富山高校人物伝

富山高校人物伝 24

ブラジル移民のリーダー

松 沢 謙 二<30回>


 松沢謙二は明治34年(1901)、金沢市生まれ。富山中学校を経て、大正11年(1922)、東京大学農学部農業実習科を卒業。農商務省農事試験場、長野県立南安曇農学校に勤め、県立福野農学校教諭となった。
ブラジル移民計画
 1920年代の日本は人口・食糧問題が深刻であった。それらを解決し、農業経営難を緩和するための施策として海外移民が検討され、実行に移されていた。
大正15年(1926)、富山県知事白上佑吉が、ブラジルでの富山村建設を計画し、サンパウロ州アリアンサに3250ヘクタールの土地を購入した。次の白根竹介知事もこの方針を継続し、移民を募集する。そして、村民のリーダー、農業技術指導者として選ばれたのが、当時27歳の松沢だった。生徒からは温厚・実直と評された松沢は、日本の海外進出の必要性を感じており、ブラジル行を早くから希望していた。
 昭和2年(1927)、富山県によって第三アリアンサ富山村が開設されると、松沢は他の三家族と共にサントス丸に乗り込んだ。松沢は富山村創設先発隊長として、妻玉喜とともにブラジルへと出発したが、これが見送りの人々との永遠の別れとなった。
苦難と希望のアリアンサ入植
 当時のブラジルは奴隷解放からわずか20年。他の地域の日本移民には、奴隷の代替として酷使されていた例もあった。しかし、アリアンサへの入植は、ブラジル永住、さらにはブラジルとともに発展、

「松沢謙二ロード」と命名された第1~第3アリアンサまでの道
「共生」をめざすという理想に燃えたものであった。
 富山県からの入植者が入った第三アリアンサは、移民に先行していた信濃海外移民協会と富山海外移民協会が土地を購入し、開拓した村である。入植当初は大きな苦難を伴い、原生林に、持参した天幕二基を張り、掘立小屋が出来るまでの一カ月を過ごした。この時のマラリアによる高熱と過酷な労働は、決して強くない松沢の体を蝕んだ。
 松沢は開設以来、信濃との協調に心がけた。さらに、後から来た移民たちの不満を聞き、互助を説いた。そういった松沢の人格に服したからか、アリアンサ内で富山村は最も安定した移住地であるといわれた。荒野からの開墾で資金繰りに苦労する中、コーヒー・トウモロコシ・ジャガイモ・米・バナナなどが植え付けられ、次第に村としての体裁を整えていった。 また、日本力行会の幹事であった宮尾厚とは、もと教師という共通項から、青年のための補修学校、子どもたちのための日本語学校創設にも関わり、専門分野を教授した。また、文化事業にも熱心で、第三アリアンサ図書館には日本から書籍が数多く寄贈された。
資金不足に翻弄される
 海外移住組合法の成立を受けて、昭和3年(1928)、富山県海外移住組合が発足すると、第三アリアンサ富山村の運営権が富山県に移され、松沢はその主任理事となった。資金不足は、入植当時からの慢性的な問題であったが、松沢はその調達でますます心労を重ねることになる。「金さえあれば問題は解決出来る」と訴えるが、県からは送金が全くない。絶望から辞表を幾度となく提出するも、了承されなかった。
 昭和6年(1931)には大降霜のため、コーヒーに大打撃があり、その二年後、松沢は富山村の移住地事務所の閉鎖を宣言する。万策尽きた松沢は公務を去り、第三アリアンサの奥に借地して一農民となった。
清貧の晩年
 妻玉喜と、5人の子供に恵まれたが、昭和4年(1929)に生まれた長男には、貧と名付けた。「清貧にして正しく生きること」を望んでである。松沢自身も、生涯清貧に甘んじ、後年は長く病床にあったが、昭和38年(1963)10月、入植直後のマラリアが再発し、ブラジルで生涯を閉じた。享年62。文字通り、移住地の諸問題を第一線で引き受けた一生だった。
現在も続くアリアンサと富山県のつながり
 松沢の播いた種は、アリアンサと富山県との懸け橋として成長している。昭和53年(1978)以来、富山県は第三アリアンサ富山村日本語学校へ日本語指導教員を派遣しているが、これは現地からの強い要望に応えてのものである。平成27年度までに19名が派遣されており、県単位での教員派遣事業としては、ブラジル内で最も長い。近隣のミランドポリス市にも、平成5年(1993)以来、高岡市から教員が派遣されている。
 また、本校同窓生には、昭和37年(1962)、卒業と同時にブラジルに乗り込んだ「富山高校三人組」がいる。林忠行・浅野隆史・根塚弘(74回)である。彼らは、当時、高度経済成長期にあった日本にありながら、在校時からブラジル移住の意志を固め、周囲を説得した。ブラジルではそれぞれ起業し、成功している。根塚氏は現在ブラジル富山県人会顧問である。
(川上 徹)

参考文献: 『 第三アリアンサ創設五十周年史』・第三アリアンサ編集委員会・1979年。
『富山県南米移民史』・富山県南米協会・1989年。
『ブラジル日本移民百年の軌跡』・丸山浩明・明石書店・2010年。
『共生の大地アリアンサ』・木村快・2013年。
資料・写真提供: 富山県南米協会。谷英志しらとり支援学校教諭(第三アリアンサ富山村日本語学校派遣)。
 


富山高校人物伝 23

人間味あふれる法曹三者

高 木 常 七<23回>

ユニークな人柄
 『北日本新聞』昭和33年6月28日の紙面には、「郷土から二人の最高裁判事出す」として、石坂修一(父は参議院議員・石坂豊一)と高木常七が取り上げられている。
二人はともに富山中学校出身(高木23回、石坂25回)である。東大法学部卒の石坂は「事実を正直にながめてきた」気骨漢であり、東京地裁時の河合栄治郎事件の無罪判決に代表される、イデオロギーに左右されない判決を行った人物である。広島・名古屋・大阪の高裁長官をへて最高裁判 事となった。
 一方、高木常七の紹介文は、かなり変わっている。広くもない客間には趣味で集めた陶器と仏像、郷土色豊かなおもちゃがあふれかえっていること、「人間 はどちらかといえば、あほうの方がいい。あんまり利口になると、かえって不幸だから」との発言、法廷での和やかな雰囲気や、噛んで含めるような判決 がしばしば被告の感涙をよんでいること、早稲田大学卒業後、検事・弁護士・判事の「法曹三者」をすべて経験したが、判事になる時には迷い、浅草観音 のおみくじが吉と出たから転身を決めたなどのエピソードが書かれている。
 最高裁判事として、彼は4年9か月余の在任の間、松川事件、砂川事件などの重大事件を手掛けた。特に松川事件では一審、二審の死刑を含む有罪判決を 破棄し、高裁へ差戻す意見に同調した。これはのちの再上告の棄却にもつながる重要な判決となった。
「その頃の思い出」―忘れ得ぬ師との出会い―
 高木常七は、明治26年(1893)3月15日、富山市清水町に生まれた。富山中学校時代は自宅から3、40分かけて通学し、五年間無欠席だった。「病気に かからぬよう心掛け、通学に支障のない病気ならば、薬瓶を下げて通った」という。四年生の時、皇太子殿下(のちの大正天皇)の学校行啓があり、優秀な 生徒献上作品の中に彼の図画も選ばれている。
 この富山中学校時代には高木にとって、忘れ得ぬ師との出会いがあった。
 一人は斎藤八郎。その高潔な人格にひかれた高木は、五年生の時、斎藤に直接願い出て、同級生と毎週一回、斎藤宅で「孟子」の講義を受けた。「座 布団なしの畳の上に素足で座り、膝を崩さず一時間ばかりの講義は苦しみ」でもあったとのちに高木は語っているが、爛々として輝く眼と、さびのある鋭 い口調で一句一句説き進める斎藤の講義が、彼の人生に大きな影響を与えたことは間違いない。
 そして高木が深く傾倒し、生涯にわたり交流を続けたのが国語担当の塩野新次郎であった。塩野は福井県出身で、富山中学校在任わずか3年で名古屋幼 年学校教官に転じたが、闊達な口調、誠実な指導で多くの生徒の信望を集めた。転任後も高木は原稿を書くたびに名古屋の塩野宅に送り、塩野も懇切丁 寧に添削をした。俳句に傾倒しかけた高木に「まずは勉学が大切」と叱咤したこともあった。大正5年(1916)に高木が早稲田大学英法科を卒業し、その後、 検事・弁護士を経て昭和21年2月に静岡地方裁判所長となった時、塩野はその新聞記事を見て真っ先に喜びの手紙を高木に送った。高木は常に気にかけて もらっていたことを改めて感じ、涙を流したという。
後輩たちへ
 昭和40年(1965)10月、「創校80周年式典」及び記念行事が開催され、講師として招かれた高木は、全校生徒を前に、「理屈と道理について」と題し講演 を行った。その冒頭で当時の校長が本校出身であることに触れ、「自分の出た学校の自分の後輩を教える。これは非常にありがたいことだと思うんです。」 と語りはじめる高木。この講演は彼にとってこれからを担う後輩たちへの「授業」であったのかも知れない。難しい用語を控え、アパートの貼り紙をめぐ るエピソードから話を起こす。『論語』に書かれている孔子の言動に「法律家」的な面があることを紹介し、現行の刑法や民法の話と結びつけてみる。さ らに、法律の二つの解釈(文理解釈と論理解釈)について、小説の中の宮本武蔵を登場させて語らせる。こうした彼の持つ豊かな知識と巧みな話術が生徒た ちを惹きつけたであろうことは、講演記録から十分にうかがわれる。
 この年の春、長年の功績が認められ、勲一等瑞宝章を賜った高木は、富高同窓会会報に寄稿した。彼は、中国の『戦国策』にある物語「死馬の骨」に なぞらえ、これは受章に値しない私が受けることで、もっと優れた人間が相次いで現れるであろう「深謀遠慮」と解釈し、「あっさり」拝受したと語る。ど んな時でも常に自分のスタイルを貫く高木であった。その10年後、彼は82歳で静かにこの世を去った。
(裏野 哲行)

参考文献: 『 富中富高百年史』。
『富中回顧録』(1950・10)の中の高木常七「その頃の思い出」。
『富山県立富山高等学校同窓会会報』第14号(1965・8)の巻頭に「死馬の骨」寄稿。
『むつみ23号』(1965・11)「創立80周年記念講演〝理屈と道理について〟」講演記録


富山高校人物伝 22

高岡市の産業基盤を築く

木 津 太 郎 平(清太郎)<6回>

 木津太郎平(清太郎)は、明治8年(1875)、高岡市上川原町の廻船問屋木津家に生まれた。父五代目太郎平は、高岡共立銀行を設立し、高岡商業会 議所三代目会頭を務め、大正・昭和にかけて高岡政財界の御三家(木津・菅野・荒井)の地位を固めた。
 清太郎は、中田清兵衛(徳次郎)と同じ明治27年に富山中学校を卒業。28年12月に志願兵となって入営し、除隊後33年に25歳の若さで高岡米穀外四 品取引所理事となった。その後、富山県貿易協会常議員・同幹事、36年には急死した父の跡を継いで六代目太郎平を襲名し、高岡貯金銀行取締役に 就いた。37年には、菅野傳右衛門、荒井荘藏とともに高岡電燈の設立に参加、取締役に就任したが、日露戦争旅順攻囲戦で消耗した兵力の補充に 自ら応召、奉天会戦に従軍した。
 日本の産業革命期には地方商人が地域経済の成長を支えたが、太郎平もまたその一人で、積極的に新しい産業の立ち上げに投資し、経営にも参加 した。祖母が高峰譲吉の伯母いつであったことから、明治27年にアメリカでタカジアスターゼの事業化に成功した高峰から多くの薫陶を受けた。41 年には高峰が設立した富山県で初めての化学工業北陸人造肥料の設立に参加し、大正8年(1919)には高峰がアメリカのアルコア社と合弁で設立し た東洋アルミナムにも参画した。現在の黒部ダム(黒四)の地点に高さ約151.5mのダムを造り、そこで発生する電力で高岡銅器の技術を生かしてア ルミ工業を興そうという構想で、大正10年には発電所建設の資材運搬のための黒部鉄道の建設も始まった。東洋アルミナムは、高峰の急逝で頓挫し たが、発電所建設工事は日本電力によって継承された。木津は高岡をアルミの産地にという高峰の遺志を引き継ぎ、昭和18年(1943)に高岡のアルミ 加工業者を統合して北陸軽金属工業を設立し、社長に就任してアルミ産業の存続に力を注いだ。
 また、明治40年には高岡商業会議所会頭に就任し、45年4月に「高岡製産品評会」を開催。以後毎年開催して、市の産業、とくに伝統産業の品質 向上に資するところが大きかったという。対岸貿易振興にも情熱を燃やし、明治34年に単身ウラジオストックを視察。その経験を生かして44年、 伏木-浦塩間命令航路に関する意見書」を政府に提出して、当時脚光を浴びていた大陸との定期航路開設にむけた積極的な運動を展開した。ま た、大正9年には高岡銀行の取締役、15年には頭取となって実業界で確固たる地位を築き、ほかにも浅野総一郎とともに設立した伏木板紙、山田昌 作に呼応して参画した日本海側初の民間ドック日本海船渠など、地域内外に構築した重層的なネットワークを基に、地域経済活性化に努めた。
 しかし、すべてが順調だったわけではない。義弟の菅野傳右衛門が第一次世界大戦の好況にのって興した高岡鉄工所の経営を引き継いだものの、 顧客の帝政ロシアが革命によって消滅し、もっていたルーブル紙幣が紙くずとなって破綻に追い込まれた。また、氷見市出身の浅野総一郎が計画し た庄川水力電気に発起人として参加したが、流木権を主張する住民との間に庄川流木争議が発生し、全国的な問題となった。さらに、昭和恐慌の 影響で自身も破産に追い込まれ、家財道具・農地・株式等いっさいを整理する憂き目にもあった。 
 木津は政治にも携わった。明治45年に市政団体の要請を受けて衆議院議員に立候補、37歳の若さで当選したが、政党内の争いに絶望して大正4年に 政界から引退し、「政治と絶縁」した。昭和13年に至って、派閥争いで混乱した高岡市政の浄化を懇請され、第13代高岡市長に就任、20年まで市 長を務めた。市長時代には、日露戦争で受けた金鵄勲章の年金を基金に、出征兵士の借財を肩代わりし、弔慰金も贈っていたという徳望の人でも あった。
(森田弘美)

参考文献: 『高岡商工会議所百年史』高岡商工会議所・1997年。
『越中の群像:富山県百年の軌跡』桂書房・1984年。
『人的事業体系・電力編』松下伝吉・中外産業調査会・1939年。
『越中人物誌』越中人物誌刊行会・1941年。


富山高校人物伝 21

-日本社会問題の先駆者-

横 山 源之助<1回>

 富山の滑川は、大正7(1918)年に米騒動の発祥地として知られる歴史に残る土地であるが、政論家でも実業家でもない魚津生まれの横山源之助を知る人は少ない。

 日本経済学の古典を挙げるとすれば、広い視野で古代から幕末までの歴史を、文明開化史として叙述し、明治10年.15(1877.82)年に刊行した「日本開化小史」(田口卯吉)、明治32(1899)年刊行の「日本の下層社会」(横山源之助)、大正5(1916)年刊行で人道主義の立場から、当時社会問題化していた貧乏を取り上げ衝撃を与えた「貧乏物語」(河上肇)であろう。

 横山源之助の「日本の下層社会」は、明治期における下積みの人々(農民、職人、女工、鉄工夫、土方、人足等)の生活の様子を、日本で初めて明らかにし、総合的に研究した力作であり、昭和24年に岩波文庫から復刻出版され、平成11年まで47版を重ねる名著である。この研究は「イギリス労働階級の状態」(エンゲルス)、日本の紡績工場で働く女子の、苛酷な労働条件と虐待の実態を描いた、大正14年刊行の「女工哀史」(細井喜久藏)にも通じる。  

 横山源之助は私生児で捨て子となり、魚津金屋町の腕の良い左官職人、横山伝兵衛の養子となった。魚津明理小学校(大町小学校)を卒業した11歳の時、魚津の素封家で神明町の油・醤油問屋を営む沢田家に奉公した。沢田家の理解と源之助の優れた才によって、明治18(1885)年、本県最初の富山中学(富山高校)の第一期生として入学した。幼少から大志を抱き、何とか日本人の為になろうとしていた。そんな彼は田舎の中学生として甘んずることなく、一年を終了すると、同郷の岩崎文太郎・五島茂と星雲の志を抱いて東京へ出奔(郷里を逃げ)し、英吉利法律学校(現中央大学)に入学し弁護士を目指した。


二葉亭四迷との出会い社会問題研究へ
 傾倒源之助は明治24年、5年の弁護士試験に失敗し暗澹たる日々を過ごしていた。その頃、東京外国語学校ロシア語科を出て、ロシア社会主義の影響を受け、官報局(外国情報の翻訳や官報の編集)に勤務しながら、「浮き雲」(同20年.23年発表)、「めぐりあい」(同21年)など、日本初の言文一致体小説を書き、近代写実小説の先駆者となった二葉亭四迷と出会った。またそこに集まった松原岩五郎や内田魯庵などの影響もあり、社会問題研究に傾倒していった。機械文明、資本主義化が著しく進んだ状況下でもあった。

 二葉亭四迷の、人間の問題は社会の問題と深く関わらねばならぬとする考えは、源之助に現実に立ち向かう厳しい姿勢を伝え、弱者や貧しい者への純粋な気持ちを、リアルな記録文学へと誘った。二葉亭は「文学は男子一生の仕事にたらず」とも述べている。
 明治27年(1894).32年にかけて横浜毎日新聞社(現毎日新聞社とは別)に入社し、社会問題の探訪記事を書き続けた。明治34年頃から海外移民に関心を持つようになり、貧民・労働者救済の途として海外移住を有力な手段と考えるようになった。特にブラジル移民に関心を持ち、自ら移民事情調査に9カ月間も渡航し、斯界の権威者となり、各階層の全貌が初めて明らかにされた。尽きない人間愛によって、虐げられた状況を生き生きと描きだした。ある時は、東京の貧民窟に何日も身を委ね、大道芸人、車夫、日雇い人足の生活を、多角的に捉え世に訴えた。下積みの人々の側に立った姿勢を貫き、桐生・足利の機織り企業を訪ね、女工の痛々しい境遇を記録し、関西のマッチ工場の工員、鉄工所の労働状況を精査し、郷里富山では小作人の貧苦の様子を描きだした。大正4年(1915)6月、魚津の養父亡き後、上京していた家族を養う負担と、腺(せん)病(びょう)質(しつ)という病の中で、45歳で夭折した。

「日本の下層社会」のほか、「内地雑居後の日本」(昭和29年)、「織工事情」(同56年)が岩波文庫から刊行されている。また魚津市新金屋公園に顕彰碑(同39年)が建立されている。

(加藤 淳)


富山高校人物伝 20

-全国の国分寺跡・国分尼寺址を最初に踏査した歴史家-

堀井 三友<16回>

まことに本村の如きは、地理的に、人文的に、はたまた社会的見地よりして早晩いづれか、あに市編入を見ずして止むべけんや。関係各位の助言、あるいはさもあらん、しかれども唐突なる村態の変革を思ひ、安からぬ民心の衝動を思へば、卒然として決すべきにあらず。むしろ悲愴なる心懐を抱きて、陰にこれを村内公職ならびに有志に告げて、もってこれに善処せんことを期す。
 本文は、昭和10年(1935)3月25日付の奥田村報・合併記念号の巻頭言の一節である。筆者は堀井三友。現況を切々と説き、将来を堅実に期したこの文章は、説得力抜群の名文である。

 堀井三友は、明治18年(1885)生まれ。父は奥田村長を二度も務めた人。母は南日恒太郎の長姉。明治37年(1904)富山中学校(現県立富山高等学校)を卒業し、早稲田大学文学部に進んだ。学生時代は、文学・美学・美術関係の書を耽読した。ワイルドの小説やオイケンの人生哲学等を翻訳して地方紙などに掲載した。叔父恒太郎の影響によるものか。さらに奈良の名刹を歴訪して「仏像めぐり」を執筆した。続いて郷土研究誌『高志人』に「越中仏像礼賛」を66回も連載した。例えば、三友の鋭敏な鑑識眼によって発見・鑑賞された南砺の安居寺の聖観音像は重文に指定されるにまで至った。昭和5年(1930)には、富山県史跡名勝天然記念物調査委員や帝国美術院付属研究所員を委嘱された。翌年には富山郷土研究会の創設に参加し、いよいよ古仏像や古美術の調査のための全国行脚を本格的に始めた。

 ところが、この学究の徒の三友が昭和9年(1934)2月5日、奥田村最後の村長に推された。三友の篤実な人望と父が二度も村長を務めた奥田村への報謝の念とが彼をして村長を引き受ける決意をさせたのであろう。合併反対者への説得、合併条件の整備、県知事や市長との交渉など翌10年3月31日まで村長としての激務に没頭した。この間の心境を表出したのが上記の文章である。

村長の職を終えた昭和11年(1936)には、越中史跡古美術調査会を創設して、学究の徒として再出発した。この会の第一回の調査が越中の国分寺址の調査であった。高岡市伏木一の宮字国文堂にある真言宗の薬師堂の古仏像が国分寺の遺物であることを察知し、さらにその付近を発掘して古瓦などを発見して、この地に国分寺があったと三友は確信したのである。この調査研究を『高志人』昭和13年5月号に詳細に発表した。

これを機に、全国の国分寺址・国分尼寺址調査に改めて着手した。三友は、ドイツ製の写真機や測量器具を新たに購入して徹底的に実地踏査を行い、その研究成果を世に問う決意のもと、まっしぐらに歩を進めた。

いよいよ「国分寺の研究」の稿が成った時、三友は病の床についてしまった。しかし、病床の中ながらも、古瓦の写真・寺址付近の地図・国分寺、国分尼寺の復原図などの整理に夢中になった。どうにか公刊される運びとなり、その序文の中には「自分は畢生の力をこの書に傾け盡したおもひがある」という文句があったとのこと。世の中はむごいもの、この書の刊行を見ないで、三友は昭和17年(1942)5月31日癌のため不帰の客となってしまった。その上、戦火のため原稿も印刷途上のものも烏有に帰してしまった。息子に先立たれた母は、次のように述懐している。
 近辺の家はみな瓦葺きなのに、我が家だけは瓦屋根に葺き替えていないことを何度も注意しても、ハイと返事するが「研究費が要るので」と申して、瓦屋根を見ないで先立ってしまいました。困った息子だと悲しく思い出しながらも、学問好きな南日家の血を引いている息子の姿を温かく思い出したのではなかろうか。

 世の中も落ち着き始めた昭和25,6年ごろから、故人の研究を懐かしむ声があちこちから上がるようになった。幸いにも草稿と備忘録とが残存していたので、原田淑人・石田茂作・駒井和愛・安藤更生・島田正郎・赤間義洋・堀井乾三からなる「堀井三友遺著刊行委員会」が設置されて、昭和31年(1956)11月20日、『堀井三友著「国分寺址之研究」』が上梓された。さらに翌32年11月1日には、三友の肖像顕彰碑が堀井家の邸内に建立された。奢らず、焦らず、生涯学び・究め続けた堀井三友の人生と、学界の堅固な礎石であり続けているこの先輩の業績に改めて注目したいものである。

神島達郎(66回卒) 


富山高校人物伝 19

-司法権の独立に貢献した最後の大審判長-

細 野 長 良

 細野長良は、富山市相生町に細野長元の次男として生まれた。明治31(1898)年に富山中学校を中退し、同35年同校補修科入学後、9月には第六高等学校に入学、同41年京都帝国大学独法科を卒業し名古屋地方裁判所に勤務し、裁判官としてのスタートをきった。細野は富山藩士の家に生まれたが、若い頃は貧しかったため、実業家の金岡又左衛門から資金援助を受け、苦学を重ねた。昭和4(1929)年6月13日、就学の恩人金岡又左衛門の葬儀に出席し、金岡家奨学出身総代 大審院判事 細野長良として弔辞奉呈している。

昭和21(1946)年2月1日、細野長良は最後の大審院長に就任した。その後、新憲法施行に際して最高裁判所長官に就くことが期待されていたが、人事をめぐる法曹界内部の対立などのため細野長良の最高裁判所長官就任の夢は果たせなかった。しかし、戦後、GHQで共に作業に加わったオプラー氏は、細野の葬儀に際して、弔辞のなかで細野の勇気、精力・誠実さについて触れ「細野が日本の司法権の独立に貢献したことは長く歴史に残ると確信する」と。

 ところで、こうした裁判官細野の正義を貫くための勇気と自信はどのように育まれたものであろうか。一つに北陸人らしい忍耐づよさ、二つには、ドイツ・オーストラリアに留学や法官として4年間(大正9年~)イギリスでの勤務など海外留学により、イギリス流の個人と自由の尊重を身につけたこと、そして、才能と身分に恵まれながらも経済的に奨学資金に頼らなければならない境遇により、その視線を民衆や弱者に向け、その実現のために「司法の独立」を実現する必要があると考えていたことなどが挙げられる。

 細野長良は、任官競争に敗れ、都下吉祥寺で悲運の生涯を終えたのは昭和25(1950)年正月1日であった。旧憲法下での最後の大審院長(現在の最高裁判所長官)であり、行政からの司法権の独立を実現させた。

司法権の独立を実現すべく二つのエピソード
 細野の司法権の独立の強い思いとは、遠く明治の頃からの問題となっていた「司法権の独立」をかかげることであった。裁判所が政府や軍部の支配下に置かれる状況にあった戦前、戦中から司法の独立を訴え続けた、細野の何者にも屈しない正義を貫く姿勢のなかで当時の法曹界でも讃えられた二つの「事件」を紹介する。

 一つには、戦局激しい昭和19(1944)年春、東条英機首相は全国裁判所長官合同会議で演説、裁判官の自由主義的傾向を痛烈に非難し、「諸君には特別の覚悟が必要だ。これに応じなければ非常の措置をとる用意がある。分かったか」と強言した。これに反発して、広島控訴院長であった細野長良は「内閣総理大臣は、我が国に於ける司法を監督すべき機関に有らず、…陛下の名に於いて為す裁判に対し、行政機関より批判又は示唆を加うる如きは、帝国憲法の厳として存する限り断じて為し能はざる所なり…」として首相と法相に抗議文を送りつけた。軍政下では命がけの勇気ある行動だったとして讃えられた。

 また、天皇が東京霞ヶ関の大審院に行幸した時、司法省が綿密な計画を立て、司法大臣が天皇を先導して大審院庁舎を案内するということであったが、大審院判事であった細野の強硬な反対論で司法省の計画そのものが御破算となったことがある。「天皇が行幸されるのは大審院であって司法省ではない。大審院長が先導申し上げるべきで司法省の出る幕ではない。」正義派らしい細野の言葉である。その後、細野と司法省との間に確執が残った。

主な参考文献  
(山本裕司『最高裁物語』・日本評論社)  
(金岡又左衛門翁追悼会編『金岡又左衛門翁』)  
(『越中人譚』第十八号・株式会社チューリップテレビ)  
米原 寛(73回)


富山高校人物伝 18

-少年期から恋した創作 ‐多彩なジャンルで開花‐道半ばで逝く-

久世 光彦<66回>

 2006年、70才で亡くなった久世光彦は、1935年東京に生まれ、幼年時代を阿佐ヶ谷で過ごした。小学生時代は父の勤務の関係で5回も転居を繰り返し、1945年7月父方の家のある富山へ疎開した。堀川小学校・富山大学附属中学校・富山高校を出て東京大学文学部へ進み、1960年TBSに入社。2年後、ドラマ「パパだまってて」をデビュー作品として演出家の道を歩む。家族もの、文学作品、時代劇とジャンルは広く、中でも「寺内貫太郎一家」「時間ですよ」は最高視聴率30%を超えるテレビドラマ黄金時代を築きあげた。

 手がけたテレビドラマは141本を数え、「女正月「聖なる春」で芸術選奨文部大臣賞を2回受けた。50才頃からエッセイや評論にも及び、『昭和幻燈館』や『ニホンゴキトク』などはノスタルジーに満ちている。小説は『蝶とヒットラー』でドゥマゴ文学賞、『一九三四年冬-乱歩』で山本周五郎賞、『蕭々館日録』で泉鏡花文学賞をもらい、51冊が刊行されている。62才から毎年、舞台演出に取り組み計14本を手がけた。さらに青年時代からの詩作が、小谷夏、市川睦月の名で作詞に至り、60才の時「桃と林檎の物語」で日本作詞大賞を受賞。世に出た歌の作詞は148篇以上ある。

富山での足跡をたどる
 2009年8月、東京・世田谷文学館の学芸員、瀬川ゆきさんが富山へやってきた。同年9月から開く「久世光彦~時を呼ぶ声」展の担当者である。開催を前に、富山での彼の足跡を確認しようとするものだった。『時を呼ぶ声』は1992年から96年にかけ北日本新聞連載の随筆集で、久世さんは富山の思い出を書いている。66回同期の本木英子さん・熊木美智子さんと一緒に空港へ出迎えた。まず案内したのは、戦災後久世一家が一時身を寄せた熊野村字安養寺である。光彦少年は熊野川の川原に寝そべって見た青空が「一番美しかった」という。その後転々とし、落ち着いた先が今泉の二軒長屋だった。そこに9年間住んだが、今は古ぼけたアパートに変り、しかも人の気配もなかった。この家から堀川小学校へ歩いて10分、富山高校のグランドは斜め向かいという近さだった。

 私たちは富山高校の前を通って市電通りへ出た。8月1日のあの夜、久世一家は相生町のおばの家から堀川小泉町の父方の家へ泊りに来ていて、そこから焼夷弾の中を逃げたそうだ。空襲時を偲びながら、久世さんと私たちも通った附属中学校へ向かう。当時の附属中学は富山連隊の建物を校舎としていたのだが、今は富山大学である。その庭の一隅にあった中学生の頃の遊び場は、昔の面影がそのまま残っていた。

 そのあと呉羽山山頂で立山と市内を一望し、長岡御廟へ向かった。途中、なだらかな坂があり、香西かおりが歌った「無言坂」の歌詞はここでイメージしたそうだと話し合う。富山藩主前田家の墓の奥に久世家の墓があった。「僕に墓の道順を何度も教えた」と言っていた父親は、彼が中学のとき急死してここに葬られたという。彼が中学・高校時代を通じて心をわくわくさせて歩いたのが、総曲輪と中央通りだった。中央通りの牛嶋屋喫茶店に同期の友人たちが集まっていたので、瀬川さんを紹介し、久世さんのことを語り合って富山での様子を少しでも感じてもらった。

仕事の原点をさぐる
 久世さんの多彩な仕事の原点は、幼少期からの並外れた読書量、青年時代の精力的な映画の観覧、そして男女・年齢を問わない交友関係の広さである。一度会った人の名前も振舞いも忘れないという抜群の記憶力があった。そして富山への郷愁の元は、戦災で焼き尽くされた衝撃の記憶と、雄雄しくも優美な立山連峰など、富山の風土ではなかろうか。小学6年生の時初めて登った感動がその後の度々の立山登山につながった。

「久世光彦~時を呼ぶ声」展の世田谷文学館には、死の当日まで使っていた彼の書斎が再現され絶筆「百閒先生 月を踏む」の原稿、ドラマ「東京タワーオカンとボクと,時々,オトン」の構想など、彼の遺した数多くの資料が展示されていた。ただ、寝る間も惜しんで書きまくった久世さんだったが、書き尽くしたとは思えない。とくに、小説にこれから本腰を入れるつもりではなかったか。道なかばであった、と惜しまれる。

 私たち中学・高校の同期生が『追想久世光彦』を一周忌前に完成させた。また世田谷文学館は、冊子『久世光彦の仕事』を展覧会と同時に発行した。これは彼の多面的な創作活動を網羅したものである。ほかにもいくつか写真展、ライブ等が開かれた。今後も様々な久世さんを回顧する行事や出版物が出てくるだろう。

(66回卒)牧野 睿子


富山高校人物伝 17

-講道館柔道を伝えた先生-

大島英助先生<職員>

 本校に講道館柔道創始者嘉納治五郎の書『身心自在』大島英助先生の扁額があることを知っている人は意外と少ない。ロンドンオリンピックで日本柔道が苦戦したが、世界中の柔道人口が増加し、その頂点に立つことが難しくなったことが理由の一つであろう。日本の柔道を世界の柔道に広めたのは嘉納治五郎の功績である。嘉納の扁額がどのような経緯で本校にあるか正確なことを聞いてはいない。しかし『富中富高百年史』編纂のおり、本校と嘉納治五郎との間に大島英助先生の存在があることを知った。

 明治27年(1894)、本校の前身、富山県尋常中学校の物理・化学・英語・体操の教師として大島英助教諭が着任した(当時、校舎は総曲輪にあった)。大島先生は慶応元年(1865)山形県米沢市に生まれ、苦学力行しながら旧制第一高等学校から帝国大学理科大学物理学科(現在の東京大学物理学科)に進んだ。卒業後まもなく本校に着任したが、すでに30歳近くであった。嘉納治五郎が講道館柔道を創始し、東京下谷永昌寺のわずか12畳の道場で活動を始めたのは明治15年である。大島先生が大学入学後間もなく講道館に入門し、嘉納治五郎師範の直接指導を受けたと思われる。本校に着任した明治27年には全国でもまれな講道館柔道2段の有段者だったといわれている。

 当時は生徒・教師間でのトラブルやストライキ騒ぎで学校は荒れることが多かったが、訥弁ながら鷹揚な先生は生徒からの信望が厚かった。大島先生の着任によって28年2月から柔道を体操科の一部として取り入れることになり9月に開始式を行っている。29年には5年生で週3~4回、4年生3回、2、3年生2回の割合で柔道の時間が割り当てられている。寒稽古も行われ、30年6月には校内での柔道紅白試合も行われた。柔道を教育の一環として取り入れたのは嘉納治五郎が教師をしていた東京高等師範学校(後の東京教育大学、現在の筑波大学)付属中学校が最初で、明治26年1月のことである。本校はその2年後の導入であるから、全国でも最も早く有段者による柔道教育を始めた中学校といえる。国が旧制中学の教育に柔術または柔道を正式に取り入れたのは明治31年(1898)からのことである。他校に先んじて柔道を教育科目にできたのはまさに大島先生の存在があったからこそである。こうした中等教育における柔道の導入にあたって、大島先生が大学の先輩で柔道の師である嘉納治五郎師範を本校に招いて直接指導を仰ぎ、その折冒頭に記した柔道の基本である『身心自在』の揮毫を依頼した可能性は想像できる。もっとも総曲輪校舎は明治32年(1899)に富山市大火で焼失しているので、扁額の寄贈は明治33年太郎丸校舎に移って以後のことであろう。嘉納師範来校の有無はともかく、高弟大島英助が在職した本校からの頼みなら快く扁額の揮毫を承諾されたであろう。大島先生が後に校長として在職した福井県立福井中学校(現在の藤島高校)の場合は、寒稽古に嘉納治五郎を迎え、その指導を得て実施している。

 大島先生の本校在任はわずか3年で、高知県尋常中学校海南学校教諭に転任し、さらに2年後の明治32年には35歳で福岡県立中学名善校の校長となった。同41年福井県立福井中学の校長となり、昭和7年(1932)、68歳まで同校校長を勤めあげた。一生を中等教育に捧げた名物校長として全国的にもよく知られた教育者であった。大正3年(1914)、柔道3段の時に講道館四天王の一人横山作次郎と共に著した『柔道教範』は英語・ドイツ語・フランス語に翻訳され、柔道啓蒙の書としてヨーロッパの人々の注目を集めた。恩師嘉納治五郎の「日本の柔道」を「世界の柔道」への願いの実現に大きな役割を果たしたに違いない。嘉納治五郎筆『身心自在』の扁額は昭和46年(1971)本校火災の折、額装が損傷したが、やがて補修されて今も柔道場に掲げられている。

保 科 齊 彦(元教諭、日本史)加納小五郎の篇額
※参考資料:『富中富高百年史』・『富中回顧録』・『富山中学校一覧』・『富山日報』・『中学教育史稿』・『富山高校史資料及び美術品目録』・小林健寿郎著『偉大なる教育者・大島英助』
※大島英助先生写真:一般社団法人明新会(福井県立藤島高等学校)提供


富山高校人物伝 16

-文芸を学問研究の対象とした先駆的国文学者-

岩城 準太郎<8回>

「浮雲」の出づるや、世人は其内容形式共に、全然従来の作物と其選を異にするに驚き「書生気質」に比して隔世の感あるを認めたり。実に「浮雲」は「書生気質」を過渡の橋梁として新時代に入りし小説界最初の創作なりき。思ふに「小説神髄」の所説を最忠実に体認して純粋なる新時代模写小説の範となりしは『書生気質』に非ずして「浮雲」なり。固より前者は模写小説の粉本なりしも、前項に見えたる幾多の事実に之をして該種小説の範たらしめず、創新の名誉は挙げて後者に帰せり。

 上の文章は、岩城準太郎の「明治文学史」の一節である。この著は、哲学者井上哲次郎・歴史学者坪井九馬三(くめぞう)・国文学者芳賀矢一の企画に基づく「明治歴史全集」の1巻である。明治36年(1903)、恩師の芳賀からこの企画に参加することを薦められ、明治37年(1904)5月から明治39年(1906)6月までの満2年をかけて執筆し、その年末に刊行された。準太郎28歳の時であった。明治35年(1902)に東京大学文学部国文科を卒業した。卒業論文は「源氏物語の題材」であった。すぐに大阪府立北野中学校に奉職し、明治37年(1904)に三重県立第一中学校に転任した。この20歳代の新米の中学教師時代に、この書が書き上げられた。当時はまだ同時代の文芸を本格的に学問の研究対象にする風潮がなかった。しかし、さればこそ準太郎は恩師の薦めに応じるためにも同時代の文芸を歴史的に研究することに敢然と立ち向かったのである。

 そんな意気込みのもとで書かれた文章は、ヘーゲルの思考方法に倣った論述の仕方が感得され、しかも見事な雅文体で記述されている。当時の青年学者たちは、みなこのような雅文体で記述している。そのような書を手にした時は、かれらの言葉の豊かさと学問的素養の豊かさにきまって驚異の目を見張るのである。

 準太郎は、明治11年(1878)上新川郡大広田村字大村(現富山市)に生まれた。母は分家をして父を婿養子に迎え、新しい家を構えた。明治24年(1891)に富山県尋常中学校(現富山高等学校)に入学した。中学時代は学校の近くに下宿した。真面目で多感な準太郎は、下宿部屋の石油ランプの灯の下で、逍遥・四迷・?外等の小説をはじめ、「早稲田文学」や「文学界」などの文芸誌を読み耽った。また、父の実家も母の実家も十村役を勤めた旧家であり、それらの家の土蔵には江戸時代の和本や木版刷りの漢籍などが多く保管されていた。準太郎は虫干しの手伝いをしながら、これらを読みあさった。後年「明治文学史」を著す素地がこの時に既に培われたといえよう。

 準太郎は、その後、第四高等学校(現金沢大学)を経て、さらに東京大学に進んだ。明治41年(1908)に母校の第四高等学校に赴任し、大正4年(1915)に奈良女子高等師範学校(現奈良女子大学)の教授となった。以後、研究領域をさらに古代にまで広め、巨視的な構想のもとに「新講日本文学史」や「新修日本文学史」を著し、また日本文学を幅広く論じた「国文学の諸相」や「国文学群像」等を著した。昭和18年(1943)奈良女子高等師範学校を退官したが、奈良の地を終の棲家とし、二葉亭四迷の研究などにいそしんだ。昭和32年(1957)逝去した。享年79。

もう一度振り返ってみよう。「明治文学史」は、越中人譚:第58号からの転写明治の文芸を総合的に秩序立て、体系的に組織立てた最初の近代文学史として記念すべき研究書である。 それ故に、その後の近代文学研究に及ぼした影響は大きかった。 例えば、この書の示した時代区分や有力な流派の代表として評価し取り上げた作家・作品は、今日においてもおおむね変わりがない。まさしく本書は今日も近代文学研究の基礎的道標としての働きをしている。名著である。

写真は「越中人譚」58号からの転載
(66回卒・神島達郎)


富山高校人物伝 15

-北陸の自律性を守り抜き、近代富山の礎を築く (2) -

山田 昌作(19回)

大都市資本に対抗した企業誘致
山田昌作がその存続に心血を注いだ北陸圏の危機は電力国家管理だけではなかった。山田が富山電気に迎えられた大正初期の電力事業は、大規模貯水池発電所と長距離送電の技術革新を迎えていた。大都市の大電力資本による大規模水力開発が展開され、その手は北陸にも及んだ。5大電力の一角日本電力と大同電力が富山県に進出。開発した水力は、昭和10年時点で日本電力系が45万3,700kW、大同電力系は10万7,600kWにものぼった。地元最大手の日本海電気は系列を加えても8万5,900kWにすぎず、重要な水力開発地点の多くが大都市資本に占有され、送電された。山田は大電力会社に対抗する形で富山の地域開発にかかわっていった。

 昭和4年から15年までの間、日本海電気が低廉な電力をもって誘致した企業は、七尾セメント(イワキセメント:七尾港)、伊藤忠兵衛率いる呉羽紡績(呉羽・庄川・井波・入善の9工場)、日清紡績富山工場、日満アルミニウム(現、昭和タイタニウム)、中野有礼率いる日本曹達(高岡・岩瀬・富山)、日曹人絹パルプ(興国人絹パルプ)、日本カーバイド工業、さらには、自らが中心となって設立した日本海船渠(現、新日本海重工業)など十指に余る。

 なかでも、富山県の要請を受けて誘致した日満アルミニウムには1kWh5厘7毛8糸の破格な低料金で常時電力3万2,900kWを供給した。これは、富山県営愛本発電所の電力を買電し、かつ、送電線の設置に巨費を投じるものだった。また、日曹人絹パルプの誘致には、製造工程で必要な蒸気を供給するため日本海電気初の火力発電所を建設。さらには、その燃料となる石炭を日東美唄炭砿(北海道)を買収して調達した。

 これは、天賦の自然資源を武器に送電コストの不要な地元に電力多消費型工業を誘致したものである。しかし、立地企業にとっては、関西圏の8分の1という破格の電力料金も、製造品の輸送コストを考えれば競争力の決め手にはならない。企業誘致による地域開発も、本社が大都市にあって地方に進出した分工場に意思決定機能がなければ分工場が得た経済余剰は本社に流出してしまう。つまり、後発地域に重化学工業を興し競争力を獲得するには、単に安い電力を供給して工場を誘致すればすむわけではない。では、山田はどのようにして企業誘致を成功させ、競争力を育んだのか。

 地域に根付く企業誘致戦略 山田が主導した富山の地域開発は大きく三つの戦略で展開されたが、それは外来型開発の形をとりながら戦後のそれとは大きく異なった独自の発展を遂げるものだった。一つは、立地企業を地域外資本と地元資本との共同出資によって設立し、その多くが中枢機能を富山に置いた。大正5年に誘致した電気製鉄は、日本鋼管が資本金の半分を出資し、後は富山電気をはじめとする地元資本が出資して本社を伏木に置いたこと。昭和4年に設立した呉羽紡績は、伊藤忠兵衛とともに山田が設立発起人となり役員にも就任、株式の募集にあたっては自ら日本海電気の社員に積極的に働きかけた。また、富山電気ビルデイングなどの地元企業設立の際には誘致した企業にも出資を仰いで地域との絆を太くした。この共同出資による企業設立は、大規模設備を要する重化学工業などの資本不足を補うとともに、リスクを分散し、事業に対する責任を地域的に共有する意味もあった。

 二つ目には独自技術の確立。山田が誘致した企業のほとんどが、当時全国でも例のない最先端技術の実現であったことである。新しい技術を先行して確立すれば技術的優位性を持つことになり、将来的に競争力の決め手となる。しかし、工業化の後れた地方に自前で最先端技術を創り出すことは容易ではない。山田はそのジレンマを地域外企業の先端技術力をいち早く導入して地域に定着することで克服しようとした。

 三つ目は、これら誘致企業の事業が確立するまで日本海電気が採算を度外視して支援した。誘致した企業は例外なく苦労した。日本海電気はこれを、低廉で安定した電力供給に加え、株式や社債の保有などの資金的な援助、さらには電気代の肩代わりや貸し倒れも引き受けていたのである。こうして富山県は戦前全国で6、7位の工業県に成長した。特筆すべきは、戦後多くの企業誘致が失敗したなか、これら進出企業のほとんどが立地から80.90年を経た現在も富山で事業を継続していることである。



参考文献:『北陸電気産業開発史』正橋清英/
『日本電力業発展のダイナミズム』橘川武郎/
『山田昌作伝』/『金岡又左衛門翁』有峰ダム (82回卒 森田 弘美) 

山田が北陸電力の社運を賭けて建設した有峰ダム。貯水池 の水は発電だけでなく、富山市の74%を賄う水道水として その水源の95%を提供しているほか、常願寺川一体の農業 用水として利用されている。 北陸の自律性を守り抜き、近代富山の礎を築いた


富山高校人物伝 14

-北陸の自律性を守り抜き、近代富山の礎を築く (1)-

山田 昌作(19回)

命令あるまで所信翻さず 山田昌作を語るうえで欠かせないのが、太平洋戦時下における電力の国家管理に敢然と立ち向かい、北陸ブロックの自律性を守り抜いた信念である。

 電力の国家管理は、戦時経済統制の一環として、既存の発電設備および主要な電力設備を日本発送電1社に帰属させ(昭和14年4月第一次国家管理)、全国を8地区に分割して各地区内の電気事業者を統合しそれぞれに配電会社をつくるというものだった(16年4月決定の配電事業統合要綱)。この要綱では、北陸地方は中部配電の供給区域に編入されることになっていた。電気事業者たちからは一斉に国家管理に反対の声が起こったが、戦時経済統制が強まり軍部の発言力が拡大していた当時、反対運動が実ることはなかった。唯一、この政府案に北陸の自律性を主張し、行動したのが山田だった。
 これが実施されれば北陸地域の独自性は完全に失われ、中部地域の辺地となりかねない。山田は、「北陸に育ち、北陸において成長した産業は、すべて北陸の特殊性によって成立したものである。北陸地方の歴史的・地理的実情に照らしても北陸は独立した電力圏をつくるべし」と主張。北陸の電気事業者に自主的な統合による北陸電力圏の確立を促す一方、自ら逓信省に粘り強く陳情を続けた。しかし、戦争目的貫徹を標榜して論評の余地を許さない戦時下において山田の行動は命の危険すら伴ったという。山田の決意を昭和16年7月10日付北日本新聞は、次のように伝えている。

命令あるまで所信翻さず 山田社長の帰来談
 北陸ブロックを要望するのは、国家に得策であると信ずるからである。北陸ブロックの独立については、命令書を戴くまでは、あくまで所信に向かって邁進する。容れられるか、容れられぬかは問はない。所信を述べることが臣道の実践であることを信ずるからである。北陸ブロックが認められぬ以上、八月一日より創業営業する北陸合同電気会社は無駄ではないかといふ者もあるが、然し今日まで和やかな会合を持って築いた物質的、精神的収穫はよほど大きいものがあった。今後は、いわゆる不変をもって変に処する心構えをもって、ブロック問題に処していきたいと思ふ

北陸の自律性を確保
 16年4月、山田の説得に応じて日本海電気・高岡電燈・立山水力電気・大聖寺川水電・出町電燈・金沢電気軌道・小松電気・雄谷川電力・手取川水力電気・石川電気・石川電力・越前電気の12社が北陸合同電気を設立した。大阪毎日新聞はこれを「配電統合方式の全国的範例」と報じた。北陸合同電気の設立は、国家管理の枠組みは受容しつつ、そのなかでの相対的な自律性を確保しようという地方資本側の「対抗戦略」であった。  
 自主によるか、強権下に統御されるかの違いは大きい。8月3日には政府が配電会社区分要綱にもとづく分割を決定したが、山田の働きと自主統合が功を奏し、特例によって北陸ブロックの独自性が認められ、北陸配電が設立されることになった。翌日の北日本新聞は「要望酬いられて特例“北陸合同電気”存立 中部地区は二社制で国策線へ」と報じた。戦後行われた電気事業再編成でも、これが既成事実となって、現在の9ブロック体制が維持された。  

富山中学講師からの転身
 山田昌作は、明治23年に富山市に生まれた。父信昌は、元富山藩士で一時期売薬も営み、十二銀行や、富山電気(昭和3年に日本海電気)、金沢電気の取締役を務めた。昌作は、大正3年に東京帝国大学法学部独法を卒業し、「長男が家を離れることは不都合」とする父に随って母校富山中学の講師として法政経済とドイツ語を教えたが、大正5年に富山電気の社長金岡又左衛門に招聘され、弱冠26歳で同社常務取締役に就任した。  
以後、金岡の片腕として同社の経営を担い、昭和4年からは日本海電気の社長として北陸最大の電気事業者に発展させる一方、伏木臨海工業地帯や富山市北部などに繊維工業、重化学工業を誘致して富山県が日本海側屈指の工業県に成長させる礎をつくった。戦後は、北陸電力の社長として常願寺川有峰発電計画を実現するとともに、立山黒部の開発、さらには(財)がん研究会(癌研)の理事長として病院の再建にも奔走するなど、その足跡は多方面に及んだ。

参考文献:『北陸地方電気事業百年史』山崎広明ほか/
『北陸電気産業開発史』正橋清英/
『日本電力業発展のダイナミズム』橘川武郎/
『山田昌作伝』/『金岡又左衛門翁』
(82回卒 森田 弘美)


富山高校人物伝 13

-鉄釉陶器で人間国宝第1号-

石黒 宗磨 <26回>

 石黒宗麿は明治26年(1893)射水郡作道村字久作業中の石黒宗磨 々湊(現在の射水市久々湊)の医者の長男として生まれた。独学で中国古陶磁の技法解明と復元に生涯をかけ、昭和30年(1955)),鉄釉陶器の技で重要無形文化財保持者(人間国宝)第1号に認定された。

 宗麿は13歳で県立魚津中学に入学したが、明治43年(1910)4月に旧制富山中学3年に編入学した。翌年秋に富山中学を中退、慶応義塾普通部3年に転学している。20歳の時、金沢の野砲兵第九連隊に入隊、やがて朝鮮に駐屯した。23歳で金沢に帰還したあと野田で楽焼(※手づくねで作る鉛釉の陶器)を見て陶芸に関心を抱くようになった。除隊後父が開業医をしていた新湊立町に楽窯を作り試作を始めた。大正8年(1919)26歳の時上京し、やがて渋谷の松濤に窯を築く。2年後岩佐とうと結婚。同12年、関東大震災によって埼玉県小川町に移住し、苦しい生活を続けた。再び金沢野砲兵第九連隊に入ったが除隊後楽焼の肖像彫刻や置物などを製作、笠山焼の名で販売した。大正末から昭和初年にかけて富山市、金沢市で、昭和2年(1927)には東京丸ビルで展示会を行った。この年、作陶の中心地京都に移り、東山蛇ケ谷に窯を作った。近くに間借りしていた小山冨士夫と知り合い生涯の友となる。小山は中国古陶磁研究の第一人者となるが、石黒宗麿の陶芸を高く評価した最大の理解者であった。  

 小山と宋磁を研究し初めた頃、稲葉家の曜変天目茶碗(現在は静嘉堂文庫美術館所蔵の国宝)を見て、その技法の復元を志すようになったといわれる。また小山を通じ大原美術館長武内潔眞、大原孫三郎などとの交流が生まれ、物心両面の支援を得た。昭和10年(1935)、佐賀県唐津に赴き、古窯跡を調査、研究し唐津焼を製作する。同年夏、京都洛北八瀬近衛町に窯を築き、生涯の仕事場とする。同12年44歳の時パリ万博に「唐津風大鉢」を出品して銀賞を受け、同14年中国宋代の柿釉、翌年木葉天目の技法を初めて再現し高い評価を受けた。15年には小山冨士夫の尽力もあって東京で個展を開いた。17年東京高島屋の工芸展に出品した柿釉鉢が受賞し、やがて木葉天目茶碗の完成に成功して注目を浴びた。  

 戦後は日本を代表する陶芸家としてフランス・イタリア・アメリカなど海外に紹介された。一方日本伝統工芸展では独力で解明した様々な技法を用いて鳥文や魚文をデザインした鉢や壺を発表した。昭和30年、鉄釉陶器により国指定重要無形文化財技術保持者に認定され、人間国宝第1号となった。陶芸家荒川豊蔵、浜田庄司、富本憲吉らも同時に認定された。 宗麿には陶芸の師はなく、古陶を徹底的に研究し、自ら技法を解明し習得した。彼は書画にも秀でていたが、同じく古典だけが師であった。  

 平成10年(1998)郷土の偉人・石黒宗麿を顕彰する新湊市博物館が開館し、

陶芸作品とともに書画や所持品も収蔵された。黒華壺その中に唐詩選など漢詩・漢文の書籍も含まれている。陶器や書画に示された五言絶句や七言絶句の漢詩は彼が自ら学んだものであるが、富山中学在校中に学んだ漢詩の魅力が蘇ったのかもしれない。当時本校には26年間在職し全生徒から敬慕された漢文教師斉藤八郎先生が教鞭を執っておられた。(本誌127号に紹介)  

 人間国宝認定の翌年新湊市名誉市民に推された。また本校26回生として母校富山高校に作品「絵高麗文字壺」を寄贈し、現在、百周年記念館に収蔵されている。昭和43年(1968)京都で没した。享年75歳。  

(元本校教諭 日本史 保科 齊彦)
参考文献: 小山冨士夫監修『石黒宗麿作陶五十選』(朝日新聞社)
石黒宗麿』(新湊市博物館開館記念)
小野公久『手紙が語る石黒宗麿の心』(新湊市民文庫)
定塚武敏『越中の焼き物』(巧芸出版)
小野公久監修『石黒宗麿書簡集』(射水市新湊博物館)
『富山大百科事典』(北日本新聞社)その他多数。

(元本校教諭 日本史 保科 齊彦)


富山高校人物伝 12

-中国古代史研究・16代目島の徳兵衛-

岡 崎 文 夫 <16回>

見よまいか 見まいか 見よまいか 島の徳兵衛の嫁 見まいか岡崎文夫先生 お縁に七棹 座敷に八棹
 上の歌謡は、富山市梅沢町の天台宗正覚山円隆寺で、毎年7月の盂蘭盆に催される「さんさい踊り」の歌詞である。島の徳兵衛は岡崎徳兵衛のことである。岡崎家は、富山市西本郷一帯の土地をほとんど全部を有していた江戸時代からの豪農であり、代々富山藩の十村役を務めた名家である。岡崎文夫は、この徳兵衛・十六代目である。  

 文夫は、明治21年(1888)の生まれ。明治38年(1905)富山中学校(本校の前身)卒業、第四高等学校(現金沢大学)を経て明治42年(1909)京都大学史学科に入学した。四高では西田幾太郎、大学では内藤湖南・狩野直喜・鈴木虎雄など錚々たる学者の教えを受けた。はじめは中国近代史に注目していたが、大学院に入ってからは中国古代史を専ら研究するに至った。これは内藤湖南の影響によるものだろう。その後、中国に留学し、大正13年(1924)東北大学文学部史学科助教授に任ぜられ、仙台に居を構えた。翌年英仏に留学した。  

 大正15年(1926)帰国の途次、父の佐次郎と一緒に中国を旅行した。父は「老後の楽事ここに極まれり」と喜んだ。佐次郎は衆議院議員を務め犬養毅とも昵懇の間柄であったが、政治家になることをさして好まず、漢詩文をこよなく愛し「藍田」と号して漢詩を多く作った文人であった。文夫が中国史を研究したのは父のこの姿に影響されたものであろうか。文夫は書物を広く読み究め、用意周到な講義ノートを作成して教壇に立った。文夫の研究におけるこの識見卓犖ぶりから「東北大学に岡崎文夫の東洋史あり」と喧伝された。その最初の成果が『魏晋南北朝通史』(昭和7年・弘文堂刊)の大著である。文化史に重点を置いて中国の歴史を見渡した恩師の内藤湖南はこの書に漢文の序を贈った。湖南は厳しく評しながらも、政治史に重点を置いたこの通史の新しい研究方法に率直に目を見張ったのである。  

 文夫は昭和24年(1949)大学を定年退職して故郷に帰った。農地解放によって広大な岡崎家の農地もほとんどなくなって家屋敷だけになっていた。さらに前年の洪水で二、三年前から家に送っていた膨大な書籍類が水に漬かってしまっていた。しかし、四十余年ぶりに我が家に落ち着いた文夫は、これからは晴耕雨読の生活をしようと心に誓っていた。それも束の間、翌25年3月、発病してから4日後に、現代の司馬遷と称されていた生粋の歴史学者は突如としてこの世を去った。享年62歳。

■岡崎文夫の主な著書から■

 Ⅰ.『新制東洋史教科書』(三省堂刊)中学校・女学校用の歴史の教科書。昭和十年代によく用いられた。図版や地図も多く取り入れ、日本の歴史と対比した年表も挟み込んだ懇切丁寧な教科書。諸子百家の説明など今も参考になるところが多い。

 Ⅱ.『司馬遷』(昭和22年・弘文堂教養文庫)「史記」を最も愛読したことから必然的に生まれた書。司馬遷の全貌を把握するのに最適の書。辛辣な批評で有名な武田泰淳は自著「司馬遷史記の世界」の中で、この書を「小冊子であるが、丁寧親切にして内容豊富な解説書である」と珍しくも好意的に評している。

 Ⅲ.『魏晋南北朝通史内編』(平成元年・東洋文庫)前述の大著の内編と外編とを二分して、その内編を再刊行した書。中国古代史研究のためには掛け替えのない書。史記をはじめ種々の史書からの引用は幅広くかつ精確であり、今も研究者にとっては必携の書となっている

 Ⅳ.『隋唐帝国五代史』(平成7年・東洋文庫)死後45年後、文夫の講義を受講した研究学徒たちがノートを持ち寄って編集刊行された書。学徒の一人は次のように述懐している。 先生の講義は、今日はどういう講義をするのかから始まり、今日話したことをまとめるとこういうふうになるんだということをきちんと述べて終わりとされた。一回一回非常によく考えてノートを作っておられるという感じを受け感心しました。したがって、中途半端で講義の時間が終わるということは決してなかったわけです。  

 上述の書はどれも富中富高文庫に納めてある。生前の研究が死後ますます価値を発揮するとは。その不滅の学究力に驚嘆するとともに、このスケールの大きな先輩に対してあらためて尊敬の念が心底から湧いてきてならないのである。 (66回卒・神島達郎)


富山高校人物伝 11

-金色燦然と輝き続ける山田文法-

山 田 孝 雄 <4回同期>

余がこの身はいかなる境遇に在りとも、敢へて憂ふるに足らざるなり。
 余が研鑽(けんさん)はこの地にありて一進境あらむことを期す。出来得べくば、余が研鑽をしてこの地に在る間に一頭地を抜かしめよ。余が此の身は如何なる境遇に在りとも、敢へて憂ふるに足らざるなり。(随想「大言小言録」より)  

 明治34年(1901)5月、高知県立第一中学校安芸分校に転任したばかりの、26歳の国語教諭兼舎監の山田孝雄の言葉である。今までの5年間で学び究めてきた日本文法の研究を論文に具体化する決意を表した言葉である。若い研究学徒のほとばしる情熱が感得されてならない。翌35年に、書き上げた論文「日本文法論」を三部に分け、『日本文法論・上』を出版した。そして山田は明治37年(1904)にこの論文を学位請求論文として、審査を東京大学文学部に願うことを添え書きして文部省に提出した。さらに研究は続いた。その論文は明治41年(1908)に1500ページにも及ぶ『日本文法論・全』として新しく上梓された。金色燦然と輝く名著の誕生である。博士請求論文のほうは、ようやく25年後の昭和4年(1929)2月に文学博士の学位が授与された。この経緯を知った徳富蘇峰は「官学にも私学にも無縁の一衆生の大快事」と『東京毎日新聞』紙上で山田を絶賛した。  

 山田は、明治8年(1875)富山市総曲輪に生まれた。明治20年(1887)に富山県尋常中学校(本校の前身)に入学した。成績は極めて優秀であったが、一年で退学した。富山藩の藩士の家であった山田家は廃藩置県のために窮地に陥っていたからであろう。しかし、山田は独学精励し、明治24年(1891)に小学校授業生の免許を取得し、翌25年に草嶋小学校に勤めた。実はこの免許取得のために明治6年生まれとしたのである。山田は生涯この年の生まれを堅持した。その後、上市尋常小学校、下村忠告尋常小学校に勤めた。その間、小学校正教員の免許を、明治28年(1895)には尋常中学校並びに尋常師範学校の国語科教員の免許を取得した。山田の猛勉強ぶりがしのばれてならない。29年4月、下村の児童たちは「先生、おらっちゃをおいてどこへ行くがけ」「先生、まめでおられえ」と泣き叫びながら21歳の青年教師を見送った。山田は滂沱と涙を流して彼らと別れた。それから間もなく山田は故郷を出立し、兵庫県の私立鳳鳴義塾の教員となり、明治31年(1898)に奈良県郡山中学校五条分校に転任した。これらの学校や高知の学校で舎監を兼務したのは研究書の購入と家への仕送りのためであった。  

 明治39年(1906)にいよいよ上京した。翌40年に文部省国語調査委員会補助委員を嘱託され、大正2年(1913)まで務めた。これは香取秀真(かとりほつま・鋳金家・歌人)と森鴎外(陸軍軍医総監・作家)の推薦によるものであろう。大正9年(1920)に日本大学講師に、大正14年(1925)に東北大学講師に就任した。2年後に教授に昇進し、昭和8年(1933)まで教鞭を執った。昭和15年(1940)に神宮皇学館大学長兼神宮皇学館長に任ぜられ、昭和19年(1944)に貴族院議員に推挙された。そのためだろうか昭和21年(1946)に公職追放の身となった。その時、山田は郷里に戻りたかったらしいが、当時の富山は戦災からほとんど復興していなく、山田一家を迎え入れるゆとりがなかったのであろう。しかし、世には救いの神が存在するもの、東北大学時代の教授仲間の阿部次郎の厚意によって仙台の地を終のすみかとすることができたのである。  

 昭和26年(1951)に追放解除となり、昭和28年(1953)に文化功労者として顕彰され、昭和32年(1957)に文化勲章を授与された。同時に富山市名誉市民に推挙された。翌33年8月に帰省し、本校にも立ち寄った。その折、「これからはNEDやOEDに匹敵する大型の辞書を息子たちと作りたい」と力強く述べた。だが、偉大な学者も病には勝てず、同年11月20日この世を去った。享年83歳。富山市役所松川畔の中庭に自筆の歌碑「百千度(ももちたび)く里かへしても読毎(よむごと)にこと新たなり古之典(いにしへのふみ)」が建っている。この歌からもうかがわれることは、山田は生涯学びと究めを確かにかつたくましく続けた大学者であったことである。     
(神島達郎・66回卒)


富山高校人物伝 10

-新研究方法を開拓し続けた民俗学者-

大間知 篤 三 <30回>

大間知民俗学→家なるもの  
 大間知篤三は、明治33年(1900)4月9日、富山市愛宕町に生まれた。民俗学者大間知篤三父は6代目大間知円兵衛、母はキク。家業は呉服屋で、父は富山橋北銀行の頭取でもあった。しかし、6歳で父は亡くなった。夫婦の縁の薄かった母は義理の長男7代目円兵衛を大切に育て、旧家大間知家を守り続けた。大正7年に富山中学校(現富山高等学校)を卒業し、第四高等学校(現金沢大学)に入学した。杉山産七・中井精一・密田良二ら富山中学出身の四高生を中心として、大正11年(1922)4月に文芸誌『ふるさと』第1号が発刊され、第15号まで続いた。篤三も創刊号から同人として詩・小説・翻訳などを寄稿した。  

 篤三は、大正12年(1923)4月に東京帝国大学文学部独文科に入学した。在学中、篤三は社会主義学生運動の中核的団体であった新人会の有力メンバーとなり、その幹事長まで務めた。昭和2年(1927)に大学を卒業し、その年の暮れには1年志願兵として金沢連隊に入隊した。しかし、翌3年3月に思想上から治安維持法に違反するとして検挙され、3年の刑に服役した。出所後、しばらく富山で静養したが、上京して大宅壮一主宰の「千夜一夜翻訳団」に参加した。時あたかも昭和8年(1933)9月14日、柳田国男の「民間伝承論」の講義が始まった。以後12回行われ、篤三は全講義に参加し、柳田門下生として研究に専念することになった。房州白浜、伊豆神津島をはじめ伊豆の島々に実地調査に出掛けた。これに併せて社会主義運動から転向した。昭和14年2月には、辻政信の推薦により満州新京(現中国吉林省)に設立された建国大学に赴任した。ドイツ語・民族学・原始信仰研究などを担当した。この地で家族形態や婚姻制度を研究している時に、聞き取りによる語彙調査中心の研究(共時的)から事実と事実との関連に焦点をあてた文献にも目を配る社会調査中心の研究(通時的)へと変化し、大間知民俗学を樹立しつつあった。  

 戦後引き揚げてきてからしばらく富山に居を構えたが、昭和23年(1948)には柳田邸内に設立された財団法人民俗学研究所の所員になった。篤三を中心として『民俗学辞典』が編纂され、個人的には名著『八丈島―民俗と社会―』を上梓した。だが、昭和28年(1953)の春、過労による肺結核のため研究所を退かねばならなかった。師と仰いだ柳田との研究方法の違いがそうさせたとも言われており、以後日本民俗学会の会合にはほとんど顔を出さなかった。しかし、勤務先の中央大学では、源氏物語をはじめ古典の民俗学的研究を進めた。肥後和男・浅野晃・中平解・三谷栄一ら多士済々の集まりであった。この研究は、常民文化の過去を復原するには古文書から目を閉ざしてはならないとする大間知民俗学の新しい研究と言わねばなるまい。  

 昭和43年(1968)病床に就き言葉を発することができなくなった。研究が不可能になった絶望感に苛まれながらも、篤三は学びの心意気を喪失させることなく、昭和45年(1970)2月25日この世を去った。享年69歳。篤三の研究内容は、婚姻習俗や家族形態といった「家なるもの」に注目したものが目立つのは、ことによったら大きな家を献身的に守って一生を送った悲しくも美しい母キクの姿が篤三の心の奥から去ることがなかったからであろうか。  

 篤三の取り持ちで結ばれた大宅夫妻、壮一は「彼はその名の如く温厚篤実な人柄で、彼を知るすべての人から親しまれ、敬愛された」と讃えている。また昌子は「現代のいやらしい面には少しもおもねらず、神のような人格者でした」と偲んでいる。昭和50年(1975)に、仲間の研究者たちによって『大間知篤三著作集』6巻が刊行された。富中富高文庫にも納められている。富高生であったら、この中の1冊でもよいから手にとって、先輩の築いた本物の学問の重みを感得してほしいものである。  
(神島 達郎・66回卒)


富山高校人物伝 9

-日本学士院会員に選ばれた農学者-

西 川 義 正<43回>

世界の畜産界を一変

 かっての畜産会は、農耕などの役牛の飼育が中心であり、その繁殖は自然交尾で行われていた。 そのため繁殖率は極めて低かったが現在の畜産界は、大きく変わった生活様式に対応し、役牛から乳牛・肉牛の飼育へと変化し、年間200万頭以上の子牛が生産され飼育数も飛躍的に増加している。この変化を可能にしたのは冷凍精液技術による人工授精技術であり、この技術を開発したのが西川義正(43回)である。日本の人工授精技術は大正初期にロシアから移入されていたが、それは生精液を使うものであり、軍馬を対象とするものであったから畜産界に大きく普及しているわけではなかった。なお、このロシアからの人工授精技術移入に関わったのが石川日出鶴丸(8回)である。しかし、義正が開発した冷凍精液を使う技術は、時間・空間を超えて優良精液を効率的に利用できるようになって、健康で質の高い乳・肉牛の生産に大きく貢献したのである。

 義正は、上市町上中町でみそ・醤油を製造する醸造業を営んでいる西田家の5男として大正2年に生まれ、大学卒業後に芦屋市の西川美枝と結婚し西川姓を名乗った。義正がが富山中学に入学したのは大正15年である。富山中学在学中は絶えず級長を務め、当時、認められていた飛び級によって中学4年修了をもって旧制富山高等学校理科に進学した秀才であった。旧制富山高校では理系の学生の多くは医学志望であったが、西川は東京帝国大学農学部獣医学科へと進んでいる。それは、富山中学2年の時の担任で博物担当の先生が、子供の頃から魚を捕えたり、昆虫を集めたりすることが好きであった西川少年を大変可愛がってくれ、その影響を受けたことによると自ら語っている。

 昭和11年、東京帝大を卒業した義正は、農林省に入省し、昭和32年まで一貫して畜産研究部門にかかわっていた。この間の同27年に冷凍精液の研究に携わることになった。敗戦国日本の独立が実現し、この年に海外の学会出席も2学会に限って認められた。その1つに選ばれたのがコペンハーゲンでの国際家畜繁殖学会であり、農林省農業技術研究所畜産部の若手研究者であった義正が参加することとなったのである。その学会で出会った、世界で初めての牛の精子の冷凍保存に成功したイギリス国立研究所のポルジ報告に刺激され、帰国後精液の希釈液にグリセリンを混合し、ドライアイスで凍結することに成功した。世界の畜産界を一変させる大発見であった。その後は、その実用化に向けた研究を続けた結果、同32年に京都大学農学部教授に異動し、翌年に和牛を用いた試験を成功させた。その後も研究者・教育者としての道を押し進んだ。京都大学教授時代に、家畜審議会専門委員、日本学術会議会員、京都大学農学部付属牧場長、日本畜産学会会長などを務め、同39年に日本学士院賞を受賞している。同51年に京都大学を退官した後は帯広畜産大学学長となった。帯広畜産大学時代の同53年には世界畜産学会会長に就任し、同56年に日本学士院会員に選定されている。同59年から富山女子短期大学学長として同短大の国際交流事業に努力し、晩年は郷土の高等教育に貢献している。本校の卒業生の中から偉大な学者が多数輩出しているが、日本学士院会員となっているのは昭和50年に選ばれた内分泌学の竹脇潔(34回)と西川義正の2名だけである。残念なことに、富山女子短期大学を退任した翌年の平成6年2月に芦屋市で交通事故にあって80歳で亡くなった。
(133号)


富山高校人物伝 8

-信念を貫いた能吏-

牛塚 虎太郎<10回>

内務官僚として地方行政に尽力地方行政に尽力した牛島虎太郎氏   
 平成28(2016)年のオリンピックの東京誘致が話題になっている。もしこれが実現すれば昭和39(1964)年以来2度目の開催となる。しかし、これ以前の昭和15(1940)年に東京でオリンピックが開かれる予定であった。昭和15年は紀元二千六百年にあたるとされ、これを祝う盛大な国家的祝典が催されるのに合わせてオリンピック誘致が図られたのである。この時のライバルはヘルシンキであったが、昭和11年のIOC総会で36対27の大差で東京開催が決定した。しかし、日中戦争が拡大し、激しくなるなかで、軍部の圧力で中止させられ、幻のオリンピックとなったのである。このオリンピック誘致に大活躍したのが、当時、東京市長であった牛塚虎太郎(第10回生)であった。また、この昭和15年には万国博覧会も東京市と横浜市が共同で開催するはずであったが、これも幻で終わっているが、ここでも牛塚は活躍している。  

 牛塚は射水郡水戸田村(現射水市)の出身で、富山中学卒業後は、第四高等学校・東京帝国大学を経て明治39(1906)年逓信省に入った。明治45年、宮内省に入り、天皇の崩御にともなう明治天皇大喪使事務官及び大正天皇即位礼の大礼事務官に就任した。この時、即位式や大嘗祭など天皇の即位にかかわる儀式の研究を行い、『大礼要義』を著し、その後の天皇の大喪や即位の資料となっている。大正5(1916)年に内閣統計局長に就任し、以前から懸案となっていた国勢調査の実施に向けて取り組み、同9年には臨時国勢調査局次長として陣頭に立って指揮して第1回国勢調査を完遂させている。  

 大正11年に内務官僚として地方行政に携わり、岩手県知事、群馬県知事、宮城県知事、東京府知事を歴任して、昭和6年に官界から退いたが、岩手県知事時代には、それまでの「巌手県」から「岩手県」に改めた。また県土全域をくまなく視察したと伝えられる。岩手県は広すぎるうえ、当時は交通網が未発達で、これまでの知事はだれも全域を視察しなかったといわれるが、牛塚は馬に乗ってこれを成し遂げた。富山中学校で野球選手としても活躍し、宮内省時代に主場寮で乗馬を習得したほかテニス、ゴルフなどにも打ち込む牛塚は、単なる秀才であるだけでなく、当時としては珍しいモダンなスポーツマンでもあったのである。オリンピック誘致に力を傾けたのもこうした資質が背景の一つとなっているのであろう。群馬県知事に就任したのは関東大地震後の不況の時期であり、17%減の大緊縮財政を実施して財政再建をはかったほか、県庁所在地を前橋市として確定している。群馬県発足当初は県庁は高崎に置かれたもののまもなく前橋に移った。その後も高崎に県庁がおかれた時期もあり、明治14(18881)年の太政官布告で前橋で決着が着いたはずであったが、両市の確執は続いていて、この頃、県庁舎新築を機に再燃したものであった。  

 退官後の昭和8年、東京市会議員に立候補して当選した。当時は市会議員の互選によって市長を選任していたが、牛塚は東京市長に選ばれ就任した。この頃の東京市長は汚職事件に連座したりして短期間に退くものが多かったなかで、牛塚は東京市民のためとの信念を持って4年の任期を全うした。当時の牛塚を知る人は「市長在職中は終始ポケットの右には市長の辞職書、左には議会の解散勧告書を入れ、常に強く正しい信念で職務を遂行された」と語っている。県知事時代もそうであったろうが、内務省任命の官選知事と違い、間接選挙とはいえ民意によって選ばれた市長としての自負と使命感、責任感の現れであろう。昭和17年、東京1区の衆議院議員でトップ当選を果たし、衆議院議員として活躍したのを最後に政界からも引退した。   
(132号)


富山高校人物伝 7

-英文学三兄弟とヘルン文庫-

南 日 恒 太 郎<2回>・ 田 部 隆 次<5回>・ 田 部 重 治<14回>



小泉八雲蔵書が富山にやって来た幸運  
 小学校既卒業者が受験した、時期外れの明治18年1月の1回生に続いて、新卒業生で9月に入学した2回生の一人が、南日恒太郎である。卒業直前のストライキ首謀者の一人となり、また眼病が激しくなり、恒太郎は金沢の四高再受験を断念し、五年で退学する。以後は独学で、この失意のどん底から這い上がり、国語と後に英語の検定試験に合格する。英語の試験官神田乃武に引き立てられて、神田正則中学・京都の三高・学習院の教授へと出世した。「英文解釈法」を始めとする、いわゆる受験英語で、高等学校などの受験生にとっての、必携の書を多く出した。昭和27年に、昔を懐かしんだ人が、その口語版を出版して、御茶ノ水駅のプラットホーム前に、大きな広告を出していたがさすがに売れなかった。  

 弟の南日隆次(5回)は、生まれてすぐ養子に出されて、苦労した挙げ句、その後は生家に戻ったが、父と兄に中学受験を強く反対された。運よく、最後は認められたが「南日家で私程、中学に入るのに苦労した者はない。弟達は皆、帝大まで行っているのに」と受懐している。在学中、田部家へ養子に行くが、そこでもつらい目に遭い、中学卒業後に家出をして、東京で勉強することを認めて貰う。早稲田の専門部に3年通った後、文科大学(東京帝大)の専科に入学し、小泉八雲に高く評価された。卒業後、四高から女子学習院に長く務めた。  

 幼少の頃から身体が弱かった三男の重治(14回)は、大学に入って山登りを始め、山の紀行文(『日本アルプスと秩父巡礼』など)で有名になった。今でも奥秩父の雲取山荘では、7月20日に彼を記念して、山開きを祝っている。(この日は恒太郎の命日でもある。)リュックを担いで、長江の生家によく現われたが、戦時中、紀州の奥地で、風貌から外国人のスパイがきたとして、巡査に捕まったそうである。彼は別の田部家の、養子となった。  

 この三兄弟の協力の成果が、今日富山大学にある、有名な"ヘルン文庫"である。東京帝大の英文科の外人教師だった小泉八雲は、夏目漱石に押し出される格好で早稲田に移り、その1年後に没する。たまたま田部隆次は住居が近く、色々と夫人の小泉せつさんのお世話をする。後日、小泉八雲全集も編集した。  

 馬場はる刀自が、高等学校を寄付する。恒太郎は、この校長就任を打診される。恒太郎が逡巡するとき田部隆次から八雲蔵書の話を耳にする。これに先立って、田部井重治は法政大学の新設英文科の教授に就任する。貴重な八雲の蔵書の、安全な保存を望む小泉せつさんとの間を、隆次が取り持ち、法政大学が買い取る話がまとまるが、資金不足のため、話の決着は延び延びになっていた。 たまたま関東大震災で、まだ余震もありそうな時に、この話を聞いた恒太郎は、すぐに話をまとめる。せつ夫人の先約者への配慮、隆次の面子、重治の不満などを乗り越えて、多くの人々の協力で、ヘルン文庫が幸運にも富山にやって来た。  

 英語教育の3兄弟の母校である富山中学に、一卵性双生児の弟、江上英三(19回)と脇坂雄治(20回)も在籍した。さらに恒太郎の長男、南日実(25回、本校第18代、富山中学校最後の校長)も一学期だけだが在籍している。実の次男で孫にあたり、恒太郎の一字をもらった恒夫(59回)は昭和18-21年に在籍した。実の三男で末っ子の康夫は、昭和21年富山中学最校最後の入学生(64回)となり、学制改革で消滅する富山中学校の最期を父親とともに見届けたのである。

(南日康夫(64回)元筑波大学副学長、富山八雲会会長)

富山大学中央図書館にあるヘルン文庫は、毎月第2,3,4水曜日午後公開しています。
(131号)


富山高校人物伝 6

-郷土の文化創造に貢献-

翁 久允<19回>

ジャーナリストで文学者  
 翁久允(おきなきゅういん)は明治35年(188)に立山町六郎谷で漢方医の二男として生まれた。明治35年富山中学に入学し、寄宿生活をおくった。校友会組織「文武会」の月刊誌や雄弁会に文才を発揮し、寄宿舎でも文学の会(有終会)に入り、樗牛、蘇峰、鏡花、漱石、紅葉、近松などの作品を友人に語り聞かせていた。3年生(当時は5年制)の1月頃、評判の悪い英語教師の舎監に反抗し糞を床に撒く事件を起こした。新聞にも報じられ知事や県議会を巻き込む大事件となった。生徒・教師に人望があった斉藤八郎先生が職員会議で弁護に立たれたが、首謀でない翁を含め8人が放校処分となった。ただ同窓会名簿には第19回(明治40年)卒業となっている。やむなく兄を頼って東京に出、自由民権運動の女傑で滑川出身の中川幸子が営む私塾「三省学舎」に入った。後に順天中学へ進み地理教師の影響で海外へ興味を抱くようになった。  

 明治40年(1907)5月に19歳でシアトルに渡り季節労働者やエレベーターボーイなどをしながら苦学し教養を身に付けた。シアトル旭新聞に応募した小説「別れの間」が入選し文才が認められ、現地の邦字新聞に小説や随筆を載せた。日米新聞記者としても活躍し、シアトルで7年、カリフォルニアで10年過ごした。  

 大正13年(1924)に帰国し朝日新聞社にはいり、ワシントン軍縮会議で日本人特派員などを務めた。その後、菊池寛、田山花袋、鈴木三重吉、泉鏡花、北原白秋、川端康成、直木三十五、竹下夢二らと知り合い随筆や長編小説を書き、帝国文学に小説「丘」「唖の女」などを発表した。

「竹下夢二とアメリカ」  
 昭和元年(1926)、「週刊朝日」の編集長となり 文壇・画壇との交流を深めていた翁の元へ夢二が訪ねた。目的は翁を頼ってアメリカへわたり人気回復を図ることであった。翁もまたシアトルにいた頃、兄に日本から夢二の絵入り小唄集「三味線草」などを送って貰って以来ファンとなっていた。昭和3年6月、翁は黒部峡谷探勝に43歳の夢二を誘った。 黒部鉄道のトロッコ電車で鐘釣温泉など峡谷美を楽しみ、夜は宇奈月延対寺旅館で宴を開いた。翌日は富山ホテルに泊まり、芸者の絵を描いたり翁の小説「道なき道」の装丁などをした。  

 昭和6年4月、有島生馬などが発起人となって「竹下夢二・翁久允海外漫遊送別会」が東京で開かれた。画壇や文壇などから200名を超える参加者があった。5月7日、人気に陰りの見える夢二を伴い朝日新聞社の退職金を元にアメリカに渡った。だがアメリカでの夢二は無名の上、世界恐慌の影響もあり作品は全く売れなかった。夢二はモデルがいないと絵が描けない性分に加え、女癖が悪くモデルにも嫌われて展覧会は散々であった。二人は色々な面で衝突し渡米は結局失敗に終わった。  

 夢多き夢二には一人だけ入籍した女性がいた。高岡工芸学校図画教師の夫に先立たれた岸他万喜である。夢二式美人画の原型となった女性で、そのお骨は呉羽長岡墓地・真国寺にある娘の嫁ぎ先(浅岡家)のお墓に安置されている。他万喜の兄他丑たちゅうは富山中学9回(明治30年)の卒業生でもある。

高志奨学財翁は団を設立   
 昭和11年(1936)に富山の郷土研究に取り組み、郷土研究誌「高志人」を390号まで刊行した。さらに高志書房をも起こし、翌年には「図説世界史話大成」全11巻を刊行するとともに多くの文学者を富山に招いた。57歳になった昭和20年(1945)に富山に帰り、5年後には富山市安野屋に新居を構え富山の文化創造の中心的役割を担った。昭和28年に県文化功労者表彰を受けた。80歳になった昭和43年には曼荼羅画帳を描いて得た浄財で高志奨学財団を設立し文化発展に寄与した。昭和45年、富山市立図書館新設に際し多くの蔵書を寄贈した。市立図書館正面に翁久允の銅像が建っている。昭和48年に85歳で世を去った。  

(加藤淳・富山県水墨美術館顧問、、元本校教諭70回卒)  
(130号)


富山高校人物伝 5

-前衛芸術運動の旗手-

瀧口 修造<33回>

絶えず未知の創造的な世界へ   
瀧口修造は明治36(1903)年に富山県婦負郡寒江村大塚(現在の富山市大塚)に生まれた。富山中学時代は登山が好きで黒部峡谷で遭難騒ぎを起こしたエピソードがある。慶応義塾大学入学したが、関東大震災に遭い一度退学したものの再入学し、昭和6年(1931)に英文科を卒業した。大学在学中から詩をつくり西脇順三郎に師事しシュルレアリスム(超現実主義)に傾倒するようになった。卒業前年にシュルレアリスムの提唱者で、文通していたアンドレ・ブルトンの「超現実と絵画」を翻訳し、わが国の画家たちに大きな影響を与えた。以後、一貫して前衛芸術運動の推進に努めた。  

 大正末期から昭和初期にかけて、詩や美術にシュルレアリスムが影響を与え始めた頃、青年の限りない自己解放の夢に動かされ、詩人、美術評論家として活躍しただけでなく、美術映画「北斎」の制作を試みたり、抽象的な美術造形に携わったりした。また、作曲家の武満徹とも親交が深く詩と音楽の融合を目指したり多彩であった。柔和で静かな半面、嫌なことには梃子でも動かぬ頑固一徹な人であった  

 瀧口修造には詩と美術の区別はない。追い求めたものは強い創造精神の燃焼そのものであった。芸術家としての根本理念は、絶えず自分自身を未知の創造的な世界へ晒し出すことにあった。それは言語という詩に限らず、デカルコマニーと呼ばれる特殊技法を駆使した実験的作品の制作にも及んだ。この作品は県立現代美術館に百点以上も収蔵されている。  

 慶応義塾大学などから教職の誘いもあったが辞退し前衛芸術にひたすら邁進した。詩画集「妖精の距離」や美術評論集「近代美術」、「ミロ」や「ダリ」の単行本も出すなど、前衛芸術家の中心的役割を担った。とりわけ10歳年上のミロとの親交は、シュルレアリスム運動にひかれはじめると同時に始まった。アメリカの若い画家に影響を与えたミロは、スペインのバルセロナ生まれで20世紀美術の巨匠である。  

 文通による知人であった二人は、昭和41年(1966)に国立近代美術館での「ミロ展」にミロが来日して以来、固い友情で結ばれるようになった。寡黙で背丈もほぼ似通った二人は共同制作の詩画集「手づくりの諺」を著したりした。特に昭和15年(1940)に瀧口が刊行した著書「ミロ」はミロに関する世界最初の本として価値が高い。二人の交流の軌跡を中心とした作品や遺構が、県立近代美術館に多く収集されていることは、現代美術の流れを知る上で極めて意義深いことである。  

 戦時下に弾圧を受け活動は中断を余儀なくされたが、戦後は読売新聞に美術時評を担当するとともに、積極的に前衛新人の絵画展を企画開催したほか、昭和26年(1951)には、美術家・音楽家・写真家などのグループ「実験工房」が瀧口の命名によって発足し、若い作家の精神的支柱となった。 昭和33年(1958)にベネチア・ビエンナーレ参加のため渡欧し、ダリ、デュシャン、ブルトン、ミショー等と出会い、特にマルセル・デュシャンの影響を強く受けるようになった。帰国後はユニークな個展を積極的に開催した。45年も前になるが、昭和37年(1962)に「美というもの」と題し、3年生を対象に本校で講演を行っている。 昭和42年、モダニズムの風潮を越えた言葉の極北ともいうべき独自の実験的な刺繍「瀧口修造の詩的実験1927~1937」を刊行したことは、  

 瀧口は昭和54年(1979)7月1日に75歳で逝去した。富山市大塚の龍江寺にある墓に、デュシャンから送られた言葉「RoseSelavy」が刻まれている。県立近代美術館の建設・作品収集にあたっては、此の瀧口修造の考えが強く反映されていることを付け加えたい。  

(加藤淳・富山県水墨美術館顧問、元本校教諭70回卒)   
(128号)


富山高校人物伝 4

-今も生徒を見守る胸像の主-

斎藤 八郎 先生

幾万の生徒から敬愛された斎藤八郎翁  

 富山中学、富山高校120年余の校庭の斎藤先生胸像歴史の中で「人物伝」として欠かすことのできないのは、現在も正面玄関前の芝生にあって生徒を見守る胸像の主、斎藤八郎先生(号は桂堂)である。明治29年(1896)~大正11年(1923)までの26年間富山中学に勤め、漢文・修身、一時は英語も教えた。学識の豊かさと教育にかける情熱、清廉潔白、全身全霊で真摯に生徒に接する姿勢が多くの生徒の心を捉えた。小柄な体躯だったが眼光は炯々として鋭く、白髪に顎鬚が蓄えられた顔は威厳があった。  

 授業は豊かな漢学、国学、英語の知識を活かして中国・ヨーロッパの地理・歴史も加えて分かり易く、熱の入った講義だった。生徒が下宿を訪ねると、いつもうず高く積まれた書籍のなかで読書する先生の姿があった。どんな生徒にも丁重に応じられた。穏やかであったが、不心得な生徒の言動に対しては厳しく叱責し、その迫力は番長格の生徒たちも震え上がった。時には暴走しようとする生徒に諄々と涙ながらに説諭されることもあった。酒豪で、愛煙家でもあったが、生徒に範を垂れねばと禁酒、禁煙を実行された。校友会組織「文武会」活動の最大の理解者で、演説会などには必ず参加し、生徒の主張を聞くとともに、自らも専門の漢学の話やくだけた歴史講談などを披露した。毎月ポケットマネー50銭を文武会に寄付された。トラブルで解散となった文武会が復活を認められたとき最も喜んだのは斎藤先生だったという。  

 同窓生にとって斎藤先生との思い出の絆は、卒業式当日、一人一人に贈られた直筆の細字巻物であった。生徒の前途を祈念して「大学」「中庸」など四書五行の中から選んだ文を書写し、卒業生に「餞はなむけ」とされたものである。  

 先生は同僚からも慕われた。後に名古屋の幼年学校教官になった国文学の塩野新次郎は「先生の高風に親灸し、自らの修養に少なからぬ影響を受け得たことは富山における最大の幸福であった。と述べている。  

 明治中後期の富山中学では生徒・教師間のトラブルが多く、ストライキ(同盟休校)に発展することもまれではなかった。全国的な風潮であったとはいえ最大の原因は中学制度そのものが未整備で、生徒側にも教師側にも問題が多かった。問題頻発を危惧した富山県議会は、見識高く、経験豊かで実力ある優秀な教師を求めることが緊急だとした。そのため県の大海原書記官が上京して以前から知己であった斎藤先生に富山中学校教師就任を懇望した。  

 履歴書によると、先生は嘉永2年(1849)の生まれで、本籍は今の神奈川県藤沢市。2歳で父と死別したため新潟の他家に預けられて育った。9歳から青木芯に漢学を学ぶ。母の死後、兄の家に寄宿した。学問のため上京したのは、すでに22歳、そして人生の恩人と慕うことになる広津弘信の書生となる。明治4年(1871)東京日章堂、6年新潟英語学校、8年東京箕作麟祥みつくりりんしょう塾でいずれも英語を学んだ。欧米思想偏重を批判するためにも英語を学ぶ必要があると考えた。15年に内務省図書局に勤務したが、18年からは教育者の道を選び、東京、神奈川の私塾で漢学と英語を教えた。24年には自ら東京に私立格致学舎を設立した。その5年後に富山県に招かれて病妻と一人娘を連れて来富することになった。すでに齢47歳であった。 官立校での教育歴がなかったため最初の身分は助教諭心得、その後教諭心得、死の前日に正教諭となった。就任時の月報は20円だったが   年齢や学者、教育者としての実績からは極めて低い報酬であった。しかし昇給してもその分を赤十字社などへ寄付したと云われている。  

 斎藤先生の徳を慕う同窓生たちの熱意で、大正6年(1917) 1月、工芸家畑庄吉の手による先生の銅像が建立された。銅製であったため太平洋戦争中に軍需用物資として供出することになり、文展作家須賀良二によって石膏塑像として残された。現在の胸像はその石膏像を元に昭和25年(1950)同窓生有志が資金を出して銅像に復元したものである。  

 斎藤先生は退職5ヶ月後の大正11年8月18日夜、富山中学に奉じた一生を終えた。『富山日報』は「幾万の生徒から敬慕された斎藤八郎翁逝く」の大見出しで「いける君人子として徳望を一身に集めた元富中の教諭」の死を悼んだ。

(保科齊彦:元富山高校教諭(日本史)
『富中富高百年史』編集者)
注:この文は『富中富高百年史』の富田・保坂担当相当分をもとに執筆した。
なお同書中に「斎藤八郎は幸田露伴の高弟」とあるのは同姓同名による間違いで露伴高弟の斎藤八郎は現在の南砺市井波の人である。
参考文献: 斎藤八郎著『老いの繰言』・『富中富高百年史』・『富中回顧録』・
「富山高校資料館所蔵記録」・「青年倫理学撮訳緒言」・(『文武会誌』6号)
(127号)


富山高校人物伝 3

-富山県最初の大臣-

南 弘<2回>

正義感に満ちた行動力   
 富山中学校(創校時は富山県中学校と云った。現富山高校の前身)2回生の南弘は、昭和7年(1932)郵便・電信電話業務など郵政と電気・船舶・航空の分野などを司る逓信大臣に就任した。富山県人としては初めての国務大臣である。他には安井藤治、松村謙三も富山中学に在籍したことのある大臣である。   

 南は富山中学の後、明治22年(1889)9月金沢の第四高等学校に入学、さらに東京帝国大学法科大学政治科(現東京大学法学部)に進み、明治29年卒業後、内閣書記官室庶務課に勤め官僚としてのスタートを切った。41年内閣書記官長となり、国家の機密文書を扱った。大正元年(1912)貴族院勅撰議員、翌年福岡県知事に就任した。同7年民間出身の文部大臣中橋徳五郎を補佐する文部次官となり、高等教育機関の増設と口語文体の普及・常用漢字の制限に着手した。教育水準の向上には複雑難解な国字・国語の改善が前提条件だと考えた。昭和5年(1930)「国語協会」理事長、同9年には国語審議会会長を務めて国語問題の改革に努めた。国語改革は南のライフワークといえよう。同11年に枢密院顧問官になったが、翌年生まれた「厚生省」という名称は漢籍に詳しい南弘が名づけたものである。昭和7年3月台湾総督となったが、同年の五・一五事件直後誕生した斎藤実内閣の逓信大臣に迎えられ、郵政、運輸行政の長として逓信病院の設置、放送協会の改革、逓信記念日制定などを行った。  

 この年7月、故郷に錦を飾り、生誕地などで祝福を受けた後、太郎丸の母校富山中学校を訪問した。この時のことが雑誌『改造』の「夏日雑筆」と題した文に紹介されている。  

 「処々の祝賀会を済まして富山へ出て、富山中学に行った。此の中学校は余が学生時代中でもっとも思い出が多いところだ。田中貞吉という校長の指揮の下で雪合戦をやったのもこの学校だ。食後校庭の土塀によりながら学友と共に天下国家を論じ合ったのも此の学校だ。今日『青園』と号しているのもその時代の記念のためである。当時の学友で地下の人となった者も少なくない。特に親友であった南日恒太郎君が先年富山高等学校(注:大正12年創立の旧制高等学校)校長在職中に不慮の災い(注:水泳中の心臓麻痺)に倒れられたことは実に残念に堪えぬ。中学校は暑中休暇中であるにも係わらず横田校長は心を尽くして生徒を集めて余を迎えられた。講堂で三十分ばかり話をして別れを告げた。」  

 南弘は、明治2年(1869)氷見郡仏生寺村(現氷見市)岩間寛平の二男として生まれた。名を鉄郎と云ったが25歳の時に高岡の旧家南家の養子となってから南弘と改めた。明治19年、当時総曲輪にあった創立2年目の富山中学に入学した。在学中は学業よりも、生徒活動、寄宿舎生活で目立つ存在であった。友人で寄宿舎仲間であった森井周義は地方紙「高志人こしびと」に、岩間鉄郎、後の南弘は極めて読書好きな勉強家であった一方、決意はめったに曲げぬ剛直な行動派であったとして彼が主導した以下のような事件、事柄を記している。(1)東京における皇居移転式の際、奉祝の誠をささげるといって茶話会を開き、授業に出なかったため1週間の停学処分を受けた。(2)明治21年、大沢野で挙行された歩兵第7連隊の「連隊旗」先導の堂々たる行進を見学して感動、南日恒太郎らとともに「富山中学校校旗」新調を、発議し翌年実現させた。(3)県議会で中学校校長の俸給を減額する案が提出されようとしたとき、良い教師を集めるには良い待遇が必要だとして減給反対の署名活動を行い、島田孝之県会議長に建議書を提出し認めさせた。(4)明治22年暗殺された文部大臣森有礼追悼式参列に富山日枝神社に向かう途中、師範学校生と衝突し、これをきっかけとして空前のストライキを起こした。  

 行き過ぎもあった彼の正義感に満ちた行動力は、やがて国政という大きな舞台で輝きを増した。殊に文教重視の学者的官僚政治家として評価されるようになったが、これは幾多の経験と良き人脈との出会い、多くの書籍から得た知識などに裏付けされたものであった。書斎では読書三昧の「静」、公務では積極果敢な「動」の人であった。  

 昭和21年(1946)敗戦直後の食糧緊急措置対策法案審議中に急逝した。まさに壮烈といえる最後であった。
保科齊彦:元本校教諭(日本史)
『富中富高百年史』編集者)
参考文献:南弘先生顕彰会編『南弘先生 人と業績』、『富山県議会史』、『富中富高百年史』、
「富山高校資料館所蔵記録」、通信史研究所編『逓信大臣列伝』、『富中回顧録』
(126号)


富山高校人物伝 2

-近代医学研究の先導者-

石川 日出鶴丸<8回>

他力も亦自力なり。多くの良い弟子を育て彼らと研究を共にする。   
 およそ研究室に出入りする者は五訓を肝要とす。運・金・鈍・銀・賢是なり。感情は鋭なること勿れ。鈍なれば欺かず。難易によって移らず。些の不平なし。根は興味と責任と健康とによりて生ず。賢は小なるべからず。大賢は愚に似たり。他力も亦自力なり。金は足るを知る。運は天と我とにあり至誠以てを貫くべし。(大学定年退職時に門下生に与えた「五訓」)  

 石川日出鶴丸は明治11年(1878)、射水市小杉町白石の医者の5男として生まれた。石川家は代々医を営む名家であり、とりわけ祖父の良逸は、華岡青洲の門をたたいて学んだ名医であった。日出鶴丸は明治24年富山県尋常中学校(現富山高等学校)に入学した。この第8回同期生は、石川大生理学を確立した石川日出鶴丸、明治文学史著した岩城準太郎、俳文学を樹立した志田義秀など多士済々である。石川は第四高等学校(現金沢大学)に進み、さらに明治32年(1899)に東京帝国大学医学部に進んだ。卒業の翌年の明治37年(1904)に京都帝国大学医学部生理学研究室に入り、助手から助教授へと歩を進めた。そして明治41年(1908年)欧州に留学した。   

 4年間の留学中、ロシアのイワノフ教授から「人工授精」、ロシアのパブロフ教授から「条件反射」、ドイツのフェルボルン教授とイギリスのシェリントン教授から「生理学」を学んだ。石川は大正2年(1913年)日本で最初の人工授精を馬で実施してみごとに成功した。また、日本の条件反射研究は石川から始まった。帰国の際、シェリントン教授は「人間一人が一生涯かけて研究する量はしれたものだ。だから多くの良い弟子を育てて彼らと研究を共にした場合、幾十倍もの研究業績を上げることができる」という言葉をおくった。石川はこの教訓に従って多くの研究生を育成して「石川大生理学」を確立するとともに、その門下生から21名もの医学部教授を輩出した。とにもかくにも石川の学問に対する愛情と情熱は極めて大きなものであった。ときにはだれかれの別なく激しく論じ、周囲を辟易させたが、そこには学閥などへの手加減など微塵もなかった。この石川の全人格的研究活動を慕って、彼のもとに多くの医学生が集まった。実はこの一徹な人間的風格は厚い信仰心によっても支えられており、今法然とも称されていた。このことは、上記の「五訓」からも十分にうかがわれる。    

 ここで、石川の温かい人間性を紹介してみたい。27歳で未亡人となった姉は、借金しながら息子を医者に育て上げた。その息子が応召されて中国の病院にいた時、寂しく家で病の床に臥していた。このことを知った石川は、即座に大学を1カ月休んで姉のもとに馳せ参じた。汚物の始末に至るまで自分の手で行い、姉の看病に没頭した。後にこのことを知った息子の三辺義人(39回卒・富山市民病院創設者)は、滂沱と涙を流し母への哀悼と石川への感謝は生涯忘れてはならないと決意したのであった。  

 石川は、自然の理を求め・究めるも、自然の理に忠実に従わなければならないという信条のもとで、医学研究に邁進しつづけ、69歳の生涯を終えた。   
(124号)


富山高校人物伝 1

-校歌を作った人-

大島 文雄<32回>

温容な心で学びの庭と学びの徒の歌を作る。  

 本校の校歌は、作詞は大島文雄、作曲は山田耕筰。作詞者の大島は明治35年(1902)富山市覚中町に生まれた。大正9年富山中学を卒業し、第四高等学校(現金沢大学)に入学した。高校時代に富山中学出身者たちを中心として同人誌『ふるさと』が刊行され、大島は随筆・短歌・挿絵・表紙絵などを執筆した。同人は中学2年先輩の大間知篤三をはじめ、同輩の杉山産七・高安周吉・中井精一等多彩な顔ぶれであった。大島はまた『四高短歌会』にも参加し、中野重治とも親交があった。やがてこのように培われた文学的素養が大島をして東京大学文学部国文科へとすすませたのであった。  

 卒業を間近にひかえた大正15年(1926)3月、大島は小学校以来の親友中井と大学の構内で出会った。大島は「間もなく郷里富山の高校で教鞭をとることになるが、自分のようなものに教えることが出来るだろうか」と真剣に語りかけた。瞬時戸惑を感じながらも、中井は「教えることは学ぶことではないか。元気を出して頑張ってくれたまえ」と励まし、大島の真面目な顔を見て安心したと、弔辞の中で中井は切々と語っている。大島の謙虚な人柄がうかがわれる話である。そして、昭和2年旧制富山高等学校に赴任して以来、富山大学・富山女子短期大学・富山医科薬科大学と、大島は生涯の大半にわたってひたすら高等教育に携わってきた。  

 ところで、教え子や関係者からの要望によって、大島は校歌や会社社歌等百編以上も作詞した。中でも母校の後身本校の校歌の作詞は、大島にとっては思いで深いものであった。当時の校長岩田栄治は、創立70周年を期に、校名変更と校歌・校旗制定とを念願し、校歌の作詞を中学3年先輩の大島に依頼した。伝統ある母校の作詞など荷が重いと即座に思った。さらに作曲を山田耕筰に依頼して「日本一の校歌を作りたい」という岩田の意気込みを知ってかたく辞退した。しかし、中学同期の富川保太郎・常田政信等の強い勧めによって引き受けざるを得なかった。山田に作曲の興味を失わせない作詞を、と思うとやり切れない気持ちになったが、引き受けた以上は、母校の威容・若者の学ぶ姿・郷土の自然の力強さなどを感動をこめて歌おうと固く心に誓った。渾身の力を振り絞って一カ月ほどで作り上げた。当時の音楽教師大間知初枝は、恩師の山田から「品格のある校歌だ」と一言添えて楽譜を手渡された時、感動と感謝の念で言葉が出なかったと大島に語った。このことを聞いて、山田が常日ごろ「校歌の歌詞でポエジーのあるものは北原白秋のものぐらいだ」と言っていたことを思い出し、予想外の過分な言葉と受け取って安堵の胸をなでおろした。  

 昭和47年(1972)、長年の教育界における功績により勲二等瑞宝章を受章し、昭和54年(1979)、富山市名誉市民に推挙された。誠実な心で万葉集や源氏物語を教え、清澄な心で自然や文化に接し、そして温容な心で学びの庭と学びの徒の歌をつくった。これらに精魂を傾けた大島は平成3年(1991)この世を去った。享年89歳。その法名は『釈教薫』、何と人柄にふさわしい名号であることか。  
(123号)