等学校・東京帝国大学を経て明治39(1906)年逓信省に入った。明治45年、宮内省に入り、天皇の崩御にともなう明治天皇大喪使事務官及び大正天皇即位礼の大礼事務官に就任した。この時、即位式や大嘗祭など天皇の即位にかかわる儀式の研究を行い、『大礼要義』を著し、その後の天皇の大喪や即位の資料となっている。大正5(1916)年に内閣統計局長に就任し、以前から懸案となっていた国勢調査の実施に向けて取り組み、同9年には臨時国勢調査局次長として陣頭に立って指揮して第1回国勢調査を完遂させている。
大正11年に内務官僚として地方行政に携わり、岩手県知事、群馬県知事、宮城県知事、東京府知事を歴任して、昭和6年に官界から退いたが、岩手県知事時代には、それまでの「巌手県」から「岩手県」に改めた。また県土全域をくまなく視察したと伝えられる。岩手県は広すぎるうえ、当時は交通網が未発達で、これまでの知事はだれも全域を視察しなかったといわれるが、牛塚は馬に乗ってこれを成し遂げた。富山中学校で野球選手としても活躍し、宮内省時代に主場寮で乗馬を習得したほかテニス、ゴルフなどにも打ち込む牛塚は、単なる秀才であるだけでなく、当時としては珍しいモダンなスポーツマンでもあったのである。オリンピック誘致に力を傾けたのもこうした資質が背景の一つとなっているのであろう。群馬県知事に就任したのは関東大地震後の不況の時期であり、17%減の大緊縮財政を実施して財政再建をはかったほか、県庁所在地を前橋市として確定している。群馬県発足当初は県庁は高崎に置かれたもののまもなく前橋に移った。その後も高崎に県庁がおかれた時期もあり、明治14(18881)年の太政官布告で前橋で決着が着いたはずであったが、両市の確執は続いていて、この頃、県庁舎新築を機に再燃したものであった。
退官後の昭和8年、東京市会議員に立候補して当選した。当時は市会議員の互選によって市長を選任していたが、牛塚は東京市長に選ばれ就任した。この頃の東京市長は汚職事件に連座したりして短期間に退くものが多かったなかで、牛塚は東京市民のためとの信念を持って4年の任期を全うした。当時の牛塚を知る人は「市長在職中は終始ポケットの右には市長の辞職書、左には議会の解散勧告書を入れ、常に強く正しい信念で職務を遂行された」と語っている。県知事時代もそうであったろうが、内務省任命の官選知事と違い、間接選挙とはいえ民意によって選ばれた市長としての自負と使命感、責任感の現れであろう。昭和17年、東京1区の衆議院議員でトップ当選を果たし、衆議院議員として活躍したのを最後に政界からも引退した。
(132号)
富山高校人物伝 7
-英文学三兄弟とヘルン文庫-
南 日 恒 太 郎<2回>・ 田 部 隆 次<5回>・ 田 部 重 治<14回>
小泉八雲蔵書が富山にやって来た幸運
小学校既卒業者が受験した、時期外れの明治18年1月の1回生に続いて、新卒業生で9月に入学した2回生の一人が、南日恒太郎である。卒業直前のストライキ首謀者の一人となり、また眼病が激しくなり、恒太郎は金沢の四高再受験を断念し、五年で退学する。以後は独学で、この失意のどん底から這い上がり、国語と後に英語の検定試験に合格する。英語の試験官神田乃武に引き立てられて、神田正則中学・京都の三高・学習院の教授へと出世した。「英文解釈法」を始めとする、いわゆる受験英語で、高等学校などの受験生にとっての、必携の書を多く出した。昭和27年に、昔を懐かしんだ人が、その口語版を出版して、御茶ノ水駅のプラットホーム前に、大きな広告を出していたがさすがに売れなかった。
弟の南日隆次(5回)は、生まれてすぐ養子に出されて、苦労した挙げ句、その後は生家に戻ったが、父と兄に中学受験を強く反対された。運よく、最後は認められたが「南日家で私程、中学に入るのに苦労した者はない。弟達は皆、帝大まで行っているのに」と受懐している。在学中、田部家へ養子に行くが、そこでもつらい目に遭い、中学卒業後に家出をして、東京で勉強することを認めて貰う。早稲田の専門部に3年通った後、文科大学(東京帝大)の専科に入学し、小泉八雲に高く評価された。卒業後、四高から女子学習院に長く務めた。
幼少の頃から身体が弱かった三男の重治(14回)は、大学に入って山登りを始め、山の紀行文(『日本アルプスと秩父巡礼』など)で有名になった。今でも奥秩父の雲取山荘では、7月20日に彼を記念して、山開きを祝っている。(この日は恒太郎の命日でもある。)リュックを担いで、長江の生家によく現われたが、戦時中、紀州の奥地で、風貌から外国人のスパイがきたとして、巡査に捕まったそうである。彼は別の田部家の、養子となった。
この三兄弟の協力の成果が、今日富山大学にある、有名な"ヘルン文庫"である。東京帝大の英文科の外人教師だった小泉八雲は、夏目漱石に押し出される格好で早稲田に移り、その1年後に没する。たまたま田部隆次は住居が近く、色々と夫人の小泉せつさんのお世話をする。後日、小泉八雲全集も編集した。
馬場はる刀自が、高等学校を寄付する。恒太郎は、この校長就任を打診される。恒太郎が逡巡するとき田部隆次から八雲蔵書の話を耳にする。これに先立って、田部井重治は法政大学の新設英文科の教授に就任する。貴重な八雲の蔵書の、安全な保存を望む小泉せつさんとの間を、隆次が取り持ち、法政大学が買い取る話がまとまるが、資金不足のため、話の決着は延び延びになっていた。 たまたま関東大震災で、まだ余震もありそうな時に、この話を聞いた恒太郎は、すぐに話をまとめる。せつ夫人の先約者への配慮、隆次の面子、重治の不満などを乗り越えて、多くの人々の協力で、ヘルン文庫が幸運にも富山にやって来た。
英語教育の3兄弟の母校である富山中学に、一卵性双生児の弟、江上英三(19回)と脇坂雄治(20回)も在籍した。さらに恒太郎の長男、南日実(25回、本校第18代、富山中学校最後の校長)も一学期だけだが在籍している。実の次男で孫にあたり、恒太郎の一字をもらった恒夫(59回)は昭和18-21年に在籍した。実の三男で末っ子の康夫は、昭和21年富山中学最校最後の入学生(64回)となり、学制改革で消滅する富山中学校の最期を父親とともに見届けたのである。
(南日康夫(64回)元筑波大学副学長、富山八雲会会長)
富山大学中央図書館にあるヘルン文庫は、毎月第2,3,4水曜日午後公開しています。
(131号)
富山高校人物伝 6
-郷土の文化創造に貢献-
翁 久允<19回>
ジャーナリストで文学者
翁久允(おきなきゅういん)は明治35年(188)に立山町六郎谷で漢方医の二男として生まれた。明治35年富山中学に入学し、寄宿生活をおくった。校友会組織「文武会」の月刊誌や雄弁会に文才を発揮し、寄宿舎でも文学の会(有終会)に入り、樗牛、蘇峰、鏡花、漱石、紅葉、近松などの作品を友人に語り聞かせていた。3年生(当時は5年制)の1月頃、評判の悪い英語教師の舎監に反抗し糞を床に撒く事件を起こした。新聞にも報じられ知事や県議会を巻き込む大事件となった。生徒・教師に人望があった斉藤八郎先生が職員会議で弁護に立たれたが、首謀でない翁を含め8人が放校処分となった。ただ同窓会名簿には第19回(明治40年)卒業となっている。やむなく兄を頼って東京に出、自由民権運動の女傑で滑川出身の中川幸子が営む私塾「三省学舎」に入った。後に順天中学へ進み地理教師の影響で海外へ興味を抱くようになった。
明治40年(1907)5月に19歳でシアトルに渡り季節労働者やエレベーターボーイなどをしながら苦学し教養を身に付けた。シアトル旭新聞に応募した小説「別れの間」が入選し文才が認められ、現地の邦字新聞に小説や随筆を載せた。日米新聞記者としても活躍し、シアトルで7年、カリフォルニアで10年過ごした。
大正13年(1924)に帰国し朝日新聞社にはいり、ワシントン軍縮会議で日本人特派員などを務めた。その後、菊池寛、田山花袋、鈴木三重吉、泉鏡花、北原白秋、川端康成、直木三十五、竹下夢二らと知り合い随筆や長編小説を書き、帝国文学に小説「丘」「唖の女」などを発表した。
「竹下夢二とアメリカ」
昭和元年(1926)、「週刊朝日」の編集長となり 文壇・画壇との交流を深めていた翁の元へ夢二が訪ねた。目的は翁を頼ってアメリカへわたり人気回復を図ることであった。翁もまたシアトルにいた頃、兄に日本から夢二の絵入り小唄集「三味線草」などを送って貰って以来ファンとなっていた。昭和3年6月、翁は黒部峡谷探勝に43歳の夢二を誘った。 黒部鉄道のトロッコ電車で鐘釣温泉など峡谷美を楽しみ、夜は宇奈月延対寺旅館で宴を開いた。翌日は富山ホテルに泊まり、芸者の絵を描いたり翁の小説「道なき道」の装丁などをした。
昭和6年4月、有島生馬などが発起人となって「竹下夢二・翁久允海外漫遊送別会」が東京で開かれた。画壇や文壇などから200名を超える参加者があった。5月7日、人気に陰りの見える夢二を伴い朝日新聞社の退職金を元にアメリカに渡った。だがアメリカでの夢二は無名の上、世界恐慌の影響もあり作品は全く売れなかった。夢二はモデルがいないと絵が描けない性分に加え、女癖が悪くモデルにも嫌われて展覧会は散々であった。二人は色々な面で衝突し渡米は結局失敗に終わった。
夢多き夢二には一人だけ入籍した女性がいた。高岡工芸学校図画教師の夫に先立たれた岸他万喜である。夢二式美人画の原型となった女性で、そのお骨は呉羽長岡墓地・真国寺にある娘の嫁ぎ先(浅岡家)のお墓に安置されている。他万喜の兄他丑たちゅうは富山中学9回(明治30年)の卒業生でもある。
高志奨学財翁は団を設立
昭和11年(1936)に富山の郷土研究に取り組み、郷土研究誌「高志人」を390号まで刊行した。さらに高志書房をも起こし、翌年には「図説世界史話大成」全11巻を刊行するとともに多くの文学者を富山に招いた。57歳になった昭和20年(1945)に富山に帰り、5年後には富山市安野屋に新居を構え富山の文化創造の中心的役割を担った。昭和28年に県文化功労者表彰を受けた。80歳になった昭和43年には曼荼羅画帳を描いて得た浄財で高志奨学財団を設立し文化発展に寄与した。昭和45年、富山市立図書館新設に際し多くの蔵書を寄贈した。市立図書館正面に翁久允の銅像が建っている。昭和48年に85歳で世を去った。
(加藤淳・富山県水墨美術館顧問、、元本校教諭70回卒)
(130号)
富山高校人物伝 5
-前衛芸術運動の旗手-
瀧口 修造<33回>
絶えず未知の創造的な世界へ
瀧口修造は明治36(1903)年に富山県婦負郡寒江村大塚(現在の富山市大塚)に生まれた。富山中学時代は登山が好きで黒部峡谷で遭難騒ぎを起こしたエピソードがある。慶応義塾大学入学したが、関東大震災に遭い一度退学したものの再入学し、昭和6年(1931)に英文科を卒業した。大学在学中から詩をつくり西脇順三郎に師事しシュルレアリスム(超現実主義)に傾倒するようになった。卒業前年にシュルレアリスムの提唱者で、文通していたアンドレ・ブルトンの「超現実と絵画」を翻訳し、わが国の画家たちに大きな影響を与えた。以後、一貫して前衛芸術運動の推進に努めた。
大正末期から昭和初期にかけて、詩や美術にシュルレアリスムが影響を与え始めた頃、青年の限りない自己解放の夢に動かされ、詩人、美術評論家として活躍しただけでなく、美術映画「北斎」の制作を試みたり、抽象的な美術造形に携わったりした。また、作曲家の武満徹とも親交が深く詩と音楽の融合を目指したり多彩であった。柔和で静かな半面、嫌なことには梃子でも動かぬ頑固一徹な人であった
瀧口修造には詩と美術の区別はない。追い求めたものは強い創造精神の燃焼そのものであった。芸術家としての根本理念は、絶えず自分自身を未知の創造的な世界へ晒し出すことにあった。それは言語という詩に限らず、デカルコマニーと呼ばれる特殊技法を駆使した実験的作品の制作にも及んだ。この作品は県立現代美術館に百点以上も収蔵されている。
慶応義塾大学などから教職の誘いもあったが辞退し前衛芸術にひたすら邁進した。詩画集「妖精の距離」や美術評論集「近代美術」、「ミロ」や「ダリ」の単行本も出すなど、前衛芸術家の中心的役割を担った。とりわけ10歳年上のミロとの親交は、シュルレアリスム運動にひかれはじめると同時に始まった。アメリカの若い画家に影響を与えたミロは、スペインのバルセロナ生まれで20世紀美術の巨匠である。
文通による知人であった二人は、昭和41年(1966)に国立近代美術館での「ミロ展」にミロが来日して以来、固い友情で結ばれるようになった。寡黙で背丈もほぼ似通った二人は共同制作の詩画集「手づくりの諺」を著したりした。特に昭和15年(1940)に瀧口が刊行した著書「ミロ」はミロに関する世界最初の本として価値が高い。二人の交流の軌跡を中心とした作品や遺構が、県立近代美術館に多く収集されていることは、現代美術の流れを知る上で極めて意義深いことである。
戦時下に弾圧を受け活動は中断を余儀なくされたが、戦後は読売新聞に美術時評を担当するとともに、積極的に前衛新人の絵画展を企画開催したほか、昭和26年(1951)には、美術家・音楽家・写真家などのグループ「実験工房」が瀧口の命名によって発足し、若い作家の精神的支柱となった。 昭和33年(1958)にベネチア・ビエンナーレ参加のため渡欧し、ダリ、デュシャン、ブルトン、ミショー等と出会い、特にマルセル・デュシャンの影響を強く受けるようになった。帰国後はユニークな個展を積極的に開催した。45年も前になるが、昭和37年(1962)に「美というもの」と題し、3年生を対象に本校で講演を行っている。 昭和42年、モダニズムの風潮を越えた言葉の極北ともいうべき独自の実験的な刺繍「瀧口修造の詩的実験1927~1937」を刊行したことは、
瀧口は昭和54年(1979)7月1日に75歳で逝去した。富山市大塚の龍江寺にある墓に、デュシャンから送られた言葉「RoseSelavy」が刻まれている。県立近代美術館の建設・作品収集にあたっては、此の瀧口修造の考えが強く反映されていることを付け加えたい。
(加藤淳・富山県水墨美術館顧問、元本校教諭70回卒)
(128号)
富山高校人物伝 4
-今も生徒を見守る胸像の主-
斎藤 八郎 先生
幾万の生徒から敬愛された斎藤八郎翁
富山中学、富山高校120年余の校庭の斎藤先生胸像歴史の中で「人物伝」として欠かすことのできないのは、現在も正面玄関前の芝生にあって生徒を見守る胸像の主、斎藤八郎先生(号は桂堂)である。明治29年(1896)~大正11年(1923)までの26年間富山中学に勤め、漢文・修身、一時は英語も教えた。学識の豊かさと教育にかける情熱、清廉潔白、全身全霊で真摯に生徒に接する姿勢が多くの生徒の心を捉えた。小柄な体躯だったが眼光は炯々として鋭く、白髪に顎鬚が蓄えられた顔は威厳があった。
授業は豊かな漢学、国学、英語の知識を活かして中国・ヨーロッパの地理・歴史も加えて分かり易く、熱の入った講義だった。生徒が下宿を訪ねると、いつもうず高く積まれた書籍のなかで読書する先生の姿があった。どんな生徒にも丁重に応じられた。穏やかであったが、不心得な生徒の言動に対しては厳しく叱責し、その迫力は番長格の生徒たちも震え上がった。時には暴走しようとする生徒に諄々と涙ながらに説諭されることもあった。酒豪で、愛煙家でもあったが、生徒に範を垂れねばと禁酒、禁煙を実行された。校友会組織「文武会」活動の最大の理解者で、演説会などには必ず参加し、生徒の主張を聞くとともに、自らも専門の漢学の話やくだけた歴史講談などを披露した。毎月ポケットマネー50銭を文武会に寄付された。トラブルで解散となった文武会が復活を認められたとき最も喜んだのは斎藤先生だったという。
同窓生にとって斎藤先生との思い出の絆は、卒業式当日、一人一人に贈られた直筆の細字巻物であった。生徒の前途を祈念して「大学」「中庸」など四書五行の中から選んだ文を書写し、卒業生に「餞はなむけ」とされたものである。
先生は同僚からも慕われた。後に名古屋の幼年学校教官になった国文学の塩野新次郎は「先生の高風に親灸し、自らの修養に少なからぬ影響を受け得たことは富山における最大の幸福であった。と述べている。
明治中後期の富山中学では生徒・教師間のトラブルが多く、ストライキ(同盟休校)に発展することもまれではなかった。全国的な風潮であったとはいえ最大の原因は中学制度そのものが未整備で、生徒側にも教師側にも問題が多かった。問題頻発を危惧した富山県議会は、見識高く、経験豊かで実力ある優秀な教師を求めることが緊急だとした。そのため県の大海原書記官が上京して以前から知己であった斎藤先生に富山中学校教師就任を懇望した。
履歴書によると、先生は嘉永2年(1849)の生まれで、本籍は今の神奈川県藤沢市。2歳で父と死別したため新潟の他家に預けられて育った。9歳から青木芯に漢学を学ぶ。母の死後、兄の家に寄宿した。学問のため上京したのは、すでに22歳、そして人生の恩人と慕うことになる広津弘信の書生となる。明治4年(1871)東京日章堂、6年新潟英語学校、8年東京箕作麟祥みつくりりんしょう塾でいずれも英語を学んだ。欧米思想偏重を批判するためにも英語を学ぶ必要があると考えた。15年に内務省図書局に勤務したが、18年からは教育者の道を選び、東京、神奈川の私塾で漢学と英語を教えた。24年には自ら東京に私立格致学舎を設立した。その5年後に富山県に招かれて病妻と一人娘を連れて来富することになった。すでに齢47歳であった。 官立校での教育歴がなかったため最初の身分は助教諭心得、その後教諭心得、死の前日に正教諭となった。就任時の月報は20円だったが 年齢や学者、教育者としての実績からは極めて低い報酬であった。しかし昇給してもその分を赤十字社などへ寄付したと云われている。
斎藤先生の徳を慕う同窓生たちの熱意で、大正6年(1917) 1月、工芸家畑庄吉の手による先生の銅像が建立された。銅製であったため太平洋戦争中に軍需用物資として供出することになり、文展作家須賀良二によって石膏塑像として残された。現在の胸像はその石膏像を元に昭和25年(1950)同窓生有志が資金を出して銅像に復元したものである。
斎藤先生は退職5ヶ月後の大正11年8月18日夜、富山中学に奉じた一生を終えた。『富山日報』は「幾万の生徒から敬慕された斎藤八郎翁逝く」の大見出しで「いける君人子として徳望を一身に集めた元富中の教諭」の死を悼んだ。
(保科齊彦:元富山高校教諭(日本史)
『富中富高百年史』編集者)
注:この文は『富中富高百年史』の富田・保坂担当相当分をもとに執筆した。
なお同書中に「斎藤八郎は幸田露伴の高弟」とあるのは同姓同名による間違いで露伴高弟の斎藤八郎は現在の南砺市井波の人である。
参考文献: 斎藤八郎著『老いの繰言』・『富中富高百年史』・『富中回顧録』・
「富山高校資料館所蔵記録」・「青年倫理学撮訳緒言」・(『文武会誌』6号)
(127号)
富山高校人物伝 3
-富山県最初の大臣-
南 弘<2回>
正義感に満ちた行動力
富山中学校(創校時は富山県中学校と云った。現富山高校の前身)2回生の南弘は、昭和7年(1932)郵便・電信電話業務など郵政と電気・船舶・航空の分野などを司る逓信大臣に就任した。富山県人としては初めての国務大臣である。他には安井藤治、松村謙三も富山中学に在籍したことのある大臣である。
南は富山中学の後、明治22年(1889)9月金沢の第四高等学校に入学、さらに東京帝国大学法科大学政治科(現東京大学法学部)に進み、明治29年卒業後、内閣書記官室庶務課に勤め官僚としてのスタートを切った。41年内閣書記官長となり、国家の機密文書を扱った。大正元年(1912)貴族院勅撰議員、翌年福岡県知事に就任した。同7年民間出身の文部大臣中橋徳五郎を補佐する文部次官となり、高等教育機関の増設と口語文体の普及・常用漢字の制限に着手した。教育水準の向上には複雑難解な国字・国語の改善が前提条件だと考えた。昭和5年(1930)「国語協会」理事長、同9年には国語審議会会長を務めて国語問題の改革に努めた。国語改革は南のライフワークといえよう。同11年に枢密院顧問官になったが、翌年生まれた「厚生省」という名称は漢籍に詳しい南弘が名づけたものである。昭和7年3月台湾総督となったが、同年の五・一五事件直後誕生した斎藤実内閣の逓信大臣に迎えられ、郵政、運輸行政の長として逓信病院の設置、放送協会の改革、逓信記念日制定などを行った。
この年7月、故郷に錦を飾り、生誕地などで祝福を受けた後、太郎丸の母校富山中学校を訪問した。この時のことが雑誌『改造』の「夏日雑筆」と題した文に紹介されている。
「処々の祝賀会を済まして富山へ出て、富山中学に行った。此の中学校は余が学生時代中でもっとも思い出が多いところだ。田中貞吉という校長の指揮の下で雪合戦をやったのもこの学校だ。食後校庭の土塀によりながら学友と共に天下国家を論じ合ったのも此の学校だ。今日『青園』と号しているのもその時代の記念のためである。当時の学友で地下の人となった者も少なくない。特に親友であった南日恒太郎君が先年富山高等学校(注:大正12年創立の旧制高等学校)校長在職中に不慮の災い(注:水泳中の心臓麻痺)に倒れられたことは実に残念に堪えぬ。中学校は暑中休暇中であるにも係わらず横田校長は心を尽くして生徒を集めて余を迎えられた。講堂で三十分ばかり話をして別れを告げた。」
南弘は、明治2年(1869)氷見郡仏生寺村(現氷見市)岩間寛平の二男として生まれた。名を鉄郎と云ったが25歳の時に高岡の旧家南家の養子となってから南弘と改めた。明治19年、当時総曲輪にあった創立2年目の富山中学に入学した。在学中は学業よりも、生徒活動、寄宿舎生活で目立つ存在であった。友人で寄宿舎仲間であった森井周義は地方紙「高志人こしびと」に、岩間鉄郎、後の南弘は極めて読書好きな勉強家であった一方、決意はめったに曲げぬ剛直な行動派であったとして彼が主導した以下のような事件、事柄を記している。(1)東京における皇居移転式の際、奉祝の誠をささげるといって茶話会を開き、授業に出なかったため1週間の停学処分を受けた。(2)明治21年、大沢野で挙行された歩兵第7連隊の「連隊旗」先導の堂々たる行進を見学して感動、南日恒太郎らとともに「富山中学校校旗」新調を、発議し翌年実現させた。(3)県議会で中学校校長の俸給を減額する案が提出されようとしたとき、良い教師を集めるには良い待遇が必要だとして減給反対の署名活動を行い、島田孝之県会議長に建議書を提出し認めさせた。(4)明治22年暗殺された文部大臣森有礼追悼式参列に富山日枝神社に向かう途中、師範学校生と衝突し、これをきっかけとして空前のストライキを起こした。
行き過ぎもあった彼の正義感に満ちた行動力は、やがて国政という大きな舞台で輝きを増した。殊に文教重視の学者的官僚政治家として評価されるようになったが、これは幾多の経験と良き人脈との出会い、多くの書籍から得た知識などに裏付けされたものであった。書斎では読書三昧の「静」、公務では積極果敢な「動」の人であった。
昭和21年(1946)敗戦直後の食糧緊急措置対策法案審議中に急逝した。まさに壮烈といえる最後であった。
保科齊彦:元本校教諭(日本史)
『富中富高百年史』編集者)
参考文献:南弘先生顕彰会編『南弘先生 人と業績』、『富山県議会史』、『富中富高百年史』、
「富山高校資料館所蔵記録」、通信史研究所編『逓信大臣列伝』、『富中回顧録』
(126号)
富山高校人物伝 2
-近代医学研究の先導者-
石川 日出鶴丸<8回>
他力も亦自力なり。多くの良い弟子を育て彼らと研究を共にする。
およそ研究室に出入りする者は五訓を肝要とす。運・金・鈍・銀・賢是なり。感情は鋭なること勿れ。鈍なれば欺かず。難易によって移らず。些の不平なし。根は興味と責任と健康とによりて生ず。賢は小なるべからず。大賢は愚に似たり。他力も亦自力なり。金は足るを知る。運は天と我とにあり至誠以てを貫くべし。(大学定年退職時に門下生に与えた「五訓」)
石川日出鶴丸は明治11年(1878)、射水市小杉町白石の医者の5男として生まれた。石川家は代々医を営む名家であり、とりわけ祖父の良逸は、華岡青洲の門をたたいて学んだ名医であった。日出鶴丸は明治24年富山県尋常中学校(現富山高等学校)に入学した。この第8回同期生は、石川大生理学を確立した石川日出鶴丸、明治文学史著した岩城準太郎、俳文学を樹立した志田義秀など多士済々である。石川は第四高等学校(現金沢大学)に進み、さらに明治32年(1899)に東京帝国大学医学部に進んだ。卒業の翌年の明治37年(1904)に京都帝国大学医学部生理学研究室に入り、助手から助教授へと歩を進めた。そして明治41年(1908年)欧州に留学した。
4年間の留学中、ロシアのイワノフ教授から「人工授精」、ロシアのパブロフ教授から「条件反射」、ドイツのフェルボルン教授とイギリスのシェリントン教授から「生理学」を学んだ。石川は大正2年(1913年)日本で最初の人工授精を馬で実施してみごとに成功した。また、日本の条件反射研究は石川から始まった。帰国の際、シェリントン教授は「人間一人が一生涯かけて研究する量はしれたものだ。だから多くの良い弟子を育てて彼らと研究を共にした場合、幾十倍もの研究業績を上げることができる」という言葉をおくった。石川はこの教訓に従って多くの研究生を育成して「石川大生理学」を確立するとともに、その門下生から21名もの医学部教授を輩出した。とにもかくにも石川の学問に対する愛情と情熱は極めて大きなものであった。ときにはだれかれの別なく激しく論じ、周囲を辟易させたが、そこには学閥などへの手加減など微塵もなかった。この石川の全人格的研究活動を慕って、彼のもとに多くの医学生が集まった。実はこの一徹な人間的風格は厚い信仰心によっても支えられており、今法然とも称されていた。このことは、上記の「五訓」からも十分にうかがわれる。
ここで、石川の温かい人間性を紹介してみたい。27歳で未亡人となった姉は、借金しながら息子を医者に育て上げた。その息子が応召されて中国の病院にいた時、寂しく家で病の床に臥していた。このことを知った石川は、即座に大学を1カ月休んで姉のもとに馳せ参じた。汚物の始末に至るまで自分の手で行い、姉の看病に没頭した。後にこのことを知った息子の三辺義人(39回卒・富山市民病院創設者)は、滂沱と涙を流し母への哀悼と石川への感謝は生涯忘れてはならないと決意したのであった。
石川は、自然の理を求め・究めるも、自然の理に忠実に従わなければならないという信条のもとで、医学研究に邁進しつづけ、69歳の生涯を終えた。
(124号)
富山高校人物伝 1
-校歌を作った人-
大島 文雄<32回>
温容な心で学びの庭と学びの徒の歌を作る。
本校の校歌は、作詞は大島文雄、作曲は山田耕筰。作詞者の大島は明治35年(1902)富山市覚中町に生まれた。大正9年富山中学を卒業し、第四高等学校(現金沢大学)に入学した。高校時代に富山中学出身者たちを中心として同人誌『ふるさと』が刊行され、大島は随筆・短歌・挿絵・表紙絵などを執筆した。同人は中学2年先輩の大間知篤三をはじめ、同輩の杉山産七・高安周吉・中井精一等多彩な顔ぶれであった。大島はまた『四高短歌会』にも参加し、中野重治とも親交があった。やがてこのように培われた文学的素養が大島をして東京大学文学部国文科へとすすませたのであった。
卒業を間近にひかえた大正15年(1926)3月、大島は小学校以来の親友中井と大学の構内で出会った。大島は「間もなく郷里富山の高校で教鞭をとることになるが、自分のようなものに教えることが出来るだろうか」と真剣に語りかけた。瞬時戸惑を感じながらも、中井は「教えることは学ぶことではないか。元気を出して頑張ってくれたまえ」と励まし、大島の真面目な顔を見て安心したと、弔辞の中で中井は切々と語っている。大島の謙虚な人柄がうかがわれる話である。そして、昭和2年旧制富山高等学校に赴任して以来、富山大学・富山女子短期大学・富山医科薬科大学と、大島は生涯の大半にわたってひたすら高等教育に携わってきた。
ところで、教え子や関係者からの要望によって、大島は校歌や会社社歌等百編以上も作詞した。中でも母校の後身本校の校歌の作詞は、大島にとっては思いで深いものであった。当時の校長岩田栄治は、創立70周年を期に、校名変更と校歌・校旗制定とを念願し、校歌の作詞を中学3年先輩の大島に依頼した。伝統ある母校の作詞など荷が重いと即座に思った。さらに作曲を山田耕筰に依頼して「日本一の校歌を作りたい」という岩田の意気込みを知ってかたく辞退した。しかし、中学同期の富川保太郎・常田政信等の強い勧めによって引き受けざるを得なかった。山田に作曲の興味を失わせない作詞を、と思うとやり切れない気持ちになったが、引き受けた以上は、母校の威容・若者の学ぶ姿・郷土の自然の力強さなどを感動をこめて歌おうと固く心に誓った。渾身の力を振り絞って一カ月ほどで作り上げた。当時の音楽教師大間知初枝は、恩師の山田から「品格のある校歌だ」と一言添えて楽譜を手渡された時、感動と感謝の念で言葉が出なかったと大島に語った。このことを聞いて、山田が常日ごろ「校歌の歌詞でポエジーのあるものは北原白秋のものぐらいだ」と言っていたことを思い出し、予想外の過分な言葉と受け取って安堵の胸をなでおろした。
昭和47年(1972)、長年の教育界における功績により勲二等瑞宝章を受章し、昭和54年(1979)、富山市名誉市民に推挙された。誠実な心で万葉集や源氏物語を教え、清澄な心で自然や文化に接し、そして温容な心で学びの庭と学びの徒の歌をつくった。これらに精魂を傾けた大島は平成3年(1991)この世を去った。享年89歳。その法名は『釈教薫』、何と人柄にふさわしい名号であることか。
(123号)