会報巻頭言集

巻頭言 149号

『サッカ一部の仲間に感謝して』

 三 鍋 光 昭〈84回〉

略 歴
  • 1972年 富山高等学校卒業
  • 1976年 金沢大学法文学部卒業
  •  同年 北陸電力株式会社入社
  • 2009年 北陸電力株式会社 常務取締役
  • 2012年 北陸電力株式会社 代表取締役副社長
  • 2015年 北陸電力株式会社 退任
  •  同年 北陸電気工事株式会社
    代表取締役社長


 富山高校を卒業して40年以上経ちますが、今でも交友が続いているのはサッカ一部の仲間です。当時はJリ一グ(日本プロサッカ一リ一グ)など無く、人気のある部ではありませんでしたが、学習と部活動を両立させながら(私自身は部活動に傾斜)充実した高校生活を送り、友情を深め、人間的に成長出来たと思っています。
 特に、私たち84回生は三年生の春に火災で校舎の殆んどが燃え落ちてしまう経験をしました。しかし、先生方や同窓会など多くの人々のご支援やご協力のもと、二日後から授業が再開され、プレハブの仮設教室の中で、夏の厳しい暑さや冬の寒さに耐えながら授業を受けて卒業しました。暑さ対策の氷柱や屋根からの散水などをよく覚えています。当時はあまり思いませんでしたが、今思えば一人で乗り越えられないことも、皆で力を合わせれば必ず乗り越えることが出来るということを、身を持って教えていただいたように思います。
 さて、同期の8名のサッカ一仲間は、今は東京都、愛知県、新潟県、富山県とバラバラですが、全員が元気にしております。私たちは恩師の故高野法慶先生に部活動の顧問として三年間お世話になりました。シュ一ト練習で、校地を守る太郎丸の杜の樹を超えて奥の川まで飛んだボ一ルを拾うのは一年生の仕事でした。随分と危険な思いもしましたが、残念ながら連敗が続きました。二年生になるとテクニックのある後輩も入り、夏休みには体育館に宿泊しての合宿、秋には常願寺川原でのバ一ベキューなど、寝食を共にしながらチ一ムワ一クを高め少しずつ強くなりました。三年生の春季富山県高校サッカ一選手権大会では準決勝まで進みました。優勝校と準優勝校しか表彰状が無いのに、「皆がよく頑張ったから」と、内緒で富山県三位という表彰状を先生から一人ひとりに頂きました。試合中は自軍のゴ一ルネット裏から大きな声で指示・応援し、学校のグランドでは短パン姿でメガホンを持って厳しくも優しくご指導頂いた先生の姿が思い出されます。
 先生のモット一は「攻撃は最大の防御であり、十人十色の個性のあるチ一ムが強い。足の速い者ばかりではなく、ヘディングの強い者、スライディングが上手い者、キック力のある者など、それぞれ個性のある一人ひとりが、チ一ムとして一つの気持ちになって戦うチ一ムが強い。」でした。私もサラリ一マン生活において、多くのチ一ムの中で仕事をして来ましたが、恩師から教わったモット一のお陰で、それぞれの個性を大切にしながら上手く対応して来れたように思います。
 最後になりますが、これまでも学年の近い者で年に一回ほど集まり、高校時代の試合や思い出など懇談しておりました。その中でOB会の話が盛り上がり、幅広い世代との交流を図るとともに、現役富山高校サッカ一部の発展に寄与することを目的として、 8月に「富山高校サッカ一部OB会」を設立しました。昔のサッカ一部の仲間に感謝する気持ちもあり、会長の重責を引き受けました。設立総会の出席は20人程度でしたが、今後は多くの方の参加をお待ちしております。
(問合せ先:076-492-7092  山崎)


巻頭言 148号

『自然との出会いに感謝』

 尾 畑 納 子〈83回〉

略 歴
  • 1971年 富山高等学校卒業
  • 1975年 奈良女子大学家政学部卒業
  •  同年 ライオン油脂(現ライオン)株式会社
        家庭科学研究所勤務
  • 1978年 富山女子短期大学(現富山短期大学)講師
  • 1996年 金沢大学自然科学研究科で博士号取得
  • 2000年 富山国際大学地域学部 教授
  • 2008年 同大学現代社会学部
        環境デザイン専攻 教授
  • 2010年 同大学 学務部長
  • 2016年 同大学 現代社会学部学部長


私が富山で過ごした高校時代、イタイイタイ病をはじめとする公害が大きな社会問題となっていました。小さいころは食事も服もみんな母親の手作りで、大きなデパートといえば大和しかない。ものを大切にすることが当たり前の時代でした。  
 高校時代の恩師、故高井進先生の勧めもあって奈良の大学に進学した私は、京都や奈良の伝統ある神社仏閣や美しい庭園に魅せられ、古いものを大切に守って暮らす街のあちらこちらを夢中で訪ね歩きました。就職を機に上京し、あこがれの都会生活を体験しました。東京は高層ビルが立ち並び、人や物があふれて華やかな生活を謳歌する一方で、自動車の排気ガスで大気は汚染され、生活排水が河川に流入することによる水質汚濁など生活環境は深刻でした。工場からではなく、日々の生活の営みが河川や大気などの環境に大きな負荷をかけるようになっていたのです。快適な生活、ものに囲まれた一見豊かな生活に疑問を感じました。その後富山に帰郷して短大の教員となり、授業の傍ら、身近な視点から水環境に負荷をかけない洗濯の研究に取り組むようになり、今日の私がいます。  
 今は私たち消費者にとって欲しい時に欲しいものがなんでも手に入る便利な時代、商品開発競争で新しいモノが次々と世の中に溢れ、修理しながら我慢して使うよりも新しく買ったほうが早い、安いという価値観が共通認識になっています。その結果、大量のごみ、資源の枯渇や汚染問題。そんな人間のあり方に警鐘を鳴らすように、環境問題が表面化しています。  
 人は古くから自然を利用して生産活動を行ってきましたが、技術の発展とともに自然のもつ自己修復性を超えた時、環境問題は起こりました。地域規模の公害に留まらず、酸性雨、異常気象、地球温暖化など地球規模の環境の変化が顕著になり、今や後回しの許されない世界各国共通の重要課題となっています。本年5月に行われたG7富山環境大臣会合は、まさに地球を守るため、持続可能な社会への移行を促進するための、国の枠を越えた取組みでした。
 今年も各地で熊の被害が発生しています。森林豊かな富山県では10年前の熊の出没を受け、里山整備を自然環境保全の重要な課題として官民一体となって取り組んで、富山国際大学でも環境サークルの学生が中心となり、市やNPO、協定企業の方々と共にキャンパス周辺の森林づくり活動を継続しています。灌木を伐採チップ化して堆肥燃料化したり、苗木の植樹をしたりと、半日でくたくたになる重労働ですが、一方で春は山野草の珍しい花や山菜、秋はキノコやドングリに出会うこともしばしばで、自然の恵みを実感します。これからを担う若い学生たちには、環境問題の基本を理解するのみならず、自然の尊さや森林の大切さを肌で感じ、環境保全のために自ら行動を起こすことを学んでほしいと思います。環境問題は複雑にからみあい、その対策にもさまざまなアプローチがあるため、正解は一つ、という単純なものではありません。しかし、自分たちの住む環境を守るのは、そこに暮らす人であるべきだと思うのです。自然を愛し、広い視野を持ち、多くの人と協力しながら環境保全に貢献する一人一人になってほしいと願っています。  
 北陸新幹線の開業から2年目、富山の自然や食の恵みを求めて県外、海外から多くの人が訪れています。自然の中で暮らすという贅沢さ。私自身、ようやく故郷の自然が本当に素晴らしいと思えるようになりました。緑や水、山や海と豊かな自然に育まれた人々。そんな恵まれた環境の下、教育や研究に携わることのありがたさを実感できる毎日の生活です。


巻頭言 147号

生まれ故郷 "小見(おみ)"

山 下 清 胤〈84回〉

略 歴
  • 1972年 富山高等学校卒業
  • 1977年 京都大学工学部卒業
  • 同 年 三協アルミニウム工業㈱ 入社
        以後、同社 商品開発、技術開発企画、
        経営企画、人事部長 及び 
        三協・立山ホールディングス㈱ 
        人事部長、経営管理部長、経営企画部長
                      等を経て
  • 2011年 三協・立山ホールディングス㈱
        取締役 経営企画統括室長
  • 2012年 三協立山三協マテリアル社 社長
  • 2013年 三協立山㈱ 代表取締役社長(現任)
        管理主事
  • 2015年 ㈱チューリップテレビ代表取締役社長
        (現任)

 仕事柄いろいろな人と会う。また、会食なども多い。そういうときによく「どちらの出身ですか」と聞かれる。「富山県です」と答えると、「富山県のどちらですか」とまた聞かれる。今は合併で富山市になっているが、昔で言うと上新川郡大山町小見(おみ)の出身である。ところがその地名を言っても分からないことが多いので、「立山山麓スキー場の近く」とか「富山地方鉄道立山線の、昔は小見、今は有峰口といって有峰ダムや薬師岳登山の入り口駅がある村」と答えている。  
 お会いする人であまり山奥出身者がいないせいか、この山村の話は結構興味深く受け取られる。そこで、今回は私の生まれ故郷の“小見”について書いてみようと思う。  
 前述のとおり立山山麓スキー場が近く、スキー場から自宅前までずっと4kmほどの下り坂。小学生の頃、道路は全く除雪されていなかったので、いつもスキーを履いたまま30分程かけて滑って帰るのが楽しみだった。  
 また、冬は玄関前にウサギの足跡とフンがあった。昔は今と違って里山が管理されていて人間と獣たちの境界がしっかりしていたせいか、熊やイノシシや猿などが村にまで出てくることは無かった。しかし、小学校のとき、授業中にボーッと校庭越しに遠くの山を見ていると、秋で木々の葉っぱが落ち見通しの良くなった山肌を熊がゆっくり歩いているのが見えた。今思うと夢なのか本当なのか定かではないが、退屈な授業中の思い出である。  
 映画にもなった「剱岳点の記」に登場する山岳案内人の宇治長次郎は小見近郷の和田(当時は小見と同じ大山村)の生まれである。この映画が評判になり村の墓地に新しく宇治長次郎の墓が建てられた。毎年、お盆には小見に墓参りに行き、その際に私の母の実家の墓にもおまいりすることにしているが、その墓の後ろにあった空き地に宇治長次郎の墓が建っていた。そこは母の実家の土地であったが、そうとは知らず、ただ、「空いているから大丈夫」と思ったのであろう。その墓ができた後、県知事もお参りに来られたそうである。母の実家の叔母さん曰く、「人の墓だし、いまさらずらせとも言えんわ」とのことで、そのままになっているが、ある意味おおらかな村の人たちの話である。  
 小見に持専寺というお寺がある。そのご住職から聞いた話だが、豊臣秀吉の時代までは現在の富山市梅沢町にあったという。秀吉が本願寺の勢力強大化を嫌って採った策により、その後の東・西本願寺分派につながる内紛が起きた。持専寺十世正宗のその内紛に対する行動が秀吉の逆鱗に触れ、時の富山城主前田利長に持専寺制裁の厳命がおり、結果として正宗は慶長2年(1597年)7月6日に“いたち川原で斬首獄門”になる。後日その子供が夜陰に乗じて晒し首を盗み常願寺川に沿って上流へ上流へと逃げ、たどり着いたのが小見の地だった。そこで首級を埋め草庵を建てたのがこの村のお寺の始まりとのことである。その後、昭和になって首塚碑が建立され今も毎年7月6日には法要が営まれている。当時は小さな集落だったと思われるが、そこには宇治長次郎や私のご先祖がいたのであろうか。以上は、現在の持専寺住職 梅澤昭俊氏が自費出版された「持専寺の歴史」を参考にした。  
 同窓会会報の原稿依頼には、「内容は自由」とあったので、富山高校とは全く関係の無い話を書きました。まだまだ小見の思い出は尽きませんが、このあたりにしておきます。


巻頭言 146号〈創校130年記念号〉

ご挨拶


    富山県立富山高等学校創校130周年・同窓会設立100周年記念事業実行委員会委員長
    同窓会会長 犬 島 伸一郎〈70回〉

 ことし1月25日、私たちの母校「富山高等学校」の前身・「富山県中学校」が、明治18年に富山県初の中学校として開校されてから130周年を迎えました。
 この「富山県中学校」開校の背景に、「自分たちはさらに学びたい、しかし、学ぶ場が無い」と、自分たちの卒業式に臨席した、現在の県知事にあたる当時の県令に、卒業する小学生たちが、口々に中学校設立を直訴し、その声に若き県令が応え、多くの県民も支援を申し出た事実があったということであります。  
 「富中富高100年史」によりますと、学校設立の前年・明治17年当時、他県には、県立の中学校があったにもかかわらず、富山県にだけは無かったとあります。  
 このような状況を、1日も早く改めて欲しいという、小学生や県民の熱い思いと行動が、当時の厳しい財政状況のなかで、極めて短期間で学校を開校させる原動力になったのだと思います。  
 こう考えますと、私たちは、あらためて深い感動を覚え、「創校の志」とされる「学びたきもの集う」の意味が、よく理解できるのであります。  
 従来、10年ごとに母校が創校を謳って、自ら実施してきた記念事業を、今回は、同窓会が100周年にあたることから、共同で実施するというかたちにいたしました。  
 本日、めでたく記念式典をはじめとして記念講演会、記念音楽会などの諸行事を行うことができる運びとなりましたのは、ひとえに、記念事業実施のための募金に快く応じてくださった方々をはじめとする同窓生の皆さまがたのご協力と、富山県ほか関係各方面のご支援のおかげであり、あつくお礼申しあげます。  

 今回の記念事業は、ひとこと口にするだけで、世代が違っていても、お互いに、同窓生であり、信頼しあえる仲間であることを確信できる「慎重敢為」という校訓のもとで学んだ多くの同窓生の事績や活躍ぶりを広く紹介することを中心テーマといたしました。  
 3万人を超える同窓生のなかには、国内・海外を問わず、各界で優れた業績を収めた方、目覚ましい活躍をされた方が多数おられるわけでありますが、それらの方々の業績と人物像に焦点を当てて紹介する記念誌を発刊するほか、本日の記念講演会と記念音楽会の講師・演奏者には現在活躍中のお二人の同窓生をお招きしました。  
 またこのほかにも、従来の記念事業同様に母校の教育環境向上のための協力・支援事業もすすめており、すでに全教室へ電子黒板等のICT機器の設置を終え、授業で活用されているところであります。  

 本日は、同窓生・在校生の皆さまが、互いに「太郎丸の杜」で学んだ者同士の絆を確認し、それぞれの立場で活躍を誓いあう機会にしていただくようお願いするとともに、母校の益々の発展と、同窓会およびむつみ会の会員ならびに教職員の皆さまのご健勝とご多幸をお祈りし、実行委員会委員長としてのご挨拶とさせていただきます。


巻頭言 145号

創校130周年を契機にいっそうの魅力アップを図る

富山高等学校長 木 村 博 明

略 歴
  • 昭和60年 富山県立魚津工業高等学校 教諭
  • 平成 1年 富山県立魚津高等学校 教諭
  • 平成 6年 富山県未来財団 主任
  • 平成 9年 富山県教育委員会生涯学習室
         社会教育主事
  • 平成11年 富山県立泊高等学校 教諭
  • 平成13年 富山県教育委員会教職員課
         管理主事
  • 平成16年 舟橋村立舟橋中学校 校長
  • 平成19年 富山県教育委員会県立学校課 主幹
  • 平成20年 富山県教育委員会生涯学習・文化財室 班長
  • 平成23年 富山県立入善高等学校 校長
  • 平成25年 富山県教育委員会生涯学習・文化財室 室長
  • 平成27年 富山県立富山高等学校 校長

 本年4月から校長として本校に赴任いたしました。  

 正門の桜並木をはじめ、前庭や中庭、校舎至るところに大樹があり、四季折々に自然とふれあうことができる憩いの空間や百周年記念館、北辰会館など充実した施設、そしてこうした最高の学習環境の中で勉学に励む生徒の姿に、改めて本校の歴史と伝統の重さを感じています。  

 明治18年に富山県中学校として誕生して以来、幾たびかの変遷を経て、本年度、創校130周年を迎えます。富山県で最も長い歴史と伝統を持つ本校は、「学びたきもの集う」を創校の志とし、「慎重 自ラ持シ 敢為 事ニ当ル」の校訓のもと、生徒や県民の願いに応え、国内外で活躍する数多くの人材を輩出してきました。教育を取り巻く課題はいろいろありますが、本校の創校の志とともに伝統と歴史を受け継ぎ、保護者から信頼され、地域の誇りとなる学校にしていきたいと考えています。  

 さて現在、「一人ひとりの生徒がより高い目標を掲げ切瑳琢磨しながら、自らの能力や個性を最大限に伸ばし、将来の可能性を広げることができる学校」にするべく取り組んでいるところですが、創校130周年を契機に富山高校のいっそうの魅力アップを図るため、  
・(1)一人ひとりの確かな学力を育てる、学び教える教科指導等の充実  
・(2)科学的な思考力や探究力を育てる、課題解決活動等の充実  
・(3)人間関係形成能力、自己管理能力、将来設計能力等を育てるキャリア教育の充実  
を重点課題として全校職員で取り組みを進めています。特に本年度より全クラスに設置されるICT(電子黒板)を活用した授業を計画的に行うとともに、昨年度から実施しているアメリカ研修等の充実を図る他、少人数指導やティームティーチング等のきめ細かな指導をいっそう推進していくこととしています。  

「志ある者は 事ついに成る」との言葉があるように、志を立てることはすべての始まりです。生徒の皆さんには、より高い目標を持ち、それぞれの目標達成に向けて日々努力されることを期待しています。


巻頭言 144号

スポーツには世界と未来を変える力がある
―オリンピズムとパラリンピズムの4人の父の意思を受け継ぐ―

布村 幸彦  85回

略 歴
  • 1973年 富山高等学校卒  東京大学法学部卒
  • 1978年 文部省入省 、文部科学省生涯学習政策局政策課長
        大臣官房人事課長を経て
  • 2005年 大臣官房審議官(初等中等教育局担当)
  • 2009年 スポーツ・青少年局長。初等中等教育局長、
        高等教育局長を経て、
  • 2014年1月より現職
    公益財団法人 東京オリンピック・パラリンピック
           競技大会組織委員会 常務理事/副事務総長

 富中富山高校は「学びたきもの集う」の創設の志の下、文武両道の精神を受け継ぎ、平成27年130周年を迎えます。近代オリンピックは、1894年パリでのオリンピック復興国際会議、1896年アテネでの第一回大会開催から120年を刻んでいます。パラリンピックは、1960年ローマ大会後に国際ストーク・マンデビル競技大会(第一回パラリンピックの位置付け)が開催され、1964年東京大会後に公式にパラリンピックと称して開かれ半世紀となります。我が母校同様、近代オリンピック・パラリンピックともに永い歴史を有し、変革を重ねていますが、ここではオリンピック・パラリンピックの創設者の足跡の一端を辿って、スポーツの力について考える一助にしたいと思います。  

 近代オリンピズムの生みの親《クーベルタン男爵》は「卓越、友情、尊敬」をキーワードとしてオリンピズムを提唱しており、教科書で「オリンピックで重要なことは勝つことではなく参加することである。」という言葉が有名です。その言葉は更に「人生で重要なことは勝利することではなく闘うことである。その本質は打ち克つことにではなくよく闘ったことにある。」と続いています。仏の教育者ならではの言葉で、結果のみに捉われず活動の過程や意思・意欲が大事であると問いかけています。  

 クーベルタンと同時期にスポーツの力を教育活動に活かそうとした日本人教育者がいます。《嘉納治五郎博士》は柔道の創設者として有名ですが、東京高等師範学校長として体育活動を男女ともに採り入れ、学生が卒業後全国の学校に体育を拡めたようで、学校体育や部活動、女子スポーツの生みの親でもあります。嘉納はクーベルタンのオリンピズムに共鳴してアジア初のIOC委員となり、「日本のオリンピック運動の父」と称されています。「精力善用、自他共栄」(すべての力を最大限に生かして社会のために善い方向に用いること、相手を敬い感謝することで信頼し合い助け合う心を育み、自分だけではなく他人とともに栄える世にするという意味)が嘉納の真髄です。書き進めていると、これらの精神と校訓「慎重」「敢為」と通ずるものがあります。  

 パラリンピズムにも英国と日本に二人の父がいます。かつて日本で《中村裕(ゆたか)博士》が身体障害者のリハビリにスポーツを取り入れようとした時「障害者は家でおとなしくしているものだ。障害者を晒しものにするのか」という声が上がったそうです。中村氏は整形外科医として英国ストーク・マンデビル病院に《ルードヴィヒ・グッドマン博士》を訪ねました。グッドマン博士は第二次世界大戦で脊髄を損傷し下半身麻痺の兵士の精神的肉体的リハビリのためにスポーツを採用しました。ストーク・マンデビル競技大会が拡大しローマ、東京でのパラリンピックに受け継がれました。グッドマンに学んだ中村は帰国後、大分県別府市の「太陽の家」を拠点に、障害者スポーツの振興に心血を注ぎ、昭和36年に第一回大分県身体障害者大会を開催し、東京パラリンピック大会では選手団長を務めました。  

 標題の言葉は東京五輪五十周年の昨10月10日に2020年大会のビジョンの骨子案として掲げたものです。その後に「1964年日本は変わった。2020年世界を変えよう。」と続けています。  

 2020年の大会は、①スポーツだけではなく、文化・教育なども推進、②東京だけではなく、被災地をはじめ日本、世界すべての地域の発展の契機に、③2020年大会の成功だけでなく、2020年後に有形・無形のレガシー(遺産)を日本に、という理念で進めています。富山、日本全国からの御支援をお願いします。


巻頭言 143号

生徒を見下さなかった母校

犬島 肇  72回

略 歴
  • 昭和35年 富山高等学校卒
  • 昭和39年 東京教育大学文学部国語国文学科卒
  • 昭和39年―49年 富山県立高岡高等学校教諭
  • 岩瀬から公害をなくす会」創設、富山県公害被害者
    連絡会議事務局長
  • 昭和54年富山県議会議員当選、
    以降、6期24年富山県議会議員として
    富山県総合開発審議会委員などを歴任。富山県参与
  • 平成12年 富山八雲会創設に関与
  • 平成14年 社会福祉法人・とやま虹の会理事長
  • 日本海北前ロマン回廊構想実行委員会事務局長

 昭和35年富山高校を卒業して上京直後、ミュンシュ指揮ボストン交響楽団、年末にはジュリーニ指揮イスラエルフィル、翌春にはバーンスタイン指揮ニューヨークフィルを聴いた。次々に世界第一級の指揮者たちの姿に直接触れていったが、その根っ子には、高校三年間の生活があった。 当時、吹奏楽部と弦楽部が年に一度合体して、オーケストラを編成していたのである。演奏した曲は高水準のものばかりで、モーツアルトのヴァイオリン協奏曲第五番「トルコ風」、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第一番、グリークのピアノ協奏曲…等々、眼高手低の傾向もあったろうが高い志をもつ営みであった。  

 埼玉県出身の同級生に「俺の出身校にはオーケストラがあるんだ」と言ったところ、激しい反発にあった。「嘘を言え。高校生のオーケストラなどは日比谷高校くらいにしかないよ」というのである。  

 この瞬間、僕はそんなに高い文化水準をもつ高校生活を楽しんでいたのかと、改めて痛感したものである。なかなかハイブロウ(highbrow)な学校生活を楽しんでいたのである。  

 授業では、一年生の時であったが、社会科の金山先生が1917年のロシア革命、レーニンのネップ(新経済政策)、ケインズ経済学の概要などを熱っぽく語った姿も忘れ難い。音楽の大間知先生が国際的な大ピアニストであるウィルヘルム・ケンプを招いて電気ビルで演奏会を開催したのよ、と楽しげに語ったことも鮮烈に記憶している。数学は不得意であったが、黒沢先生の授業は一瞬たりとも油断や、うたた寝ができなかった。  

 三年生の時の十月のある日(その前日、全学連の学生たちが国会正面に突入した)、中川先生が中国の大作家・魯迅の『藤野先生』に触れ、顔を赤らめながら、日中友好の歴史の一齣を語っていた。  

 こうして富山高校の三年間、僕は音楽に耽溺し、美を求める感性を育み、日本と世界を見る眼の基礎を学んだ。相手はたかが高校生じゃないかと見下したり、手抜きしたりすることのない、真剣な授業が少なくなかった。高校生の年齢ともなると物事に敏感である。いい加減な授業や、「適当」に進められていく時間に対しては、拒否的な嗅覚が働くものだ。  

 二年生の頃だったか、夏休みの宿題に小泉八雲の『怪談』の対訳本や、旧制富山高等学校以来から富山大学文理学部に在籍する教官が作成した基礎英語の参考書も与えられた。  

 僕の家は旧制富山高等学校があった富山港線蓮町駅に近い。登下校時には富山大学の校舎が見えた。小学生のころから、蓮町のこの学校に小泉八雲の英・仏・和の約2500冊に及ぶ全蔵書を収めた『ヘルン文庫』のあることを知っていた。  

 富山高校は、地元の旧制富山高等学校以来の教育・文化の伝統に関わっているのだという感慨のようなものが胸中に去来した。祖父が旧制富山高等学校の尋常科の生徒たちのための寮(「三計塾」)を建設し、経営にあたっていたことも手伝ったのかもしれない。  

 わが母校が受験競争に埋没せず、学校全体をおおうエートスに於いても、また部活動に於いてもユニークで、高水準の内容を誇るOnlyOneの学校であり、「地域に根差しつつ世界を見つめる」学校であってほしい、との思いには切なるものがある。


巻頭言 142号

いのちの流れ

黒澤 景壽  58回

略 歴
  • 1945年3月 富山中学校(旧制)4年卒業
  • 1950年3月 金沢高等師範学校卒業
  • 1950年4月~1964年3月 富山高等学校勤務
  • 1964年4月~1987年3月 県教委、高岡・芳野中学校
               富山・堀川中学校
               入善高等学校勤務

  • 1987年4月~1989年3月 富山高等学校 校長
    その後  北陸学院中・高校 校長
         アームストロング青葉幼稚園 園長・理事長
    現在   優遊閑居

 富山高校は近く創立130年を迎えます。2013年は、富山県立富山高等学校と校名改称から60年になります。校名の改称に合わせ校章・校旗・女子制服を制定していますから、一校の創設に相当する変革です。したがって、新設校であれば創立60周年に当たります。そのようなこともあり、歴史・伝統に想いを馳せるこの頃です。

 11月下旬のある日、久しぶりに富山高校を訪ねました。正門を一歩入ると、いつもながらの学び舎に相応しい静謐な空間が拡がります。一群の松は前校舎建築の際に植樹され、この庭園は富山県の造園事業として最初期のものといわれます。これらの松の中には1971年火災で木質部が焼け樹皮だけ残して40年余、いまなお青々と葉を繁らせているものがあります彼は何を語り伝えようとしているのか、と考えます。 視線をめぐらすと「太郎丸の杜」は些か疎になった感があります。第二の「太郎丸の杜」づくりの努力もなされているようです。グランド南側遊歩道沿いに植えられた若木は、4年前訪れた時に較べ格段に逞しく育ち、寒風の中に凛として立っております。

 石川県立美術館で開催された日本伝統工芸展を観にいきました。第60回で350を超す出展作品に圧倒される思いです。巨大な栃の根の部分を用いた作品がありました。作者はこの素材とどのように出会い、どのような思いで鑿をふるったものか、と考えます。籃胎蒟醤十二角食籠「蝶蜻蛉」という作品の前で足が止まります。木地の代わりに竹を組み、漆を塗り重ね、彫ったところに別の漆を充填するといった工法が用いられたようで、形・色合いが柔軟な感があります。

 そこに素材を緻密に編み、漆を塗り・彫り・研ぎを重ねていく、作者の心と技との結合があります。伝統とは単に墨守・継承ではなく、創造の血が滲むような工夫・努力である、と痛感いたします。

 私が尊敬する岡島正平先生──富山中学35回卒、第21代校長──は、よく「学校にはいのちの流れがある」と語られました。いのちの流れには宗教的、生物学的にも様々な解釈がありましょう。中村桂子の説く生命誌にもその響きがあり心惹かれます。学校のいのちの流れというと、音高い大河の流れだけでなく、伏流水・地下水脈をも連想します。これらの思いに応えるように、先生は「形成」45集で述べます。「川の流れが岸を洗い、岩を噛むように、私どもの生命、民族の生命の流れは生活の隅々まで浸し、幾度かの困難をも乗り超えてゆきます。

 悲嘆を乗り超え、運命を切り開く力がなくては、生命とは言えますまい。この生命の力が、つねに活き活きするように手助けするのが「教育」であります。」さらに「私自らはこの生命の流れが『死に耐える』ことを期したいのですが、如何でしょうか。老人の誇りをもって、自律ある生活を生きぬきたいのです。

 それではどのようにこの生を価値あらしめますか。それが日々の課題です」この言葉に私は粛然と沈思いたします。


巻頭言 141号

置県130年 学びの場への願いに応えて

学校長 木 下   晶

略 歴
  • 昭和55年 富山県立滑川高等学校教諭
  • 昭和57年 富山県立富山中部高等学校教諭
  • 平成 2年 富山県教育委員会生涯学習室研究主事
  • 平成 7年 富山県教育委員会指導課指導主事
  • 平成11年 富山市立呉羽中学校教頭
  • 平成13年 富山県民生涯学習カレッジ副学長
  • 平成16年 富山県教育委員会学校教育課主幹
  • 平成18年 富山県立泊高等学校長
  • 平成20年 富山県立南砺総合高等学校
         福野高等学校校長
  • 平成22年 富山県教育委員会生涯学習
         文化財室室長
  • 平成23年 富山県教育委員会教育参事
         県立学校課課長
  • 平成25年 富山県立富山高等学校校長

 本校に赴任し、改めて広大な敷地を囲む亭々たる富高の杜の偉容や、百周年記念館・北辰会館など充実した施設群、そして勉学に部活動にいそしむ本校生など、時代を超えて変わらぬ学び舎の姿にふれるごとに感慨深いものがある。 本年は明治16年(1873年)の富山県の置県から数えて130年に当たる。明治15年の米澤紋三郎の分県請願は治水の要望を掲げて有名だが、その前年、明治14年の砺波出身の石崎謙の請願には、分県理由として治水とともに教育への求めがあった。

 明治当初から越中の各地には、教育の場を求めて小学校が生まれる一方、卒業後の県内進学は限られた。明治10年に郡立の致遠中学校が富山師範学校内に創られが、石川県の郡制改変により財政基盤を断たれ、県立への移管もかなわず廃校にいたった。 明治16年の富山県独立後、小学校卒業式に列席した国重正文県令に、卒業生10が県内進学の場を求め、感銘した県令が県議会に諮り中学校設置を決めたこと、設置に当たって県予算3000円に対し民間からの寄付が7000円を超え、校舎敷地提供もあり明治18年に本校が創校したことなど、学ぶ場を求める人々の願いがいかに高かったかを端的に物語っている。

 本校の創設以降、県内には続々と中学校が設置され、明治・大正・昭和・平成と時代を通じて、専門学校、高等教育機関、そして、日本海側最大級の総合大学富山大学の設置など、学びの場を創り育てる努力が、官民をあげ一貫して続いてきた。    その間、本校は県民の期待に応え、国内外で活躍する数多くの人材を輩出してきた。本校出身者で教員だった南日恒太郎が、旧制富山高等学校の初代校長となり、弟の英文学者の田部隆次、田部重治とともに世界的な知の財産であるヘルン文庫を設置し、高田力をはじめとする優秀な教員と生徒を集めたことは象徴的である。

 さて、現在本校は、普通科5、理数科学科と人文社会科学科各1の計7クラスで学年を構成している。課題探究活動や、専門的な学習、進路に応じたより高度な学習に取り組み、着実に成果をあげてきた。

 また、本年度から生徒の力をいっそう伸ばすため、科学教育でも成果があるピア・インストラクションによる指導の充実を図っている。授業や学級活動等での生徒の相互活動を促進するなど、学習活動の高度化と学習定着度の向上に取り組んでいきたい。

 生徒諸君が、こうした学習の成果を生かし、主体的な進路選択とともに、明日の社会を担う有為の人材に成長することを期待している。

 創校以来128年を迎えるが、この間は1年たりとも安閑とした年はなかったといえる。常に時代や地域の課題と向き合い、生徒の成長のために努力を重ねることによって形づくられてきたのが、本校の歴史と伝統である。

 現代において教育を取り巻く課題はさまざまあるが、本校の生徒・教職員の力を生かし、ともに労を惜しまずに取り組むことで、乗り越えてゆくことができると確信している。

 緑なす樹木や校舎のそこここに息づく伝統と歴史を私たちの力とし、今後とも生徒の願いをかなえる学校、保護者から信頼され、地域の誇りとなる学校として充実を図ってまいりたい。


巻頭言 140号

宇宙の始まりのそのまえ

関  亮一   70回

略 歴
  • 1958年 富山高等学校卒業
  • 1962年 早稲田大学第一理工学部卒業
  • 1968年 Northeastern大学大学院(博士課程)修了
  • 1969年 California State University,
        Northridge校着任
        Assistant Professor (助教)
  • 1972年 Associate Professor(准教授)
  • 1976年 Professor(教授)
    現 在 京都市と米国ハワイ州コナに在住。

 富山高校、早稲田大学を卒業したあと、アメリカに渡ってからもう半世紀になる。その間、大学院修了後ロスアンゼルス郊外の大学で40年余り物理の教育と研究をやり、数年前70歳で自由の身となった。しかし、物理しかやったことのない無趣味の身には、第二の人生と言っても気のきいたことが見つけられるわけがない。隠居の慰めとすることと覚悟した。

 研究は原子核理論物理をやってきた。原発・原爆の物理ではく、「どのように原子核が造られていて、それはどうしてなの?」といった問題を相手にする学問である。

 この分野は一世紀少し前にはじまって、今は細かな話が多く隠居の慰めとしては面白くない。で、どうせやるならやったことのないスケールの大きな話、宇宙論をやることにした。

 アメリカでは引退年齢がない。人種・性別・年齢は完全無視、とする法律が制定されている。その上、私が働いた州立大学は、仕事はきついが、引退後大学で5年間パートとして続けることを許可してくれる。

 私は65歳での引退をきめ、パートの5年間に隠居のための準備をした。隠居の慰めといっても、物理である限り、特定の問題を考え計算をして観測データと比較することになる。

 いま私のやっているのは、以下に出てくる軽原子核合成と宇宙背景放射の情報との例外的な不一致を問題にした、依然として原子核がかかわった問題である。が、ここでは技術的なこの問題ではく、宇宙論に付随した話をしてみたい。

 現代の宇宙論である「ビッグバン宇宙論」によれば、宇宙は140億年ほど前に爆発的に始まり、その後、膨張し続けてきた。この理論は、宇宙の膨張の観測と、宇宙に一様なマイクロ波の背景放射の観測、更には軽原子核合成理論が予言する存在比の観測によって確証された。

 年代順に言えば、宇宙は140億年ほど前に始まり、軽原子核合成はその数分後に起き、背景放射は38万年後に発生し、現在もなお膨張を続けている。これが、ここ半世紀に人類が得た宇宙創成の知的遺産である。どいが、観測によって確証された知識である。

 しかし、宇宙の始まりそのものは現在の物理では解明不可能である。始まりに近い宇宙は想像を絶する高密度と高温度(高エネルギー密度)の状態で現在の素粒子物理では不確かな世界である。宇宙論の基礎となっている一般相対性理論によれば、その世界では非常に強い重力による極端な時間・空間のゆがみが起きている。 解明不可能といったが、いろいろな理論、推論はあるが、実証がない。始まりの後の10の10乗分の1秒以降くらい、温度が10の15乗度以下くらいの宇宙の組成はヒッグス粒子が支配する(実証されている)素粒子理論で記述されると考えられており、保守的かもしれないが、多分このあたりから確かな宇宙が始まったとしてよいと思う。

 人は、始まりの詳細がわからなくても「その始まりの前は?」と考える。「宇宙の始まりの前はなんだったのだろうか?」と尋ねる。しかし、これはむしろ「始まりの前そのものはあったのだろうか」が、適切かもしれない。 つまりは、上述の極端な時間・空間のゆがみを超えた「その前」が存在したのか、ということであり、「時間とは何か」という問題に帰着する。「時間」の問題は超難しい。まじめな話、例えば、「どうして時間は一方方向にしか流れないのか」は物理学で未解決の大問題である。

 話を主流に戻そう。英才スティーヴン・ホーキングによれば、この「始まりの前」の質問は、「北へ北へと向かって行くと北極に到達する。しかし、北極のさらなる北はどこだろう」と同じという。この答が正しいのかもしれない。もしこれが答えになっているとすれば、である。

 別の宇宙論にも同じような話がある。「神は天と地を7日でおつくりになったが、神はその前は何をなさっていらっしゃったのだろう」という問いである。これには「神はそうした質問をする者のための地獄を準備されていた」という気軽な答えがある。しかし、4世紀の偉大な聖アウグスティヌスは『告白』のなかで、「神は(万物を)時間そのものもおつくりになったのだ」と答えたと云う。いずれの答えも釈然としない。これは凡人の常なのだろうか。


巻頭言 139号

インドに関わって

岩田 紘行  75回

略 歴
  • 1963年 富山高等学校卒業
  • 1967年 慶応義塾大学国際関係会
        年間交換留学生としてインドへ留学
  • 1969年 大日本印刷㈱外国部入社
  • 1975年 同社NYC駐在員として 渡米
  • 1983年 同社アメリカ会社DNP AMERICA NCシカゴ支店長
  • 1989年 帰国、大日本印刷㈱市ヶ谷事業部勤務
  • 2009年 公益財団法人 日印協会 催事担当
        プロジェクト・プランナー 現在に至る

 昨年11月、富山高校卒の同期(75期)6人で鎌倉散策に出かけた。我々は卒年時が「38豪雪」の年であることから同期会を大雪会(たいせつかい)と名付けた。台風が接近中、最悪のお天気にも拘わらず、ずぶ濡れになりながら1万歩以上を歩き、「思い出に残る一日だったね!」と大いに盛り上がった。その散策の道すがら墓石を見ながら、凡字(古いサンスクリット語)や慈愛と平和に満ちた密教仏を拝見し、鎌倉の歴史と文化に想いを馳せた。

凡字は西暦736年にインドから来日し東大寺大佛の開眼式で導師を務めた菩提僊那(ボダイセンナ)が伝えたものと言われている。そして、鎌倉武士団が精神的にすがる気持ちで仏像を拝んだのは、あの蒙古襲来の為ではなかったでしょうか。そんな事を思い巡らしながら、現在の日本、自分自身の立場を考えるとインドとの縁の深さを感じる。

そもそも私がインドとの係わりを持ったのは、昭和42年(1967年)45年前、一年間の交換留学生(当時、母校慶応義塾大学とインドの大学との間に学生交換制度が有ったが現在は中断)として南インド・マドラス(現チェンナイ市)ロヨラ・カレッジへ留学したことから始まる。当時、海外への留学は一つの目標では有ったが、留学先がインドという選択で思案 していたところ、信仰深い富山県民気質の母の「お釈迦様の国だから、いいがやちゃ!」との言葉に後押しされ決断をした。

帰国後、大日本印刷の海外事業部へ就職し、数年後にアメリカ勤務を任命された。高校の時から大学時代を通してアメリカ人との付き合いは多く有ったので、すんなりとNY生活に入れた感じはあった。とはいえビジネスの世界、特に新市場開拓にはチャレンジが常に必要であった。特にアメリカの出版界・美術界はユダヤ系アメリカ人の牙城であり、「法と理と実利」の業界だ。あの「ベニスの商人」そのままの社会を体験した。あっと言う間の14年間だったと回想しているこの頃である。

帰国後9.11テロ事件を日本から傍観し、アメリカのイラク攻略、アフガン侵攻を見てきた。近年になりBRICSの経済発展に接し、これからはインドの世界だと感じた。そんな折、109年の歴史を誇る「公益財団法人日印協会」との縁があり職を得た。

日印協会の設立は、前年に日英同盟、翌年に日露戦争を控えて国策上戦略的なものであった。当時、極東及び中東では対ロシアが一大課題であった。ロシアに直面する国、インドと日本は民衆の力を結集すべきとの、大隈重信、渋澤栄一等の発案で設立された協会である。

今、立ち返って、日本が置かれている現況と類似しているとは思いませんか。東アジアでの中国の覇権を誇示する姿勢には注意が必要です。

インドは地理的には遠い国ですが、人々は仏教で繋がり精神的にはく、今でも自国の独立は日本のおかげだと教育している国です。 世界で最も親日国であるインドとの関係を再注目しては如何でしょう。


巻頭言 138号

世界の峻峰に魅せられて

黒田 敏彦  63回

略 歴
  • 昭和26年 富山高等学校卒業
  • 昭和31年 東北大学法学部卒業
  • 同 松下電器産業KK(現パナソニックKK)入社
  • 家電部門各事業部長、シンガポール
  • 松下無線KK、松下ウルトラテック
  • バッテリーコーポレーション(USA)
  • 各社社長を歴任
  • 平成4年 松下電器産業KK 定年退職
  • 平成7年 松下興産KK 顧問退任

「1998年7月25日午前8時35分、夢にまで見た憧れのマッターホルン(4478m)の頂を踏みしめた瞬間だった。頂の稜線からスイス側にあの有名な北壁が、イタリヤ側には南壁が1500m近くの落差で遥か彼方の氷河に切れ落ちている。周囲さえぎる物のない孤高の頂からは、ヨーロッパアルプスの名だたる峻峰が殆ど見渡せるまさに感動と至福のひと時だった。」

私が世界の山に挑戦しようと思ったのは会社人生を了えた63才の年である。旅行でたまたま訪れたツェルマット(スイス)やシャモニー(フランス)で受けた衝撃、真夏でも全山氷雪に覆われたヨーロッパアルプス4000m峰の峰また峰。ピラミダルな鋭峰、また針のように尖った鋭い岩峰群。これらを目の当りにした時は呆然自失、ただただ圧倒される思いで仰ぎ見ていたものだった。そしてそこは熟練したクライマーのみに許される領域であり、60才を越えた世代の人間には所詮縁のない世界という思いしかなかった。

しかし帰国後その思いがふと変わったのは脇坂順一氏(久留米大学医学部教授)の著書「七十歳はまだ青春」「八十歳はまだ現役」に出会った時だった。 70才でマッターホルン十登目、80才でモンブラン登頂、これまで登った海外の山150座。これは本当に衝撃的な本だった。ひょっとしたら今からでも遅くないかもれない。

著者を見習って日頃のトレーニングから始めてみよう。目標をもったトレーニングなら続けられるかもしれない。そしてヨーロッパアルプスの山に挑戦してみよう。このような思いが沸々と湧き立つのを止めることが出来なくなった。

まず手始めに近郊の山、そして夏の剱岳、穂高岳にも登ってみた。殆ど疲労を感じず、若い人に伍して順調なスピードで登れる。脚力は何とかなりそうだ。しかしヨーロッパの山は長い危険な氷河や氷雪に覆われた岩稜を、アイゼンをつけてスピーディに登下降できなければならない。ロッククライミングの技術も必要だ。更に未経験の4000m以上の低酸素帯でも耐える心肺力をもつけねばならない。

偶然関西在住のプロ登山家と知り合う機会があり、個人的に指導を受けることにした。近郊の岩場でのロッククライミング、北アルプス、南アルプス、中央アルプスでの夏冬を通しての実践的トレーニングを続けた。 

更にマッターホルン登頂のための試行ルートとして推進されている前穂高岳北尾根を2時間で登攀できたことは大きな自信になった。もちろん日常の筋肉トレーニングも近くのスポーツジムに連日通い続け汗を流した。

ただ問題は未知の領域である4000m以上の高所での適応能力である。これは実際にその高さに行ってみないとわからない。そこで最初にヒマラヤのカラパタール(5545m)に行ってみた。同行者の何人かは高山病で下山を余儀なくされる中、何の支障もなく登頂できた。ここから小生の世界の山への挑戦の人生が始まったのである。

ヨーロッパアルプス10座以上、世界各国4000m以上の最高峰30座以上の目標を、今年79才を迎えた年に達成することが出来た。
①ヨーロッパアルプス(モンブラン、マッターホルン等)13座 
②南米、北米(アコンカグア等)8座 
③ヒマラヤ(ヤラピーク等)2座 
④アフリカ、中近東、アジア(キリマンジャロ等)7座 

私もいつしか傘寿という歳になってしまった。果していつ迄このような登山を続けられるかわからない。しかしまだまだ無限の未知の頂への思い絶ち難く、日課になったスポーツジムへの足を止めることが出来ない昨今である。


巻頭言 137号

慎重敢為をモットーに

学校長 山崎 弘一

略 歴
  • 昭和53年 富山県立泊高等学校 教諭
  • 昭和57年 富山県立大沢野工業高等学校 教諭
  • 昭和62年 富山県立富山東高等学校 教諭
  • 平成 3年 富山県民生涯学習カレッジ学習専門員
  • 平成 5年 富山県未来財団 主任
  • 平成 6年 富山県教育委員会教職員課県立学校係 管理主事
  • 平成 9年 富山県教育委員会指導課高校係 指導主事
  • 平成11年 富山県教育委員会指導課育成指導係 指導主事
  • 平成12年 富山県立雄峰高等学校 教頭
  • 平成16年 富山県教育委員会 教育企画課 企画班長
  • 平成18年 富山県教育委員会 教育企画課 教育改革推進班長
  • 平成13年 富山県教育委員会 県立学校課
         教育改革推進班長
  • 平成21年 富山県教育委員会 県立学校課 課長
  • 平成23年 富山県立富山高等学校 校長

 創校126年目となる平成23年の4月8日。ようやく開花した桜並木の彼方に立山連峰を望む正門をくぐり、学びたきもの集う富山高等学校に入学した生徒は280名。

 太郎丸の地に学び舎を移してから110数年。この間、師弟同行、教師と生徒が一緒に植え大切に育ててきたという、マツ、ケヤキ、カエデ、エノキ、ハナミズキなど300本を超える樹木の整然と並ぶ様に、入学生一同、本校の歴史と伝統の重さを感じつつも、3年間の学びへの夢と希望に胸膨らませている様子がうかがえる。 着任したばかりの眼に映ったその光景は清新そのもの。 改めて本校の校長に任じられたことに大きな喜びを感じるとともに、背負うことになる責任の重さを実感させられた。

 さて本年度、本校には従来からの普通科に加え、新たな学科が開設された。 「探究科学科」と総称されるその新学科は「理数科学科」と「人文社会科学科」の2学科。理科・数学など自然科学の分野で探究的な学習を行う学科が理数科学科。人文・社会科学の分野で探究的な学習を行う学科が人文社会科学科である。

 両学科とも、思考力や探究力、表現力等の育成を柱に、「自ら設定した課題に基づき、仮説を立て、検証・分析などを行う探究的な研究活動」や「少人数のゼミ形式による専門的な学習」、「進路に応じたより高度な教科の学習」に取り組む新しいタイプの学科として開設された。 全国に先駆けて昭和43年度に開設された理数科の40数年間の実績と成果を踏まえ、そこで実践された学習活動の一層の充実と発展を目指している。

 県下一の長い歴史を有する本校は、在籍生徒数の大きな変動はもとより、設置学科の改編も幾度となく経験している。しかしながら学校の様がどう変わろうとも、「高邁な理想に向かって自ら考え行動できる優れた知性の育成」、「情操豊かな品格ある特性の陶冶」、「平和な国家・郷土の形成者たるたくましい体力・気力の養成」という本校教育に課せられた使命は変わらない。

 入学式と同日開催の始業式で在校生に贈った言葉は「Hopeisawishforsomethingtocometruebyaction」。本校における知徳体のバランスのとれた人材の育成を目指す教育の下、今後とも一人一人の生徒には、具体的な行動によって何かを実現しようとする明確な意志を持ち、勉学にいそしみ、また部活動や生徒会活動等にも励んでもらいたいと願っている。

 「慎重自ら持し敢為事に当る」をモットーに、同輩とともに高校時代を過ごされた同窓の皆さんの本校に寄せる思いには格別のものがあり、また本校の一層の発展を念願される気持ちも大変強いものと考えている。今後とも同窓の皆さんには、本校教育に対する一層のご理解とご支援を賜るようお願いし、着任に当たってのご挨拶としたい。


巻頭言 136号

苦難を超えて

藤田 康明  65回

略 歴
  • 昭和28年 富山南部高等学校普通科卒業
  • 昭和32年 富山大学経済学部卒業
         富山市役所勤務
  • 昭和38年 社会教育団体所属
  • 昭和59年 ケンユー社(健康美容関連品販売)代表
    現在 ソフトテニス、社交ダンス、老人福祉施設へ慰問などを実施
  • 著 書 『不死鳥の如く ある男の生きざま』
        (文芸社 2010)

 「村の渡しの船頭さんはことし六十のおじいさん~」は誰もが口ずさんだ童謡だが、今どきこの年では到底おじいさんとは言い難く、まだまだ働き盛りのイメージのほうが強い。 かくいう自分は既にこの年齢を越えること十有余年、すっかりおじいさんの仲間入りを遂げ、健康被保険者証も後期高齢者として鮮明に位置づけされているし、運転免許証更新時にはあらかじめ高齢者講習を受けなければならない部類に入れられてしまっている。

 更に現在、内と外の併せて七人の孫がいる身であるからには決して強がる訳にはいかないが、それにしてもおじいさんと呼ばれることにはいささか抵抗を感じてしまうというのが本音である。はっきり言って自分は年のことは全くといっていいほど気にしない。心はいつも青年のよう、つまり青春まっただ中である。とはいうものの実際のところ、誰彼問わず肉体は年と共に確実に老化していくことは否めない。当然脳細胞も同じであろう。だからといって慢心は禁物だが気持まで老化のお付き合いをしなければならない筋はなかろうと思うのだ。

 とにかく人生を明るく楽しく生きよう。笑う門には福来ると同時に健康も訪れる。或る医学博士でもある落語家が、癌患者に落語を聞かせて大いに笑って貰ったところ、病状が著しく改善されたと言っている。

 また人間の体内には誰でも毎日大量の癌細胞が発生しては消滅していくのだが、規則正しく穏やかな心で日暮らしをしていればそう簡単に発病に至るものではないとも説いている。 手前味噌になるかも知れないが、自分はテレビやラジオではニュースなど報道番組と共に落語などのお笑い番組が殊のほかお気に入りで、いつも辺りかまわず大声で笑いころげている。

 昨今はテニスに社交ダンス、そして時折り老人福祉施設などへアコーディオンを弾く先輩につれられて慰問に訪れ、ナツメロを唄わせて貰っている。

 しかしここに至るまでの人生はまさに苦難の連続であった。というより何度死の渕に追いやられたか知れなかった。元来生まれたときからひ弱な体で、学齢に達するまでに幾つもの伝染病を患いその都度入退院を繰り返さねばならなかった。極めつけは大学四年のときに腎臓結核にかかり、一時は治癒したかに思えたものの社会人になった直後に再発し、二度に亘る手術の末廃人同様にまでなってしまった。幸い奇跡としか思えない回復で娑婆への生還を果して今日に及んでいる。 そんな波瀾万丈のこれまでを、縁あってこのほど『不死鳥の如くある男の生きざま』と題して文芸社より出版させていただいた。

 これ以後も寿命という貯えがゼロになるまで、ぴろきではないが「明るく陽気にいきましょう!」と、ただそれだけを心して過ごさせていただく積りである。


巻頭言 135号

かかりつけ医・主治医

室生 勝 66回

略 歴
  • 1954年 富山高等学校 普通科卒業
  • 1960年 東京医科大学卒業
  • 1961年 東京医科大学第3内科入局
  • 1970年 東京医科大学霞ケ浦病院内科医長
  • 1976年 茨城県つくば市で室生内科医院開業
  • 1984年 県南地域医療懇話会設立
  • 1986年 県南医療福祉交流会(懇話会が毎年開催)発足
  • 1991年 つくば医療福祉事例検討会(月例)設立
  • 1995年 第2回Ciba地域医療賞(現ノルバティス地域医療賞) 受賞
  • 2008年 室生内科医院を閉院
  • 共 著 「地域の中の在宅ケア」
               (医歯薬出版1990年)
        「このまちがすきだから」
               (STEP 1993年)
    聞き書き「僕はあきらめないー町医者の往診30年ー」
    著  : 橋立多美、語り・室生勝(那珂書房2006年)
    E.mail: monnroo@orchid.plala.or.jp

 72歳10ヶ月で病院医15年、診療所医32年の臨床医生活に終止符を打った。一人医師診療所の32年間は外来診療の合間に在宅医療を行い、夜間、休日はかかりつけ患者さんには携帯電話(ポケットベル時代もあった)で対応した。

 節目の年を迎えて体力、気力の衰えを感じ、さらに長年共に働いてきた妻の健康を考え閉院を決意た。現場を離れて初めて自分が関わってきた地域医療、地域ケア、特に診療所医について俯瞰的に考えるようになった。その考えの一端を述べ、同窓の方々のご意見を伺えれば幸甚である。

 「かかりつけ医」(以下「か医」)という用語は十数年前から使われ始めたが、最近、厚労省が勧めることもあって新聞、雑誌等でよく目につく。 「か医」は近所のかかりやすい診療所医であろう。小児から高齢者まで、ありふれた疾患commondiseaseを臓器別でなく生活環境を考慮して予防から治療、リハビリまで全人的医療を目指し、患者さんへの十分な説明と患者さんが納得した診療を行い、往診や訪問診療、夜間、休日にも対応する。専門医との密接な医療連携のほか薬剤師、保健師、看護師、リハビリ職、介護保険関係職等と協調できる医師である。

 一方、「主治医」もよく使われる。最近は病院専門医を主治医、近所の診療所医をかかりつけの主治医とする人が増えている。病院専門医だけを主治医とする人もいてカゼなどちょっとした病気で病院を受診するらしい。これでは病院は混み、病院は役割を果たせない。commondiseaseは近所の診療所医にかかるべきである。

 全国的に地域医療連携が進んでいる。「か医」が病院医を紹介するときは診療情報提供書を書き、病院では診療情報を参考に診察、検査を進め、検査成績、診断、治療方針等を「か医」に伝え、切れ目のない医療を診療所医につなぐ。病院・診療所の双方向医療連携である。

 入院した場合は開放型病院であれば、「か医」は病院へ出向いて病院医と共同診療し、退院後の生活指導や医療を協議する。後期高齢者、難病、がん等では退院時共同指導を患者さんと家族に病院医、「か医」、病院看護師、訪問看護師、介護保険の介護支援専門員等が協働で行う。

 病院医が「か医」を紹介する病院も増えている。病院医は専門医主治医、診療所医はかかりつけ主治医である。脳梗塞、心筋梗塞、難病、がん等の慢性疾患の患者さんは病院主治医に3~6ヶ月毎の診察と高度検査を、かかりつけ主治医に月1~2回の診察、血液検査、処方等を受け、重複検査を避ければ医療費を節約できる。

 病院では各専門分野の医師、看護師等のチーム医療である。在宅で最期を迎える人たちが増えてくると、診療所の外来診療と在宅医療を一人の医師だけで24時間365日体制を維持できない。厚労省は在宅療養支援診療所に期待しているが、これとても複数医師態勢でないと機能しない。病院医と診療所複数医による複数主治医制は医療機関の役割分担だけでなく、診療所医は研修や休養の長期休暇が可能になる。

 commondiseaseの夜間休日救急医療には富山市のように行政と医師会の協働体制を整えるべきである。しかし、医師不足でそのような体制を敷けない地域がある。医学部・医科大学の学生定員を増やしてもすぐには解決できない。厚労省、医学会、医師団体等が協力して全ての医師を全国的に適正配置することが急務ではなかろうか。


巻頭言 134号

心に焼きついた言葉

小泉 邦子  67回

略 歴
  • 昭和30年 富山高等学校 普通科卒業
  •  〃   劇団文芸座入団
  • 昭和62年 富山県教育委員会優良芸術文化活動
         推進者表彰
  • 平成 8年 富山県芸術祭功労者表彰
  • 平成 0年 ハンガリー・デブレッツェン市
         チョコナイ(文化功労)賞
  • 平成 6年 富山新聞芸能賞
     〃   富山県功労表彰
  • 現在   劇団文芸座 理事
    とやまこども芸術活動支援協議会 副会長

 「映画がタダで見ることが出来る!」という誘いに惹かれ、映画演劇部に入った私は、演劇では先輩たちの演技に見惚れるだけの部活だった。 しかし今、顧みて伝統ある太郎丸演劇に籍を置いたことが、その後の私の人生を決めることになった。

 富山高校卒業後、地元の劇団文芸座に入団。同じ太郎丸演劇出身の夫とともに、時には息子や孫まで巻き込んだ家族ぐるみの演劇活動は、富山から全世界にどんどん広がっていった。 富山流にいうならば、“みゃーらくもん”と映るだろう。だが「よき劇団員は、よき組織人、よき社会人たれ。」という劇団文芸座の鉄則はしっかり守られた。 仕事を遣り繰りしながら、よく国際演劇祭に出掛けたことで、世界各地に演劇を愛し、平和を愛する多くの友だちが出来た。なかでも私が最も敬愛した人が、アメリカのモート・クラーク教授であった。

 「政治と宗教は人を分けるが、芸術は人を集める。」1983年秋、置県百年記念の富山国際アマチュア演劇祭の開催直前に、アメリカ発の大韓航空機が、サハリン沖合上空でソ連戦闘機に撃墜され、一触即発の戦争危機にさらされた。上記の言葉は緊迫した状況下の記者会見でのモートさんの発言である。 演劇祭事務局長だった夫とともに、そのとき県民会館3階会議室の記者会見に出席していた私は、この言葉を聞いた時の感動を終生忘れないだろう。

 モートさんは、ウエストチェスター・コミュニティ・カレッジ(ニューヨーク州)演劇科主任教授で、即興劇のエキスパートであり、オーソリティでもあった。 世界各地の演劇祭に、モートさんは必ず招かれ、そのユーモアとウイットに富む即興劇のワークショップは人気があった。いつも参加者で会場が一杯になり、笑いで盛り上がっていた。 例えば、不登校の生徒役を学校の教師にやらせ、先生役を生徒が演じたり、子供と親を入れ替えたり、動物を登場させたり…。これらを即興的に演じさせるのである。 即興劇は日本では馴染みが薄いが、欧米の演劇教育では必修であり、一般教育にも取り入れられるケースもあると聞いた。楽しく笑いながら、想像力が涵養され、また創造力の陶冶に繋がるのである。私は楽しい学習のお手本を見る思いがした。

 平和な国から参加した若者や子供たちが、モートさんの即興劇のワークショップで、満面に笑みを湛え、幸せそうに演ずる姿を見て、私は同じ地球に住みながら争いや貧困で教育を受けることの出来ない子供たちを、モートさんのワークショップに参加させてやりたい思いに駆られた。そして、いつも思うだけで終ってしまう冷酷な現実が虚しかった。

 テロや民族間紛争によって目を覆う惨状が報道される度に、モートさんが富山で言った「政治と宗教は人を分けるが、芸術は人を集める。」の言葉を思い出す。 モートさんは、この素敵な言葉を私たちの心に焼きつけ一昨年この世を去った。

巻頭言 133号

三度、太郎丸の地に

学校長  藤 縄  太 郎 

略 歴
           
  • 昭和48年 高岡市立高岡西部中学校教諭
  • 昭和49年 高岡市立下関小学校教諭
  • 昭和50年 上市高校教諭
  • 昭和58年 富山高校教諭
  • 平成 8年 指導課指導主事
  • 平成12年 富山中部高校教頭
  • 平成14年 指導課主幹
  • 平成15年 学校教育課主幹
  • 平成16年 魚津工業高校長
  • 平成18年 魚津高校長
  • 平成19年 生涯学習・文化財室長
  • 平成20年 県立学校課長
  • 平成21年 富山高校長

 木造の旧校舎で学んだ高校生の3年間、教員として勤めさせてもらった13年間に続きこの度三度目の太郎丸での生活が始まりました。高校時代の3年間は、右も左も分からず、また学校の雰囲気に本当の意味で馴染めないまま終わってしまった気がします。部活動もせず、輝かしい青春の記憶もなく、印象に残ったことと言えば、旧制富中の校歌を指導された厳しい応援団とあっという間に進んでいく先生方の難しい授業でした。

 私の教室は、現在の東門を入ってすぐのところにあり、すぐ向かいが土蔵になっていました。まさに今の百周年記念館のあたりでしょうか。担任は同窓会報の編集長をしていただいている牧野好男先生でした。そのころの私は、まだ精神的にも幼く、学習にも熱心な生徒ではなかったので、先生には、大変ご迷惑をおかけしました。

 旧校舎は残念なことに昭和46年の火災で焼失しましたが、わが1年9組の教室の辺りにあった図書館、土蔵、理科館、そして卒業時には完成していた第1体育館などいくつかの建物が残りました。記念館の庭に佇むと当時のことが瞼に浮かんできます。

 時は移り、私はこの学校に教員として赴任することになりました。校舎の様子も大きく変わり、母校とはいえ、その印象も薄いまま、担任として教科指導に明け暮れる毎日となりました。当時、食堂は今の北辰会館の位置にあり、昔のままの佇まいでした。そしてその隣りにはミルクホールという聞き慣れない名前の建物が建っていました。そこには売店もあり、文房具やバッジ・リボンの販売も行われていました。

 でもこの建物、よく見ると、どこかで見たような気もします。窓枠が階段状になっていることを手がかりに確認してみると、昔の音楽室が移築されたとのことでした。その音楽室は、現在の後棟と第二体育館との間の辺りにあり、本館から離れた別棟になっていたため、類焼を免れたようです。木造校舎のうちで奇跡的に残った唯一の物です。自分の学んだ校舎の一部が残っていることに感慨深いものを感じました。更に音楽担当であった清水キヨ先生の指導のもと、イタリア民謡を歌った記憶も蘇ってきました。 そしてこの春、前提の桜に迎えられるようにして、母校に校長として着任しました。

 「学びたきもの集う」本校には、学ぶ意欲に溢れた生徒諸君が毎年入学し、その目標に向かって勉学や部活動に取り組んでいます。「学びたい」という強い意志をもって高校生活を送られた同窓の諸姉諸兄には、とりわけこの学校に寄せる強い思いがあることと思います。仲間と共に過ごされた学校生活の思い出の中には、太郎丸の杜にある樹木や校舎の面影がしっかりと刻み込まれていることでしょう。また在校生諸君は、目の前の課題の処理に追われるなど、大変な日々の連続になると思いますが、本校が標とするバランスの取れた全人教育のもと、いろいろな活動に積極的に参加し、記憶に残る一コマ一コマを高校時代に、この太郎丸の地で刻んでくれることを願っています。

  同窓の諸姉諸兄には、本校が今後とも若き有為な人材の育成に全力投球することをお誓いしたいと思います。 そして本校教育がより一層充実したものとなりますよう、本校への益々のご理解ご支援をよろしくお願い申し上げ、ご挨拶といたします。


巻頭言 132号

教師冥利のわが生涯

上杉 重章 53回

略 歴
     
  • 昭和16年  旧制富山中学校(現 富山高校)卒業
  • 昭和23年  東京文理科大学(現 筑波大学)国語
  • 国文科大学院修了
          並行して22年より高岡高校勤務
  • 昭和24年  富山高校勤務
  • 昭和43年  富山県教育委員会指導主事
  • 昭和51年  富山東高校長
  • 昭和54年  新湊高校長
  • 昭和59年  富山県総合教育センター初代所長をもって退職
  • 平成 7年  富山市民大学講師等をつとめる(6年間)

 富中・富高スピリットは「慎重・敢為」に尽きると思う。少年時代から今にいたるまで、このことばは生きるためのすばらしい教訓であった。私はこの学校に勤務すること、およそ二十年、通学したのは五年だったから、その間の思い出は尽きることなく、きわめてなつかしい。だが、昭和38年「能研テスト」が施行され、それよりして「偏差値」がとりいれられ、爾来、学校からは人間味がすこしずつ薄れてきたように思われる。

 本校卒業の方々は、その後実社会において中枢の仕事をなさり、同級会に招かれたりすると、皆いい顔をして見え、教師冥利に尽きる思いがする。ただし私の記憶では、皆18歳のイメージのままだ。

 ところで、甲子園なる球場の設置されたのは大正13(1924)年、この年に私が生まれたから、あと数年で米寿を迎えることになる。しかして、もっとも最初の教え子の方は古希なかばを越えられた。

 この頃は眼に泌む蕾のいのちかな  秋比古

 小生定年60歳のときの詠。いまは老いを喞(かこ)つことしきりである。夏目漱石が「大患」直後の述懐に、天体の運行の長きに比して、われらの生は一瞬時を貪るにすぎぬゆえ、「はかないといわんよりも、ほんの偶然と評したほうが当たっているかもしれない」という。かれの43歳の謂(いい)である。

 これより約300年前、かの文豪沙翁は『マクベス』のなかで、「人の生涯は動きまわる影にすぎぬ。あわれな役者だ。ほんの自分の出場のときだけ、舞台の上で、みえを切ったり、喚(わめ)いたり、そしてとどのつまりは消えて亡くなる」と、妻の妃の訃報に接してのべた。沙翁42歳のときの科白である。私の年齢の半分のころに、偉大な精神はいずれも達観しているのに驚く。

 校運は隆盛にして、本校はすでに120余年を経た。あの百周年の昭和60年10月を機縁として、富高教職員会(北辰会)の第1回を発足させたことも遠くなつかしい思い出となった。

 「昔をふりかえると、すべては『物語』にすぎなかったかもしれない。容赦なく時は流れ去り、知っていただれもかれもが、愛していだれもかれもが、すでに亡く、すると過去は虚構(フィクション)に、物語に、姿を変えるのではないか」(ピーター・ロビンスン『渇いた季節』)。ロビンスンなるすぐれた英国人作家は1950年の生まれ。引用の言葉は、かれの49歳のときに吐かれた。

 さらにまた、わが郷土の作家堀田善衛は、48歳にして、つぎのように書くが、まったく同感であり、かねて私の感ずる所懐でもある。「世界はそれぞれに無限の円環をもった人々のかさなりであり、それぞれの無限円環が、無限の複雑さでもって互いに交差し切磋している」(『若き詩人たちの肖像』)

 思春期の教育はその人一生の根幹にかかわる面があり、それはきわめておそろしいことだとの考えにとり憑かれて、この念から放れられないでいる。


巻頭言 131号

貼薬との出会い

森 政 雄  61回

略 歴
     
  • 昭和28年  富山大学薬学部卒業
  •  同     立山化成株式会社入社
  • 昭和31年  立山化成株式会社退社
  •  同     株式会社東京広栄堂入社
  • 昭和44年  株式会社東京広栄堂退社
  •  同     リードケミカル株式会社設立

 この度、私の永年の研究テーマであります鎮痛消炎剤領域での薬物療法として副作用が少なく皮膚を介して直接患部に有効成分が到達する経皮吸収貼付剤の発明考案の功績に対し、はからずも黄綬褒章拝受の栄に浴しました。これも偏に各界に亘る数多くの皆様方の温かいご支援ご指導の賜物と感謝いたしておりす。

 私が貼り薬と出会ったスタートは、中沖太七郎先生(前中沖知事のご尊父)の生薬学の門下生としてベルゲニンの化学構造式の研究に没頭した富山大学時代か立山化成を経て広栄堂に入社した時期に遡ります。

 当時、消炎鎮痛成分が果たして皮膚を通して体内に入るかどうかは全く不明であり、この疑問に対するヒントになったのが農薬パラチオンの中毒事件でした。呼吸からではなく、裸足で田んぼに入り、皮膚から農薬が体内に入った事件で、田んぼの水により角質がふやけて農薬が入りやすくなることから、貼り薬に水を加えればいいと考え、さらに薬品によって皮膚から入りやすいものと入りにくいもがあるのではないかと考えたことが、経皮吸収型鎮痛消炎剤の発明考案の原点となりました。

 いろいろ実験を重ねた結果、英国ブーツ社が開発した有効成分フルルビプロフェンが消炎鎮痛剤として非常に強力であり皮膚からの浸透性も高いことが分かり、また皮膚から直接患部に作用するので飲み薬のように胃腸障害などの副作用の心配がないことが分かりました。当時とすれば、皮膚から浸透させるやり方は極めて画期的な方法だったわけです。昭和57年フルルビプロフェンのパップ剤承認を厚生省に申請しました。ところが、前例がないということで保留となってしまいました。しかしながら、その後アメリカでも宇宙飛行士が酔い止め薬を貼付しているという情報が厚生省に入り、ようやく当局も前向きに検討を始めました。その後紆余曲折を経て、昭和63年3月フルルビプロフェンの経皮吸収型鎮痛消炎剤である当社初の新薬「アドフィード」が承認されました。

 このアドフィードは、平成3年には英国ブーツ社とライセンス契約を結びヨーロッパへの輸出も開始することになりました。当時アドフィードが爆発的に売れていく中で、私は併行して三共から提供されたロキソニンの研究を続けていました。ところが三共側が「ロキソニンは肝臓の酵素がないと駄目らしい」とトーンダウンしてしまいました。

 それでも私は執念をもって諦めずにロキソニンの研究を続け、ようやく皮膚および皮下の筋肉中にも肝臓と同じ酵素があり、貼り薬としてもロキソニンが鎮痛効果を発揮することを発見しました。 薬剤としての研究、臨床試験などを経て、ついに平成15年「ロキソニンパップ100mg」として承認を申請し、平成18年1月に承認されました。 経皮吸収型製剤の可能性はまだまだあります。皮膚の薬物透過性をもっと厳密にコントロールできれば、様々な発作の予防に応用できますし、患者さんを点滴の拘束から解放してあげることも可能になります。

 私は常に化学構造で考える習慣がついているのですが、この六角形の化学構造式から夢が現実となっていくのは、いくつになってもわくわくするものです。これからも貼り薬との出会いを大切にし「吾道壱以貫之」を信条として、新しい薬の発見に挑戦し続けていこうと思っています。

巻頭言 130号

精 神 の 頽 廃

八木  近直  65回

略 歴
  • 昭和28年 富山高等学校卒業
  • 昭和32年 東京大学文学部フランス
         文学科卒業
         中学校・高等学校・教育委員会勤務
        (うち昭和35年9月~昭和45年3月富山高等学校勤務)
  • 平成 3年 富山県教育委員会教育長
  • 平成 6年 富山県立近代美術館館長
  • 平成10年 富山県教育委員会委員長

 ソポクレスの「アンディゴネ」が初めて上演されたのは、多分紀元前441年のことである。その頃アテナイはペリクレス時代を迎え、デロス同盟によって覇権を握りギリシア第一のポリスとして繁栄の絶頂にあった。ペルシア戦争を経験した市民の意識は昂揚し、理想的な民主政の実現に向かって前進を続けていた。ソポクレスの悲劇は、この時代を映し出すものである。

 「アンディゴネ」には、通例「人間賛歌」と呼ばれるコロスの合唱歌がある。「不可思議なるものあまたある中で人間にまさる不可思議なるもの絶えてなし」で始まる歌の中で、ソポクレスは人間の「技術」を称えている。それは、ことばをあやつり思考をめぐらすことを、産業を興すことを、そして時には自然をも己が意に副わせることを、可能にするものであった。しかし、詩人の洞察力は、そこに止まるものではなかった。

 この合唱歌の最後の部分には、次のようなことばがある。

まことに、技を織りなす
才知は大方の見込みを越えてなお
時には悪、時には善の道を行く。
国の掟を尊び、神の正義を誓って尊ぶところ
国は栄え、心おごれるゆえに
見苦しきを敢えて行なうところ
国は滅ぶ
               (柳沼 重剛訳)


 「技術」は、確かに、人間を野蛮から文明へと導く。しかし、それ自体は善でもなければ悪でもない。大切なのは、 それを用いる人間の心の有り様である。  10年後、前431年にペロポネソス戦争が勃発する。ペリクレスには勝算があった。迷うことなく籠城策をとったが、この時彼が予想もしなかった事態が発生する。疫病の流行である。病は猖獗を極め、ペリクレス自身も罹患し、死に至った。戦争と疫病は、アテナイ市民から、その理想を、気概を、超越的ものへの畏怖心を、奪っていった。

 トゥキュディデスの「戦史」によれば、「人は、それまでは人目を忍んでなしていた行為を、公然とおこなって恥じなくなった」のである。 これほど、アテナイ市民の精神の頽廃を示すものはない。二度に及ぶ戦争は前404年、アテナイの敗北によって終結をみた。

 ソポクレスが死んだのはその前年のことだった。ポリスとしてのアテナイがこれで消滅したわけではない。 プラトンは健在だったし、アリストテレスも出た。しかし、アテナイが衰退の道をたどるのを押し止めることは、誰にも出来なかった。

 いかなる組織も、その消長には、構成員の精神の有り様が大きく関る。現在の我が国の状況を見る時、いささかの不安を覚える所以である。 これが杞憂に終わるよう努めなければならないだろう。そういえば、同窓会も、組織には違いない。私も会員の一人である。心すべきことと思う。


巻頭言 129号

同窓会永続の基盤づくりに向けて

同窓会会長 犬島 伸一郎  70回

略 歴
  • 昭和33年 富山高校卒業
  • 昭和38年 京都大学経済学部卒 北陸銀行入行
  • 平成10年 北陸銀行頭取に就任
  • 平成14年 北陸銀行頭取を退任
  • 同行特別顧問に就任
  • 平成15年  財団法人北陸経済研究所理事長に就任

  • (現任)
  • 北陸銀行特別参与に就任
  • 平成19年 富山商工会議所会頭に就任(現任)

和33年卒業、70回生の犬島です。

 昨年(平成18年)の同窓会総会において、それまで10年もの間、会長として本会の発展に尽くされ、惜しまれつつ辞任された松井元太郎前会長の後任として会長に選任され就任いたしました。

 本会の「会報」は、従来、会費を納めていただいている普通維持会員および永久会員の方々のみに配布しておりましたが、平成19年度の総会において、同総会始まって以来ともいえる「規約」と「組織」の大改革がおこなわれましたので、その内容と改正の趣旨をお知らせし、ご協力をお願いするため、すべての会員の方々に本「会報」をお送りすることになりました。このため、大多数の会員の皆さまには、今回初めてご挨拶することになりますが、あらためて、よろしくお願い申し上げます

 会長をお引き受けする決意をした時、現校舎の正面玄関の壁に掲げられた「慎重敢為」の校訓を思い出し、富山高校に学んだ者にしか分からない緊張感を感じたことを思い出します。ところで、就任後しばらくして、会の運営に関連して大変重要な問題が二つあることが分かりました。そして、この1年間、これら二つの問題を解決するにはどうしたら良いか、他の役員の方々と他校の例も参考にしながら、何度も相談を重ねてまいりました。その結果、冒頭に述べたように「規約」の改正と、運営組織の強化をはかることになりました。改正内容と、改正の背景に関する詳細は、2ページをご覧いただくこととし、ここでは要点についてのみ申し上げ皆様のご理解とご協力をお願いしたいと思います。

 問題の一つ目は、従来のままでは会運営の財政基盤が先細りする一方で、会として従来やって来た経常的な事業を継続することさえ難しくなるのではないかと思われたことでありますが、これに対しては、永久会員制度を廃止し、全会員に年会費1000円を納入していただくようお願いしたいということであります。

 二つ目は、会の事務局の運営が母校の先生方のご好意に頼りきりで、日常業務追われる先生方の負担は限界に達しており、会員情報の随時更新と管理の厳正化など新たな負担をお願いすることなどとても無理だろうと考えざるを得なかったことでありますが、こうした事態を解決するためには、われわれ会員で自前の事務局を作り、先生方にはご協力をお願いするという形で事務局を運営するよう改めるべきだと考えました。ただ、自前の事務局を維持するには経費もかかりますので,これが年会費の納入をお願いする理由の一つでもあります。

 もっとも多感な青春のひとときを、一緒に過ごした者達が、また、学び舎や先生を同じくした者同士が、お互いの交流を、言葉が無くてもはかれる世界があります。それが同窓会であろうと思います。そのような役割を果たす「富山高校同窓会」が長く存続し、さらに幅広い交流の場を提供できるようにすることが、今回の「規約」改正と「事務局」の設置だとご理解いただき、お力添えをいただきますようお願いいたします。